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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

アダミヴとリリース

作者: 野々村鴉蚣

 その世界を知るものは、きっと彼女だけだ。

 それは、ただ一言で表すのなら真っ暗な大地だった。そう、真っ暗にひび割れた大地である。例えて表現すれば、黒の油性絵の具に黒の油性絵の具を延々と描き足し続けてようやく描き上げた一枚の絵画だ。

 まるで誰かが日傘をさしたかのように、お天道様は顔を見せようとはしない。そのせいか、植物というものが一切存在していないらしかった。その光景を正しく述べるのなら、恐らく砂漠と表現するのが最も適しているだろう。

 砂漠とは言っても、地球上で砂のみの砂漠というのは実の所レアなケースらしい。イメージとしてはゴビ砂漠や三蔵法師一行が歩いたとされる広大な砂地だが、そのような細かい砂ばかりの大地というのはごく稀で、基本的には植物の生えていない大地のことを総称して砂漠と呼ぶらしい。日本では鳥取砂丘の影響か、砂漠と耳にすれば砂ばかりを連想してしまうが、どうもそれは誤りであるらしかった。

 今回もどうやらそのケースに当てはまるだろう。というのも、岩ばかりなのだ。どこを見渡しても岩しかない。真っ黒の岩だ。さらに空はどんよりとした雲に覆われており、太陽も月も星も何一つ見えやしない。そのせいも相まって今が朝なのか昼なのか夜なのかとんと検討がつかないわけだ。

 少し誇張して表現するのなら、まるでこの岩地だけ世間から時間軸が切り離されたかのようだった。無論、風は吹き雲は蠢きどこかから気味の悪い声が聞こえてくるため、時の流れがここに確かに存在することは分かる。一枚絵等ではなく、実際に存在し動き続けている空間であることは確かなのだ。それ自体に偽りはなく、決して変わらぬ世界があるのだということを証明する為だけに存在するような、どこか創られた異様さすらあった。

 そんな砂漠地帯のどんよりとした世界の中に、アダミヴという名の人が存在した。彼のことを人と表現しても良いものか、それは恐らく誰にも分からないだろう。というのも、彼は言葉を持たず、姿形も人とは似て非なるものだからだ。さらに、このような世界で当然のように生きながらえるというのは不可能とも言えよう。光の存在しない薄暗い世界で、植物が育つ事など出来るはずがないのだ。

 植物を生産者と表現することがある。というのも、植物はそこに本来存在しえなかったエネルギーを形として出現させる工場のようなものだからだ。全ての循環は植物に始まり植物に終わる。無論、海底火山や噴火口等、地球内部からエネルギーが共有される場合は別だ。しかし大抵の場合地球表面で手に入るエネルギーというのは宇宙から降り注ぐ太陽光である。植物はそのエネルギーを素に、デンプンを初めとしたいくつかの栄養素を構築する事が出来る。いや、それだけに留まることは無く、エネルギーの燃焼に欠かせない酸素や、地盤の固定、水分の貯蓄など、様々な役目を担っている。

 果たして、そんな重要な役割を持つ植物が存在しない世界に、人間は住むことが出来るだろうか。結論から言えば不可能だ。無論エネルギーが必要なら地熱、振動、風力、原子力など人間は至る所からでも得ることが出来るだろう。だがアダミヴを含めた彼らがそのような行動をしているようには見えない。そんな者達を『人間』と呼んでいいものかはいささか疑問が残ってしまう。そもそも、太陽の見えない世界でどのような進化を遂げ人に似た姿になったのか、とんと検討がつかない。

 しかし、いくら太陽が見えないからとはいえ、漆黒の闇に包まれているというわけではなかった。この広大な砂漠の何処からでも見ることが出来るような巨大な塔が、ぼんやりとだけ光を発しているからだ。塔、と表現こそしたものの、それが人工物であるのかは分からない。彼らに塔を建築する知能があるようには見えないし、ましてや光など生み出せるようには見えないからだ。

 その塔とやらを、アダミヴの居る場所からでも確認することは出来た。あまりにも巨大過ぎて、果たしてどれほど遠くに存在しているのかすら分かり兼ねる塔ではあったが、その存在があるお陰でどうも彼らは生活することが出来ているらしかった。


 その日もアダミヴにとって変わらぬ一日であった。アダミヴは自分があなぐらと呼ぶ小さな家から這い出でるように地表へ顔を出し、一度だけ深呼吸する。地表の空気に含まれる酸素濃度は微々たるものだ。植物が生えていないのだから当然である。ともなれば、彼らにとっての呼吸とは酸素を用いてATPを生み出す生物としての呼吸ではないのかもしれない。

 そもそも、アダミヴの見た目というのはともかく歪であった。肌はゴムのようで無機質な灰色が全身を覆い尽くしている。一切衣服と思しきものは身にまとっておらず、しかしそれでも裸であるということに抵抗する素振りはなかった。むしろ、何も身につけないことが当然であるかのように振る舞い、体を動かしている。そこに知能の影は見えない。あるのは野生である。

 アダミヴは萎びた体を少しだけ伸ばし、異様に長く細い手足をプルプルと振る。その動作には特に意味など無いのだが、彼にとってルーティーンのようなものであるらしかった。

 アダミヴの頭は人のそれとは比べ物にならないほど大きかった。綺麗な楕円形をした灰色の頭が、細い枝よりもっと弱々しい首に支えられグラグラと揺れている。耳は無く、代わりに大きな穴が二つほど開けられてある。その入口には薄い膜のようなものが貼っており、どうやら鼓膜のように震えているらしかった。

 突如強い風がどこからともなく訪れ、アダミヴはよろめいてしまう。一見すれば道端で拾った鉄柵や針金を無理やり組み合せて作ったような不格好な手足だが、それでも体重を支える事は出来るらしい。彼は少しばかりイラついた様子で風のした方に牙をむく。黄ばみがかった大きな歯がずらりと並び、そこから糊のような粘着質の液体がこぼれ落ちる。

 ボタりと地面に垂れた唾液は、真っ黒の大地に触れると同時にジュウという音を立てて昇華した。どうやらこの大地は液体を受けつけないらしい。その証拠に、風が微かに吹くだけで塵や埃が舞うのだ。大地が一滴も水分を蓄えていない証拠であろう。

 アダミヴにとってそのような光景はあまりにも見飽きたものであるらしい。面白がって立て続けに唾液を零し、その水蒸気を見てはしゃぐといった行動はせず、ただ端的に口に残った唾液を手で拭った。

 ベッタリと付着した粘着質の液体は、彼の歯と手の間に不快を与えるような糸を引く。その先端を、無い唇で必死にちぎっていた。

 彼の口はかなり大きく、恐らく顔の半分ほどを開くことが出来るだろう。横から見れば少し歪な円グラフとして活用出来るかもしれない。また、彼に眉毛や髭といったものは一切なく、ただ純粋に灰色の皮膚に覆われているだけに過ぎない。その皮膚ですら鱗や特殊な粘膜というものは無く、何度も言うようにゴムのような材質で出来ているのだ。

 アダミヴは下手な彫刻家がくり抜いた溝のような目で、辺りをぐるりと見渡した。恐らく彼にとって何も変わらない光景なのだろう。表情を一切変えぬまま、ただ一言だけグルルと発した。

 それは言葉と呼ぶにはあまりにも物足りない響きであった。むしろ唸り声、いや、いびきに近いかもしれない。呼吸器官を振動させて発生する音の波だ。

 とは形容しても、人間の発する言葉も呼吸器官を通して発生させる音の波に違いはない。もしかすると、今の唸り声に似た音が彼らにとっての言語なのかもしれない。

 さて、肝心のアダミヴであるが、彼は内に眠る欲望を満たすべくあなぐらから這い出たそのままの姿で塔のある方に向けて歩き始めた。そんな彼を、塔が巨大な目を向けて見守っている。塔はどんな黒にも勝る巨大な黒で形成されており、その円柱状の全てから無数の眼球が飛び出していた。しかし、やはりどこがどのようにして発光し辺りを照らしているのかについては謎のままである。その塔が持つ巨大な目は、ギョロギョロと蠢き、アダミヴ達を見守っているようだった。どうも、塔には意思があり、命があるように感じられた。

 しかし、当の本人であるアダミヴにとってそれは異様な風景では無いらしい。さながら冬に吐く息が白いのを見慣れてしまった大人のように、大した反応も見せやしない。ただ時折吹き荒れる風に体を揺すられながら、延々と塔に向かって突き進むのみであった。


 さて、アダミヴがあなぐらを出てから果たしてどれほどの時間が経過したのだろう。この世界に太陽は無い。よもや宇宙という存在すらないのかもしれない。永遠とも言える砂漠が、ただどこまでも広がっているように感じられた。

 きっと宇宙が生まれ死ぬまでの間を歩き続けたのだ。そう錯覚させられるほどの時間を、変わり映えしない風景の中歩き続けたアダミヴは、その日初めて同族とすれ違った。アダミヴは彼の名前を知らないし、彼もまたアダミヴの名を知らない。それはたまたま立ち寄った本屋で肩を並べて立ち読みする文学少女について何も知らないのと同じことだ。そして同時に、その人が自分と同族であることだけは理解できるように。

 アダミヴも彼──もしくは彼女──も、一言も発しなかった。彼らに社会というものがあるのか、果たして社交性というものが重視されているのかは分からないが、彼らが挨拶という行動を行うことは無かった。ただすれ違い、そして別れ際の恋人のように、交互に振り向いては関心事を拭う様に頭を振るだけだった。

 アダミヴはやせ細っていた。それは冒頭にも述べたような痩せ具合である。まるで道端に落ちていた金物や針金を無理やり繋ぎ合わせて作ったような、細く歪な体。骨ばった全身にゴムの様な皮膚がへばりついている。これはアダミヴを含めた彼ら全員のあるべき姿のように見て取れたが、どうも違うらしい。

 というのも、先程すれ違った同族の彼──もしくは彼女──は肉を持ち、巾着袋のようにふっくらとした腹を抱えていたからだ。その事からも、どうやらすれ違った同族は何かを口にし満腹を得たように見える。しかし、ただ広大なばかりで岩と砂しかないこの砂漠で、一体何を食べたというのだろう。アダミヴは、その答えを知り尽くしているかのようにただ歩き続けていた。

 途中振り返ると、先程すれ違った彼──もしくは彼女──が小さく見えた。どうも蹲っているらしい。アダミヴは大して関心無さそうに首を捻り見つめている。その視線の先で、彼の同族は蹲ったまま口を大きく開き、何かを吐き出した。吐き出された何かはソフトボールくらいの大きさで、彼らに似たゴムの皮膚をしている。そして折り曲げていた小さく細い手足を懸命に伸ばし、震えながらも立ち上がった。どうやらそれは、彼らの幼体であるらしかった。小さく丸く弱々しいその体に、震える手足、そいつは一言も発することなくその場で穴を掘る。アダミヴにはその行為の意味を理解出来た。あなぐらを作っているのだ。というのも、アダミヴもまた同じようにして産まれたのだから。

 遠くで子供を吐き出した彼──もしくは彼女──は、満足したかのように再び歩き出す。どこか痩せこけたようにも見えた。


 さて、一方のアダミヴだが、彼もどこか満足したかのような表情で塔へと歩き始めた。またこれから何日も何週も何ヶ月も歩き続けようと、彼は気にもとめないだろう。歩くことが最早当然の選択であるらしかった。


 道中、アダミヴは猛烈な空腹に襲われた。それはこの世界に生きる彼らにのとってごく自然の現象であった。彼らは永遠に腹を空かせ、永遠に歩き続けるのだから。これはもちろんアダミヴも例外では無かった。彼は黄ばんだ牙を地面に打ち付け、自分の歯よりも硬い岩に食らいつきその破片を貪るようにして食べた。そして吐き出す。その光景は、湧き出すことの止まない性欲を無理に抑えるため必死に自慰を繰り返す独り身のようですらあった。ただ自信を襲う強い食欲と、それに伴う怒りのため、たとえ老婆の乳房であろうと吸い着こうとする中年男性のようにすら見えた。

 彼らに性欲は無い。睡眠欲求もない。あるのはただ永遠を牛耳った空腹のみである。だから彼等には瞼もなく、生殖器もない。彼らにとって、寝る事の休息感も身を焦がす愛も無く、ただ食に飢える獣でしか無かった。

 アダミヴは口いっぱいに加えた砂や石を、不味いと言いたげに吐き捨ててから再び歩き始める。彼の空腹を抑えるには、やはり塔へ向かうしかないのだと分かり切っているらしかった。

 もう、歩き続けた時間がどれほどものもか、誰にも知りえなかった。ただ、アダミヴの他にも無数の同族が行き交うようになったのは事実だ。彼の様に痩せ細った者は、ただひたすらに空腹を堪えて塔へ向かうのみで、また逆にすれ違う者達は満足気な腹を抱え、膨らんだゴム風船のような手足を仕切りに震わせて帰路に着いている様だった。こうして見れば、異様に大きく感じられた頭もバランスよく見える。あなぐらへと帰る個体の全てが、満足気な振る舞いと表情をしていた。

 アダミヴに人間と同じだけの知性や感情があるのかは分からないが、どうやら期待というものはあるらしかった。あなぐらから這い出てここに来るまで、その足取りはどこかおぼつかなく、また不器用なものであったが、すれ違う同族の膨れに膨れたその体を見てワクワクが止まらないといった様子を見せた。それは人生で初めての遊園地に足踏みをする小学生よりももっと純粋な気持ちに見える。アダミヴはそれほどに胸を踊らせているらしかった。

 それはアダミヴだけに限った話では無い。彼の同族と思しきゴムの肌を持つ痩せ細った者共が、我先にと枯れた大地に足を踏み出し必死に塔のある方へ突き進む。死体に群がるクロオオアリよりも、彼らの列は貪欲に見えた。中には我先にと突き進む者、道中喧嘩をするものすら見える。そんな群れはより黒さを増し、混沌とし、規則性を失い、ただ中央に立つ塔に向けて渦となっていた。

 そんな一方的な群れとは対照的に、満腹を得たブヨブヨの個体も案外多く、しかし何故か彼等もまた我先にと塔から逃げるようにして群れを為しているらしかった。塔へ向かう者と塔から離れるものとがそれぞれ強い意志を持ちすれ違うものだから、当然のように衝突を繰り返し、手足を折り、その場で子を吐き出し、また喧嘩を始める。

 彼らの黄ばんだ牙の使い道はこの為だけにあるのだろう。突然アダミヴは後方から強く押され地面を舐めた。先程空腹を紛らわせるために食べた砂とは違う、酸味の効いた嫌な味がした。

 誰が俺を押したのだと慌てて振り返るアダミヴであったが、そこにあるのは常に蠢き続ける無愛想な群れだけで、犯人を見つけるのは海に投げ捨てた婚約指輪を探すよりも困難であることを痛感した。

 アダミヴは再び歩き出す。巨大な塔に向けて。塔は黙って彼らを見つめるばかりである。


 もう、限りなく近くに来たのだろう。アダミヴの同族の数は数え切れないほどに膨れ上がった。彼らが塔の近くにあなぐらを作らない一番の理由がこれである。行き交う者のあまりに多過ぎるがために、安息など決して得られないからだ。数は満員電車等比にもならぬ程に膨れ上がり、すれ違うことすら困難となった。押しつ押されつおしくらまんじゅうの中、今までの何百分の一程の速度で前進する。それは進んでいるのかすら怪しい程だ。

 その状態から、果たして何ヶ月、いや、何年と経過したのか、もうアダミヴは考えるだけの体力すら残されてはいなかった。彼だけではない。帰りの者を除いた全ての者達が、ただ一声も上げることなく少しずつ流されていく。

 塔が近づくにつれ、八つあった群れは四つにまとまり、四つの群れは二つにまとまってゆく。それもそうだ。数え切れないだけの者達がたった一点を目指し突き進んでいるのだから。そんな風景を、相も変わらず塔は眺めるだけであった。じっと黙ったまま、観察し続けるように、柔らかな光で照らしながら、巨大な眼球を向けながら。

 それからしばらくして、ようやくアダミヴは塔の根元に辿り着いた。塔の根元は青白く輝いて見える。そして、彼らを見つめるように無数の目玉が蠢いているようだった。

 塔には群がるように同族がへばりつき、必死に青白い何かを貪っている。それを一口食べる度に、腕が膨らみ、足が太り、肩に力が漲るらしく、風船のように膨らんでいく。そして満足すると、今度は逃げるようにして周囲の群れを突っ切り帰路につくらしかった。

 アダミヴの番は案外早く訪れた。いや、恐ろしい程に時間を費やしたのだが、これまでの道のりの方が圧倒的に長すぎるため、大したことない気がしたようだった。彼の前で全身に青白い光を満たした同族が満足気にすれ違いざまゲップを放つ。それですら、今のアダミヴには許せる行為だった。なにせ念願の食事なのだから。必死に堪えてきた空腹をようやく満たすことが出来る。骨と皮だけのその身に、溢れんばかりの満足感を注ぐことが出来る。長期海外出張からようやく日本に帰ってきた男が、満を持して牛丼屋に立ち寄る風貌で、アダミヴは塔の前に立った。

 塔は巨大だった。最早それを塔と呼んでいいものなのか。今彼から見える塔は、むしろ空高くどこまでも伸びる巨大な壁に見えた。世界を二分する巨大な壁だ。右も左もどこまでも続く漆黒の壁、そこから生える無数の小さな目、大きな目。そして群がる同族と、足元の溝に溜まった青白い光。

 アダミヴは一瞬だけ何かを考える素振りを見せたが、直ぐにどうでも良くなったのだろう。自らの足元に溜まった青白い光に手を沈めた。光はボヤけながら光を放つ。それはこの世界を照らす光と同じものだった。太陽の代わりにこの世界を照らす穏やかな光だ。

 ヌルッとした感触がアダミヴの手先をすり抜ける。しかしアダミヴはそれを逃がすことは無かった。反射的に、本能の為か、彼は自らの手をすり抜けた何かを掴み、そして持ち上げる。それこそが青白い光の正体であった。青白く輝くオタマジャクシにも似たそれを、アダミヴは必死に頬張る。顎を外し、頭を傾け、上顎と下顎との入射角度が180度近くなるくらいに擡げたまま、彼は青白いオタマジャクシを口に含み、飲み込む。一連の流れは完璧なものだった。それもそうだ、彼は今までそうしながら生きてきたのだから。

 腹の中に青白い光が流れ込み、胃袋の辺りで落ち着く。だがアダミヴにはまだ足りない。もっと食べなければこれまで我慢してきた空腹など満たされるはずがなかった。彼はすぐさま光の中に手を入れる。中では無数のオタマジャクシが蠢いているらしかった。無くなることはないだろう。というのも、アダミヴの目の前で今一つ青白いオタマジャクシが産み出されるのを見たからだ。

 それは巨大な塔に浮かぶ無数の目の一つから産み落とされた。目玉が一度、小さく瞬きをすると、まるで涙腺から溢れるようにして青白い光が漏れだし、ぼとりと音を立ててアダミヴの足元に落ちた。ヒクヒクと蠢き、他の群れと混ざろうとしていたそれを、アダミヴはなんの躊躇いもなく掴みあげ、口に入れる。

 アダミヴには味覚があった。お陰でこの土地の大地の味が非常に不快であることも理解出来たのだ。そして今彼が懸命に食している青白い光は、最高に美味であるようであった。それはどんな糖類にも引けを取らない絶大な甘味かんみ。分子構造をより単純化させたグルコースを食べたとしても、消して味わうことの出来ない究極の甘さがそこにはあった。彼の舌に履い着くばる様にして配置されたおよそ100を数える味蕾みらいのその全てが、甘味細胞で成り立っているらしい。いや、彼の体の内側全てに味蕾細胞が並べられているようだった。口に含んだ青白い光は下の上で化学反応を誘発させ、活性化する。それは小胞体からカルシウムイオンの放出を誘導し、細胞内のカルシウムイオン濃度を上昇させるのだ。次に上昇したカルシウムイオンの影響から細胞膜に存在するTRPM5チャネルが活性化、電位依存性ナトリウムチャネルを介した活動電位が発生し、その活動電位をCALHM1チャネルが甘味細胞から神経伝達物質《ATP》を放出し脳へ甘味情報を伝達する。この一連の流れは人体のものと大差ないだろう。しかしアダミヴの場合、その反応は飲み込んだ後も発生する。食堂、胃袋を通し全身に青白い光が行き渡る間、常に身体中で甘さを味わうのだ。

 それは一種の薬物であった。口に含み、体の中で消えてなくなるまで、延々と続く快楽。人間が依存してしまう性的快楽よりも、モルヒネなどによる神経作用よりも、もっと純粋な、空腹を見たし甘味に溺れるという快楽。

 アダミヴはただその美味さを味わうが為だけにこの世界に生まれ、不毛な大地を歩き、永遠とも言える時を捨てることが出来たのだ。

 アダミヴだけではない。この場にいる全てが、一時の幸せの為に生きている。誰も青白い光を食べること以外考えることは出来なかった。全身が常に甘味で満たされるようになるまで、何日とかけて食事を続けるのだ。

 彼は満足したら帰るだけだとばかり考えていた。これまでがそうであったように、この日もそうであると信じていたのだ。だが、それは間違いだった。

 突然、アダミヴの隣で青白い光を口にしていた同族の手がピタリと止まる。無論、他者など気にしている暇などない彼らは食事を続けた。そんな光景を見渡してから、隣の同族は口を開いた。


「全部、思い出した」


 それは明らかな言語であった。この世界で誰も使っていなかった、言葉であった。彼は続け様に発音する。


「私は……過ちを…………」


 その目からは砂が溢れ出した。その口からは叫び声が飛び出した。その身体からは絶望が放たれた。そこまで来てようやくアダミヴは気づいた。異常に。

 しかし遅い。見れば隣に居た彼の体はみるみる内に黒く変色し、手足の先はドロドロに溶解している。その色は塔の物と非常に良く似ていた。

 まず変色した彼は隣にいた同族に襲いかかった。目から、鼻から、口から、ドバドバと砂を吐き出しながら、嗚咽を漏らしながら襲いかかる。ずっと、仕切りに、何度も、幾度となく、永遠に、彼は「私は悪くない」と叫び続けていた。

 襲われた同族は何が何だかわからぬままに打ち付けられ、橙色の血を流し、その酸味の効いた匂いを辺りに撒き散らす。アダミヴが舐めた地面と同じ臭いだった。何度も何度も黒い者に殴られ、血を吐き、それが蒸発するのを眺めるばかり。そして、気がつけば殴られていた者の姿も同様に、黒く穢れたものに変わり果ててしまった。

 そこまで来てようやく異常事態に気がついた同族であったが、逃げることは叶わない。仲間が壁となり、逃げ道が塞がっているからだ。それもそうだろう、数えられない程の同胞が塔を中心にぐるりと囲っているのだ、彼ら全員が襲われるのも時間の問題であろう。

 黒く変色した彼らは、仕切りに懺悔の言葉を口にし、砂を吐き、同胞を襲う。その地獄絵図を、アダミヴは固まったまま見守ることしか出来なかった。そう、彼はこの時初めて恐怖したのだ。恐怖という感情が芽生えた彼は、どうしたらいいのか分からなかった。ただ呆然と、青白い光を握りしめたまま眺めることしか出来ない。そうしている内に、一人、また一人と同胞は押し倒され、殴られ、血を撒き散らす。

 その光景を黙って見つめ続ける者がいた。塔である。塔は広がりゆく黒き言葉がある程度溜まるのを見て、ニタリと笑みを浮かべた。

 塔は狡猾であった。それでいて残忍でもあった。だが、それ以上に策士でもあった。この世界を取り仕切り、支配する塔にとって、彼らの不幸を取り払うのは造作もないことだ。しかし、あえて塔は感染が広がるのを待った。そうして彼らが何かを思い出し、何かに謝り続けるのを見てから、ようやく動いた。

 塔の黒き表面から腕が生えた。その腕は付け根から先にかけて三つの関節を持ち、一番奥は五本の指が生えている。指と指の間には水掻きが着いており、塔は無数の腕を縦横無尽に動かして黒く変色した者達を捉え、目を細め笑う。

 捕まった者達は延々と謝罪し、救済を求め続けていた。だが、塔に耳はない。あるのは目と、腕のみだ。

 いや、どうやらそれだけではなかったらしい。突如塔の中央にある巨大な目が瞬きをした。次に開いた時、そこに眼球は無く、代わりに32本の整った歯が並んでいる。その光景を見て、捕まった黒き者達の誰しもが絶叫した。必死にもがき、逃げ出そうとした。だが不可能である。強く握りしめられ、骨を折り、血を流し、ただただ巨大な口に飲まれる。一人、また一人と口の中に放り込まれ、必死に舌の上を這いずり周り、外に出ようとする度に咀嚼された。前歯が体を引き裂き、犬歯が肉を断ち、奥歯ですり潰される。黒き言葉を放つ彼らは、口の中で転がされ、唾液と混ざり、ただ粘着質な糊となって塔の中へと飲まれて行った。

 全ての黒が消えた時、塔は再び瞬きをし、口から目へと変わる。どうも、少しばかり塔が高くなったように感じられた。

 アダミヴはその光景をマジマジと見つめ続けてから、慌てて周囲を見渡した。先程まで恐怖と混沌が渦巻いていた大地は、まるで何事も無かったかのように動き出している。彼の同胞は当然のように塔へ近づき、青白い光の甘味を堪能し始めた。何故誰も今の光景を気にしていないのか、何故自分だけがこんなにも恐怖しているのかと、アダミヴはしばし考えた。

 どんなに頭を捻ろうと、彼らは思考するようにデザインされていない。アダミヴも同様に、最終的にはどうでもいいやという結論に至った。今の彼の脳内を占める感情は、甘味に満たされたいというものだけである。

 アダミヴは唾液を零しながら再び青白い光に手を突っ込み、それを掴む。慣れた動きで口の中に含み、飲み込んだ瞬間だった。


「……嘘つき」


 彼の脳裏で誰かがそう呟いた。アダミヴはその声に聞き覚えがあった。だが思い出せない。気の所為だろうという結論に至った彼は、再び青白い光を口にする。


「……辞めろッ!」


 今度は別の誰かの声がした。それも聞き覚えがある。しかし思い出せない。だからまた一口。


「パパ、帰ってきてね」


 パパとはなんだろう。


「あなた、物騒よそんなもの」


 今のは誰だろう。


「死にたくないよ……パパ」


 次の瞬間、アダミヴは全てを思い出し、口を開いた。


「私は……悪くない」


 彼は全てを思い出した。自分が何者なのか、ここがどこなのか。そしてリリースの表情を見つめた。リリースをただただ見つめ続けていた。それは怒りからか、後悔からか、アダミヴにしか分からない。アダミヴはリリースに向けて口を開いた。


「私は悪くない」


 言い聞かせるように呟く彼の顔は恐怖で歪む。指先から徐々に、変色が始まっていたのだから。

 最後まで読んでいただきありがとうございます。これは私が見た悪夢を文字に起こした作品です。この世界におけるリリースの存在は重要で、アダミヴは彼女に段々と気づいていく。

 夢の中で、アダミヴは私そのものでした。と言うより、リリースから溢れ出た光でした。

 私はアダミヴの中に飲まれ、彼は私の記憶を貪り、自我が芽ばえる。しかしそれは残酷な報せでもあったのです。


 答え合わせとなる作品は、また気が向いたら書くかもしれません。わけかわからないよとは言わず、最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。

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