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月灯りの下で君と交わした約束

作者: 湊

「疲れた…」


その日の最終電車にすべりこみセーフで何とか乗り込むと、中川(みなと)はつり革を掴みながら人目を憚らずついそのような独り言を漏らしてしまったのだった。


プログラマーとして二年目となる湊はその日、心身の疲労が限界に達しようとしていた。


休日返上で某銀行の炎上プロジェクトの対応に追われた湊は地獄のような数週間を終えて、明日やっと久々の休日を手にすることができたのだった。


大学を卒業した後、令和のスティーブジョブズに俺はなる!と期待に胸を膨らませてプログラマーとして就職した湊だったが、理想と現実は全く異なっていた。


コロコロとプログラムの仕様の変更を要求するクライアント、完成するまで帰れると思うなよ(威圧)と理不尽なノルマを要求してくる上司、迫りくる納期、原因が全く分からず解決のしようがないバグ…


仕事が自分という存在を虐めるためのものにしか感じられなくなってしまい、ほとほと嫌気がさしてきたのだった。


しんどいな…なんなんだろう俺の人生…


ふとスマホから窓に映る自分の姿に目をやると、疲労で目のハイライトが失われていることに気づき、ぎょっとした。最後に定時ちょうどに退社したのはいつだったか、もう思い出すこともできなかった。


明日は久々の休日だというのに全く心が躍らなかった。大した趣味もなければ、親しい友人も恋人もいないので休日は何もすることがないのだ。何もする気力が起きないといった方が正しいのかもしれない。どうせ明日は屍のごとく昼過ぎまで寝ているのだろう。


そう考えると自分がみじめになってくる。


最寄り駅に到着し、のっそりした重い足取りで列車から降りるとホームでカップルが仲良く手をつなぎながら楽しそうに歩いているのが見えた。


俺にもあんな風にかわいくて優しい彼女でもいれば多少はこのモノクロの人生が色づくんだけどなー…


幸せいっぱいのカップルを横目に、湊は負のオーラをまき散らしながら最後の気力を振り絞って自宅マンションへと向かうのだった。



――――



自宅の玄関前でカギを差し込んだ湊は不審に思った。飼い犬のサクラが鳴かないのだ。


普段ならカギをカギ穴に差し込んだ時点でメスのポメラニアンのサクラが感づいて勢いよくワンワン吠えるのだが、その日はまるで反応がなかった。


不審に思いながらガチャリと玄関のドアを開けると、室内は真っ暗で静まり返っている。


おかしいな、いつもならサクラが喜んで駆け寄ってくるのに。


足音を澄ましてリビングの方へ向かうと、かすかだがテレビの音が聞こえてきた。サクラが寂しがって吠えないように、いつも外出時はテレビをつけっぱなしにしているのだ。


実家のお袋が来たのか?でも来るときはあらかじめ電話するはずだし…


恐る恐るパチッとリビングの電気を灯した湊の目に飛び込んできたのは、サイズの合わないぶかぶかのワイシャツだけを身に着けて、ソファーベッドの上で気持ちよさそうにすぅすぅと寝息を立てている『女の子』の姿だった。


「おおおおおお!?!?!?!?」


目を白黒させて驚愕した湊の頭に真っ先に浮かんだのは『うっかり部屋を間違えてしまい、このまま住居侵入罪で通報されてしまうのでは』だった。


でも間違いなく自分のカギで部屋に入ったし、テレビの上に置いてある写真立ての写真は紛れもなく家族のものだ。つまりここは俺の部屋で間違いない。


「えぇー…どゆことなの…?」


恐る恐る顔を覗き込んでみる。少女の歳は中学生程だろうか。


ぶかぶかのワイシャツからあられもなく二本の生足を露出させて、長く伸びた雪のような真っ白な髪がソファーからフローリングに垂れ下がっている。びっくりするほど小顔で、目鼻筋がくっきりしていてかなりの美少女だった。


驚いたのはその娘の「耳」だった。普段目にする人間の耳ではない。その娘の「耳」は頭頂部に二つ、秋葉原の猫耳メイドさんの如くぴょこんとかわいらし気に突き出ているのだ。


事態が全く呑み込めないまま、湊はとりあえず「あの…」と声をかけてみたが、少女は起きようとしない。まるでこの世界のありったけの平穏無事をそこに凝縮したような安らかな寝顔で、すぅすぅと寝息をたたえていた。


仕方なく少女の肩に手をかけ、ゆすってみた。すると、「んっ…」という声と共に少女は片目をぱちりと開けた。


「んぁ…ふわぁ~あ?兄ちゃん帰ってたんだ。お帰り~♪」


甘ったるくけだるげな声で少女は呑気に手を振りながらそういったのだった。



――――



「お、お兄ちゃんだって?君は…誰なの?」


「ん?何言ってんのお兄ちゃん?」と少女はきょとんとした表情で答える。


湊は必死に自分の脳内にある『今まで生きてきて出会った人データベース』から少女の顔にマッチする人物を全力で探し当てようとした、が見つからなかった。


湊の頭はぐるぐるでパンク寸前だったが、飼い犬のサクラがいないことに気づきはっとした。


「ええっと、そうだ君。犬のサクラを知らない!? これくらいの小さいポメラニアンで俺が帰ってきても家にいないんだよ!」


「ん~サクラぁ?何言ってるのお兄ちゃん。わたしはちゃんと目の前にいるじゃん」


少女は不思議そうな表情で湊をしばらく見つめていたが、急にふひひっといたずらっぽい笑みを浮かべた。


「あ、そっか。お兄ちゃんはわたしがニンゲンになったこと、知らないんだっけ。えっへへ~だよね~。えへん、わたしがサクラです!お兄ちゃんといつもいるワンコの。神様の力でニンゲンの身体にしてもらったんだ♪」


訳が分からず呆けた顔をした湊に対して、少女はふふんと誇らしげに薄い胸を張りながらドヤ顔でそう言ったのだった。


「あ、ちなみにこの服は洗濯機の中にあったやつを借りたよ。ぶかぶかだけど、お兄ちゃんの匂いがして落ち着くんだよね~」


「うーん。ごめん俺さ、自分の部屋に彼シャツ姿の見知らぬ女の子がいる時点で何もかもが理解できないんだけど…」


「むふーふ、どうやらわたしがサクラだって信じてくれないみたいだね。でもどうしたら信じてくれるかなぁ。うーん…あ、そうだ!」


その娘は突然何かひらめいたように勢いよくソファーから立ち上がると、テレビに駆け寄りその上に飾ってある湊の家族写真を手に取った。


「わたしね、この写真の人の名前全部わかるよ。こっちのおじさんが敏樹さん、その隣のおばさんが久恵さん、でこっちの若い女の人が美海さん。お兄ちゃんのお姉さんだね」とその娘は湊の父、母、そして姉の名前をぴたりといい当てて見せた。


「そうだよ…でもなんで君が俺の家族の名前を知ってるの?」


「なんでって、そりゃあお兄ちゃんとは長い付き合いだからね。前にもこの人たち、この家に来てみんなで楽しそうにご飯食べてたじゃない」


確かに数か月前、家族皆で湊の住むこのマンションに集まって久々に食事会をしたのだ。でもなぜそのことをこの娘が…


「むー、お兄ちゃんその顔、まだわたしのこと疑ってるね。そうだなぁ…じゃあ~お兄ちゃんのほかの人が知らなさそうな秘密をいくつか答えられたら、わたしが犬のサクラだって認めてもらえる?」


「人に隠すほどの秘密なんてないけど…まぁいい。なんか俺について知ってること言ってみてよ」


その娘は探偵のように顎に手を当てて天井をしばらく見つめていたが、急に何かを思い出したように、にへらっといたずらっぽい笑みを浮かべるとこういった。


「お兄ちゃん、最近付き合ってた女の子に振られてベッドの中で泣いてたでしょ?あたしソレ見てたよ。お兄ちゃんあの時『ひぐぅうううう!!! どうして自分だけぇええええ!!!』って言いながら号泣してたね♪」


「なあああ!?」


誰も知らないはずのことだった。確かに3か月ほど前、一年以上付き合っていた女性にLINEで「ごめん。貴方より好きな人ができたから」と最悪な形で振られてしまい、布団にくるまりながら口惜しさと悲しさと情けなさで号泣してしまったのだ。到底自分以外の人類に見せられるイベントではない。


「どうしてそのことを…」


「あっはは♪ あの時お兄ちゃんの部屋のドア空いてたからね。まぁあの時は早く泣き止んでさっさとわたしをお散歩に連れてけーとしか思わなかったけど」


呆然とする湊に対して、その娘はなおも畳みかけてきた。


「んー?まだ信じられない?そうだなぁ…あ、じゃあこれはどうかな。お兄ちゃん。毎朝お仕事に出る前にいっつも鏡の前でこう言ってるよね。」


湊の首筋にツツーっと冷たい汗が流れるのが感じられた。恥ずかしくて人前では到底言えない、あの言葉…


「令和のスティーブジョブズに俺はな…」


「うゎああああああやめろおお!!! わかった! わかったからこれ以上は言わないでくれサクラ!!!」


ようやくわかってもらえたかと、その子は満足げにうなずくのだった。



――――




「で、君が元は犬のサクラだとして、どうやって人間の姿になることができたの?」


「えっとね。わたしたち犬族の世界にはね、神様がいるの。でね、神様にほんの少しでいいからニンゲンにしてくださいって頼んだら、叶えてくれた♪」とその娘はさも平然と答えた。


にわかに信じ難いが話の腰を折るのもどうかなと思い、この娘の話に乗ってみることにする。


「なるほど、犬のえらい神様がいてお前を人間の姿にしてくれたと…」


「あ、でもすべての犬の願いを叶えてくれるわけじゃないよ。わたしこの前ニンゲンの男の子を助けたじゃん。神様がそのことを知って『お前は素晴らしいことをしたから』ってご褒美として一日だけニンゲンの姿にしてもらえたんだ」


その言葉を聞いて湊ははっとした。確かにサクラは先日の散歩中、崖から落ちて怪我をした小学校低学年の男の子を発見したことがあったのだ。


ある夕暮れ時の散歩中にサクラが人気のない崖下を覗き込んでしきりに吠えたので、なんだろうと湊も覗き込むと男の子が頭から血を流して倒れているのを見つけた。すぐに降りて男の子を担ぎ上げ、救急車を呼んで搬送してもらったという出来事があったのだ(幸い男の子の命に別状はなく、後日その子のご両親からお礼としてかなり立派な羊羹を頂いた)


「あー、あったね。そんなこと。でもどうしてサクラは人間になりたいと思ったんだ?」


「…ずるいんだもんっ」


サクラがボソッとつぶやいた。


「ん、今なんて…」


「ニンゲンばっかり楽しい思いしてずるいんだもん!!! おいしいものいっーぱい食べて、楽しいところでいっーぱい遊んで、みんなで楽しそうに笑っててずるいもん!!!

わたしのご飯は毎日おんなじドッグフードだし、ずっと長い間一人ぼっちで暗い部屋でお留守番だし、もう嫌!!! 犬なんかやめたい!!!」


口角泡を飛ばしながら鬼気迫る表情で突然まくし立ててきたので、湊は思わずたじろぐ。


その時、ひぐっ…ひぐっ…というしゃくり声と共にサクラの目から大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。


「ずるいよ…ニンゲンばっかり…」


「…」


サクラにかけてあげる言葉が見つからなかった。確かにこのところ残業続きで晩ゴハンが深夜ゴハンになっていたし、散歩に連れていけない時もあったっけ…


「…お兄ちゃん、男の子を助けたときにもらったお菓子だって、お兄ちゃんがぜーんぶ一人で食べちゃったじゃない」と恨めしそうな眼で見つめてきた。


「いやだってアレ羊羹だし…犬は食べちゃダメなやつなんだよ」


「それがずるいの!怪我した男の子を最初に見つけたのはわたしじゃん!わたしだって食べたかったのに!」


そういうと堰を切ったようにおんおんと声をあげてサクラは泣き始めた。


目の前で少女が号泣する様子を唖然とした表情で見ていた湊だったが、次第に申し訳なさで胸が痛んできた。


湊はソファーに腰を下ろすと、むせび泣くサクラを胸元に抱き寄せて優しく頭を撫でてやった。かつて自分が幼いころ、母がそうしてくれたように。


「…ごめんなサクラ。最近は帰ってくるのも遅かったし、散歩も行けずつらい思いをさせてしまったね。ごめん…」



――――



そのまましばらく湊の胸の中で泣いていたサクラだったが、しばらくすると落ち着きを取り戻してくれた。


湊はサクラの頭を撫でているうちにふと、頭から生えている犬耳がふわふわと柔らかくて気持ちがいいことに気が付く。


「なぁサクラ。お前人間になっても耳だけは犬のまま残っちまったんだな」


「ん~そだね。なぜかお耳だけはそのまま残っちゃったねー」と涙で目を真っ赤に腫らしたサクラが答える。


「ふーん」と湊は生返事をすると、興味本位でサクラの耳を両手のひらで包んでくにっと揉んでみた。すると、


「ひゃうぅ!?」という悲鳴と共にサクラが顔を真っ赤にしてびくんと体を震わせた。


やっぱりだ。このワン公の性感帯は耳にある。


以前湊がサクラが犬の姿をしている時に、耳をマッサージして気持よさのあまり白目を剥いてよだれを垂らしたことがあったのだ。


「ふぇ、ちょっとお兄ちゃん何やってるの?」


「だってお前、耳マッサージされるの好きなんだろ?」


急にいたずら心がわいてきた湊はサクラの背後につき、両足でサクラをがっちりと逃げられないようホールドすると、猛烈な勢いでサクラの犬耳をわしゃわしゃし始めた。


「あひっ! や、やめてお兄ちゃん…ほんと、ひぅう!!そこだけはっ!やっ!もっ!」


電気椅子に掛けられたがごとく、サクラは四肢を激しく動かして悶えた。


湊の全身がゾクゾクとした背徳感に包まれていく。もっともっとこの少女が乱れるところがみたい、そう思いより一層激しく耳を揉む。


「んっやぁあぁ…本当に、おにぃ、ちゃん…! お願いっだからぁあ…!」


だらしなくよだれを垂らし、とろんとした目でサクラはやめてほしいと懇願するが、女の子の身体を完全に支配しているという優越感から湊の方も我を忘れて完全にノッてしまっていた。


湊の理性のタガがもうすぐ外れそうになったころ、それは起こった。


「んっ…お願いだから、やめておにぃちゃん…っ! やめ、やめてお願いやめ…やめろっつってんのが聞こえねぇのかよオイゴラァてめぇ!!!」


犬歯をむき出しにして目を血走らせたサクラが怒涛の勢いで吠えてきたのだ。


いきなり少女からプロレスラーの如くドスのきいた声でブチ切れられ、度肝を抜かれた湊はサクラを両足から開放すると「す、すみません!」と思わず敬語で謝ってしまった。


さっきまであんなに泣いていたのに…


そういえば犬のサクラも喜怒哀楽の激しいやつだったということを湊は今更ながら気付いたのだった。



――――



腕を組み仁王立ちしたサクラは、虫ケラを見るような軽蔑の目差しをフローリングに正座させられている湊に対して向けていた。


「最っ低…ッ!今度同じ事やったら、わたしマジで噛み付くから」


白い髪がぼさぼさになったまま、むすっとした表情でサクラはそう吐き捨てるように言った。


「もうしません…」


確かに憧れの人間になった直後に飼い主にされるがままに弄ばれるのは嫌だったろうな、と湊はちょっと反省した。


犬の世界に嫌気がさしてしまい、人間の世界に憧れてたった一日だけ人間の姿になった少女に、何かしてあげられることはないだろうか…


「なぁサクラ。お前人間の世界でやりたいことがあって人間にしてもらったんだろ?具体的にどんなことがしてみたいんだ?」と湊は話題をそらすように恐る恐る尋ねてみる。


「何?言ったところでアンタが叶えてくれるの?」


サクラは不機嫌そうにまだむくれていた。


「さっきまでお兄ちゃん♪って呼んでいたのにアンタってお前… 俺ができる範囲であれば、サクラがやりたいこと、なんでも付き合ってあげるぞ」


それを聞いた瞬間、サクラの犬耳が勢いよくぴょこんと跳ね上がった。


「ん? 本当に何でも!? 本当!? マジで!? やったー! お兄ちゃん大好き!」とうれしさのあまりサクラが抱き着いてきた。


「じゃあわたし、お兄ちゃんとニンゲンの女の子みたいにお買い物がしたい! かわいいお洋服とか選んだりして…あ! あとおいしいものもいーっぱい食べてみたい! そのあと遊園地?って場所でたくさん遊ぶの!」と目をキラキラと輝かせながらサクラはまくし立てた。


一日中に叶えたい要望としては、消化するのが少々大変そうに思えたが、頑張ればなんとかなるだろう。


「買い物とメシと遊園地な。よし来た。いいぞ全部お兄ちゃんが叶えてやる。ただ今日はもう仕事で疲れたから寝かせてくれ…」


その夜、湊はテンションMAXではしゃぐサクラを何とか寝かしつけた後、泥のように眠ったのだった。



――――



翌朝、湊は中学時代の体操着を押し入れから引っ張り出して、サクラに着せてあげた。


着替えさせようとワイシャツを脱がせたとき、サクラのほのかな乳房の膨らみと桜色の乳首を思わず見てしまったが、家族の裸を見ているようで不思議と邪な感情は起きなかった。


「お兄ちゃん。この服なんか埃っぽいし嫌~…ぶかぶかだし」


「しょうがないだろ。うちに女の子の服なんてないんだし。後で買ってやるからそれまで辛抱しとけって」


耳を隠すために湊の少年時代の野球帽を頭にぽんと被せると、不満そうにサクラは「は~い…」と返事をした。


道中、少女を連れまわす不審者に間違われていないか不安に思いつつ、湊はサクラを連れて近所のショッピングモールの女性服売り場を訪れた。


「ねね、お兄ちゃん。これはどう?似合ってるかな?」


試着室の中で流行りのコーデを身にまとったサクラが目を輝かせながら訪ねる。


「んーいいんじゃね。どれも似合っててかわいいよ」


「ねー、お兄ちゃんなんで今日はそんなにテンション低いの?もっとこう褒めてよ。『わ~かわいい』とか『お人形さんみたい』とかさ。」


「あー、うんうん。そうだな。キャーステキー。オニンギョサンミターイ(裏声)」


最初のうちは湊もサクラの着せ替えをかわいいと思いながら見ていたが、かれこれ一時間以上試着室にこもり、サクラからお願いされた服を取ってきては戻すのループを繰り返すうちに疲れてしまった。


昨日からの仕事の疲れが取れてない…


今日一日、この調子で自分はサクラのはすべての叶えられるだろうかと思うと先が思いやられる。


「もー、まじめにやってよお兄ちゃん。じゃ、わたし今着ている服にする」


サクラが選んだのは秋らしい、 黒の革靴に黒のミモレ丈スカート、白シャツという組み合わせだった。さっきの芋ジャージと野球帽から一気に女の子らしさが増す。


「ふーん、馬子にも衣装…」


「ん?今なんか言ったお兄ちゃん?」


「何でもない。あと犬耳が目立つからこれも身に着けとけ」と湊はリボン付きの黒のベレー帽も押し付けた。


店を出るときのサクラは鼻歌交じりで上機嫌だった。


「そんなに嬉しいか?」


「超うれしい! あたしね、犬の服じゃなくてニンゲンの女の子のお洋服を着て歩くのがずっと夢だったんだ!」とサクラはえへへと相好を崩すと湊の二の腕に抱き着いてきた。



――――



そのあと湊はサクラを焼き肉店に連れて行ってあげた。


なぜ焼き肉店にサクラを連れてきたかというと、以前家族で家焼き肉をした際にサクラが「わたしも欲しい」とばかりに物欲しそうな目でジーっと見ていたことを思い出したからだった(むろん犬に人間の食べ物を与えるわけにはいかないので、その時は可哀そうに思いながらスルーしたが)


最初肉が焼けるのをよだれが落ちそうになりながら我慢して見ていたサクラだったが、焼けたネギタン塩を一口食べて咀嚼するうちに、みるみるうちにテンションが下がっていく。


「どうしたサクラ?」


「うぇ、なにこれしょっぱい…お兄ちゃん、ニンゲンってこんなに味が濃いものを食べてるの…」


そういってサクラはグラスに入った水を一気にごくごく飲み干す。


「そうか?別に普通の肉だと思うけど…そういえば犬が食べるドッグフードは人間の食べ物と比べてかなり塩分が少ないんだっけ」


「うーん、焼いてる時の匂いはいいんだけどね…でも食べてみたら、思ってたのと違った」


するとサクラが突然「あたしこのままでいいや」と言って焼く前の生のカルビを素手でぬちゃぁと掴むと、そのままむしゃむしゃと食べ始めた。


「えぇえ!?何やってるのお前!?腹壊すよ?」


「うん、こっちの方がおいしい!おかわり!」


「ちょっやめなさい!店員さんがこっち見てドン引きしてんだろ!」


「んゃだぁ!わたしもっと食べたいのにー!」


追加の肉を注文した後、仕方がないので肉を焼くふりをして生の肉をサクラに食べさせたが、店員から一度受けた疑惑の念は晴れることはなく、店を出るまで奇異の目で見られ続けたのだった…



――――



「ただいま秋のキャンペーン中でして、カップルの方はこちらのお揃いのリストバンドをつけていただくと半額でご入場いただけます」


遊園地に入る前のチケット売り場で、湊は案内の人にそう言われた。


サクラと一緒にいることで恋人同士だと思われたのだが、いちいち否定するのも面倒なのでそのままカップル割引きのプランをお願いした。


「わぁ、お兄ちゃん見て。この手首に巻いてあるやつお兄ちゃんとお揃いだね♪」


サクラが左手首に巻かれたリストバンドを空にかざして、目を輝かせる。湊の右手首に巻かれているリストバンドと重ねるとちょうどハート模様になる仕様になっていた。


「早くいこ!お兄ちゃん!」とハイテンションでサクラが湊の袖をぐいぐい引っ張ってくる。


「おいまてってサクラ。袖が伸びんだろ」


そのあと湊は怒涛の勢いでパーク内を端から端まで連れまわされたのだった…



――――



「うぐぅ…」


湊は真っ青な顔でよろめきながら街灯に手を付くと呻き声をあげた。


「お兄ちゃん大丈夫?」とサクラがけろりとした表情で湊の顔を覗き込む。


「全然大丈夫じゃない…あのヘビーすぎるジェットコースターを5回連続で乗るやつがこの世のどこにいるんだよ」


「あれ超楽しかったねーおなかのあたりがふわーってなったかと思ったら今度はずっしーんって来るんだもん!毎日乗りたいくらい!」


「…俺は疲れた胃と頭にGがモロにのしかかってきて何度も死ぬかと思ったよ…」


「ね、お兄ちゃん。最後にアレに乗りたい」とサクラが指さした先に、夜空に煌々と輝きながら回る観覧車があった。


観覧車か…あれなら乗っても疲れずに済みそうだ。


「いいぞ。もうすぐ閉演時間だし、最後にアレだけ乗って帰るか」



――――



閉園間際とあって観覧車の前には列ができていた。


係員の案内に沿って、サクラと手をつないで順番を待っていると、ふとどこかで聞いたことがある若い女性の楽しそうな声が列の前の方から聞こえてきた。


「でさぁ、アタシその時マジで?って思ったんだよねー」


どこかで聞いたことがある声…


もしやと思い、湊の心臓の鼓動がどんどん高鳴っていく。


まさかそんなことがあるはずないと思いながら、湊はさりげなく列からはみ出て声の主の顔を見てみた。


「そりゃもうサイアクでさーキャハハッ」


間違いない。声の主は三か月前、自分をLINEでこっぴどく振った『亜理紗』だった。一人ではない。金髪で耳にピアスを付けたジャニーズ系の男と手をつなぎながら楽しそうに話していたのだ。


「あ、あぁ…」


湊は絶句した。


元恋人が『自分とは真逆の男』と楽しそうに過ごしている。


その時、湊はなんとも言えないどす黒い劣等感をバケツ一杯に頭からぶっかけられたような気分に陥った。


頭から被せられてぽたぽたと足元に滴り落ちた劣等感の水滴は、次第に血のように真っ赤に染まっていく。


湊の腹の底から腸が煮えくり返るほどの負の感情が沸き起こる。その負の感情は仕事がうまくいかないストレスも相まって、もうどうでもいいからこの女をここでぶっ殺してやりたいという『殺意』になった。


俺と別れた後にもうほかの男とくっつきやがって…ふざけんな!ふざけんな!ふざけやがって…!


湊の鼻息は荒くなり、額から油汗が滴り落ちる。目の前が真っ赤になりかけていたそのとき、


「大丈夫、お兄ちゃん?」


サクラが手をぎゅっと握って心配そうな表情で見つめてきた。


瞬間、湊ははっと我に返った。


「…ごめん、ちょっと疲れててな。気にすんな…」


その言葉を聞いてサクラも湊の異変を察した。


「ううん、今日はもう十分楽しかったよ。だからもう帰ろうか。お兄ちゃん」



――――



自宅に着いたとたん、湊は疲労のあまり電気も付けずにそのままソファーベッドに倒れこんでしまった。


「つっかれた…」


仰向けで天井を見ていると、サクラがにやにやと笑みを浮かべながら覗き込んできた。


「えー、あれだけで疲れるとか。お兄ちゃんはどんだけ虚弱なんだよ~」


「そりゃあ仕事明けにあれだけ連れまわされちゃな…第一お前は俺が元気じゃない時に限ってメチャクチャ元気だよな」


「むふーふ、そうだっけ。まぁお疲れさま。おかげで楽しかったよ♪ お礼と言っては何だけど…」


そう言うとサクラは湊の頭のすぐ隣にすっと腰を下ろす。


「ご褒美にサクラちゃんの膝枕を堪能させてあげよう♪」


「…別にいい。そこの枕もってきてくれ。もう眠い。」


「え~、せっかくかわいい女の子が膝枕してあげるって言ってるんだよ?このチャンス逃すとかお兄ちゃん馬鹿なの?」


こいつ今自分で自分を『かわいい』って言ったよな…


とはいえサクラの言うことも一理ある。この機会を逃せば、次は永遠にやってこないかもしれないのだ。


「どれ、お前がワン公の姿に戻る前に膝枕を堪能させてもらうとするか…」


「ん、いーよ。じゃあおいで」


サクラの膝の上にそっと頭を置く。それはまるで良質の枕のごとくサクラの膝はふわっと柔らかで、心地よかった。


「こりゃいい。飼い犬の膝枕…毎日仕事終わりにやって貰いたいくらいだ…」


「むふーふ、でしょー」



――――



しばらくお互い無言のままサクラの膝枕を堪能していた。油断するとすぐ眠りに落ちてしまいそうだった。


サクラは湊のシャツの第二ボタンを片手でぽつぽつと止めたり外したりして弄んでいたが、突然


「…ねぇ、お兄ちゃん」と切り出してきた。


「ん?なんだ?」


「あたしね。あと一つだけニンゲンとしてやりたいことがあるんだ。お兄ちゃんとしたいこと…」


サクラの声のトーンが先ほどのほわほわした感覚から急に本気になったので、思わず湊も何事かと思い緊張する。


気になって視線をサクラの方に向けると、そこにはちょっぴり寂しそうな、大人びた女性の表情でじっと見つめてくるサクラがいた。


月明かりで照らされたぷっくりとした唇がなまめかしく、湊は思わずどきっとしてしまう。


「な、なんだよ改まって…」


サクラは湊の耳元に唇を近づけると、こう囁いた。


「お 兄 ち ゃ ん と ー 、キ ス し た い … 」



――――



「俺は生ASMRまでは望んでいない…っ!」


湊は顔を真っ赤にして思わずがばっと跳ね上がる。


一体何を言ってるんだこのワン公は?


えへへっと恥ずかしそうにうつむきながらサクラは語りだした。


「…まえテレビでね。男の人と女の人がお互い見つめあってキスしてるのを見たの。口と口を合わせてね。その人たちね、すっごく嬉しそうで、すっごく幸せそうだったよ。だからわたしもあんな風に大好きな人とキスしたい」


普段寂しさを紛らわすために着けたテレビでそんな卑猥なシーンが流れていたのか…よし、今度からN〇Kだけ流そう。


「だから、お兄ちゃんに最後のお願い。わたしとキスして。あったかくなりたい…」とサクラは訴えかけるようなまなざしを向けてきた。


湊は「あー…うー…」と声にならない声を出して狼狽した。以前付き合っていた彼女とはプラトニックな関係だけで終わってしまったため、恥ずかしいことにこの年になっても異性とキスすら満足にしたことがなかった。


「ダメ…なの?」とサクラは目を潤ませながら聞いてくる。


「お願い…もう時間がないの…」サクラは今にも泣きそうな声でそうつぶやくと、湊の背に両腕を回してぎゅっと抱きついてきた。


「いや別にダメじゃないけどさ…」とシドロモドロになりながら湊は答える。


女運がいままで皆無に等しかった湊の人生において、美少女が自らキスを求めているという状況をうまく飲み込むことができなかった。


朝にサクラの裸を見た際は別になんとも思わなかったのだが、キスをしてほしいと頼まれた今、サクラが『女』であることを完全に意識してしまっていた。


湊の心の奥底にいる悪魔が囁く。


『据え膳食わぬは何とやらっていうじゃねぇか。その娘の唇を奪っちまえ。構やしねぇよ。どうせ明日の朝にはこの娘は人間の姿に戻ってるんだ。そのまま押し倒して欲望のままその先のことも思い切ってやっちまいな』


湊もサクラをぎゅっと抱きしめると、「じっ、じゃあ目を瞑って…」と声を震わせながら答えた。


サクラはすべてを受け入れたようにこくんと小さくうなずくと、おとなしく目を瞑る。


湊も深呼吸して覚悟を決めると、サクラの小さな顎に手をやりゆっくり唇を近づけていった。


近づくにつれ女の子特有の甘い香りが湊の鼻腔をくすぐり、自分の心臓の鼓動が信じられないほど大きな音を立て、密着したサクラの胸からも小さな鼓動がトクントクンと可愛らしく波打つのが感じられた。


湊とサクラの唇が降れるか触れないかの刹那、湊の頭にどこかで聞いたことがあるような懐かしく、優しい声が聞こえた気がした。


「…サクラのことを、頼みましたよ。ミナトさん」



――――



湊ははっとすると、近づけていた唇をサクラの顔からゆっくり遠ざけた。


「どうしたの、お兄ちゃん?」


「ごめんサクラ。お前とキスは…できない」


「なんで?」とサクラは真顔で問うてくる。


「ミミと約束したから。お前のことをよろしく頼むって」


それを聞いてサクラもはっとする。ミミとはサクラの母犬のことだ。湊が小学生のころ初めてうちにやってきたポメラニアンで、湊とは兄弟同然に育った相棒だった。昨年天寿を全うして天国へと飛び立ったのだった。


「朝起きたらさ、ミミが冷たくなって死んでたんだよ。安らかな表情でさ。歳食った犬だからある程度覚悟はしてたけど…もうそれ見たとたん俺、ミミを抱いて子供みたいにわんわん泣いちゃってさ…」


サクラは何も言わず、終始無言で湊の話を聞いていた。


「その時な、ミミの声が聞こえた気がしたんだよ。


『ミナトさん、今までお世話してくれて本当にありがとう。サクラをお願いね。あの子ちょっと乱暴でワガママなところあるけど、さみしがり屋さんだから。お兄ちゃんとしていっぱい可愛がってあげてね』


ってさ…」


「…」


「俺もサクラのことが大好きだよ。わがままで、食いしん坊で、怒りっぽいけどさみしがり屋の大切な妹…俺はお前を兄として守りたい。お前の兄として、妹とキスするのは違うと思うんだ。今お前とキスしたら、ミミとの約束を破ることになっちまう…」


「ママとそんな約束してたんだね。ふーん、そっか…」とサクラはぷいっとそっぽを向いた。


「だからその、ごめんな。お前のファーストキスは、将来お前と子供を作るオス犬のために取っておいてほしい」


白髪の少女は月明かりの下ではしばらく不満そうな顔をして立っていたが、やがて


「わかった。キスは今のところは諦める。あーあざんねん…そんなマジメ君だからお兄ちゃんは女の子にもてないんだよ」


サクラにしては珍しく諦めが早いな…


しばらく暗い部屋の中で気まずい空気が流れていたが、沈黙を破るように


「あ、そうだお兄ちゃん。さっきの膝枕の続きしてあげるよ。もう時間ないから。ほら、こっち座って座って」


と湊を膝の上に招いた。


「お、おう…そうだな」


再度ソファーベッドに身を横たえ、頭をサクラの膝の上に置く。ふわりとした柔らかな感覚が湊の側頭部を覆った。


「あ~あったかくて、柔らかで気持ちいい…」


「お兄ちゃん、今日は一日付き合ってくれてありがとう。すっごーく楽しかった♪ でもニンゲンの世界って楽しいこと沢山だけど、大変なことも沢山みたいだね」


「ああ…大変なことばかりだよ…生きるってのは辛いことだらけだ」


「でもあの遊園地ほんっとうに楽しかったなー犬に戻ってもまた行きたい♪」


「最近はペット同伴OKのテーマパークもあるみたいだから、今度連れて行ってやるよ」


「わぁ!本当?約束だよ。必ず連れて行ってね♪お兄ちゃん!」


サクラは上機嫌で「いい子いい子~♪」と言いながら湊の頭を撫で始めた。と同時に激しい睡魔が襲ってきた。


「ああ、約束…」


そうか細くつぶやくと、湊の意識は麻酔に掛けられたようにどんどん深い眠りに落ちていったのだった。



――――



その夜、湊は不思議な夢を見た。


真っ暗な空間の中に、目の前に人間の姿をしたサクラが立っている。それも純白のウエディングドレスを身にまとって。


サクラの腰に手をやり、引き寄せて唇と唇を重ね合わせる。


少女の甘い香りとふにゅりとした柔らかな唇の感触がリアルに伝わってきて、脳がとろけそうになる。


なんだ?これは夢?それとも現実か?


唇を離すと、少女はえへへっと恥ずかしそうに微笑んだ。


「これからもずーっと一緒だよ。お兄ちゃん」



――――



翌朝、湊は何かに顔面をべろべろと舐められる不快感で目覚めた。


目を開けると、目の前に犬のサクラがへっへっと嬉しそうに湊の口の辺りを舐めていて、仰天する。


「ゔぇぇえ!きったね!何しやがんだこのワン公!」


そのまま洗面所に飛び込むと、うがい薬でガラガラと勢いよく2、3回ほどうがいをした。


ふと床に目をやると、昨日サクラが着ていた女ものの服や下着がフローリングの上に乱雑に散らばっていた。


サクラと写真を撮ったことを思い出し、スマホのアルバムを開くと、サクラの楽しそうな笑顔がちゃんと保存されていて安堵する。


「夢じゃなかったな…」


しばらくそのままぼーっと犬のサクラを見つめていたが、しびれを切らしたサクラがくぅーんと鳴いた。


ああ、悪い悪い。今日も休みだし、エサをあげたら久しぶりに朝散歩に連れていくか。


「おいで、さくら!」


サクラは湊のもとにたたたっと駆け寄ると、元気よく吠えた。


「ワン!」



――――



後日談


その数週間後、世界はコロナウイルスの脅威にさらされることとなる。


延々と続く緊急事態宣言にマスク生活。


人々のライフスタイルが一変し誰もが不安とストレスの中で生活する中、幸か不幸か、湊の働き方はフルリモートになり、サクラとの一日一回の散歩が朝夕の二回に増えたのだった。


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