52.暴力と抱擁
耳を近付けたレイラは、男子トイレからガタンガタンと大きな音がこだましているのを聞いた。
「誰かいるの?」
その時だった。ガラガラという音と共に、野太い男の怒鳴り声がした。扉の向こう側では恐ろしいことが行われている。もう、なりふり構ってはいられない。レイラは勢い良くドアを開けた。
奥の壁面に倒れ込んでいる少年が見える。
学だった。
あ!とレイラは悲鳴を上げ、男子トイレに飛び入った。学の肩を揺さ振り、何度も声をかける。
「市原君、市原君」
唇は腫れ上がり、意識もなく、喋るのもままならなさそうだった。レイラは鼻をすすりながら、ゆっくりと立ち上がった。誰でもいい、早く助けを呼ばなければ。
振り返ったところに、体の大きい青年がベルケースを抱えて立っていた。レイラが話しかけようと一歩踏み出した、その時。
青年が、ベルケースを高々と天に掲げた。
状況が呑み込めない無防備なレイラに、それが振り下ろされる。
声を上げる間もなかった。
一瞬の衝撃。
気付くとレイラは床に這いつくばっていた。どこも痛くはない。背中に何かが乗っかっている。その重みの正体は、すぐに分かった。
学だった。
レイラは学の体の下から這い出た。彼はまた意識を失っているのか、動かないでいる。すぐ横にベルケースが転がっている。状況がようやく分かって、レイラは泣き出した。
ケースを振り下ろした青年は、自分の仕出かしたことにおののいて男子トイレから逃げ出そうとしていた。一方、明日菜はトイレ前で青年と鉢合わせになる。
「……安君?」
安はそれを振り切って走り出した。扉の向こうに床にへたりこむレイラと学の姿が見える。それを見た瞬間、明日菜の声が飛んだ。
「誰かそいつ、捕まえて!」
階段を上がって来た西田と岬が、その声に反応して駆けて来た。安の目の前で、西田が大きく両手を広げる。周囲が騒めき、人々の視線が揉み合う男子に集中した。各教室から騒ぎを聞き付けた生徒と教員らがわらわらと出て来る。
意図せず囲まれる形になって、くそっと安が呟いた。岬が驚きを持って安の顔を眺める。安は知った相手から顔を背けた。
レイラはずっと泣いていた。
何かしてあげなければというように、レイラはとりあえず学の脇を抱えてゆっくりと仰向けにした。彼の顔は何度も殴られたと見え、赤黒く腫れ上がっている。口から少しだけ出ている血を、ハンカチで拭う。その間も、レイラの涙は止まらなかった。
口を押えられたのが分かったのか、うぅと学が息を漏らした。目がうっすらと開かれる。レイラは涙を拭って、何か言いたそうに目を動かす学の言葉を待った。
「……ベルは?」
ようやく彼の声が聞けて、レイラの目に再び涙が溢れた。
「あるわ……大丈夫」
互いにケースは目で追わない。
「良かった」
ずっと互いの目を見ている。どちらも無事でいて欲しかったのは、ベルではなかった。
学は起き上がろうとした。その背をレイラが支えて壁にもたれかけさせる。
「こいつを取り戻したいなら付いて来いって言われて……奪われたんです」
レイラはうんうんと頷いた。
「行った先はトイレで、結局殴られ」
「もういい、話さなくていいから」
レイラはそう言うと、また泣いてしまっ
た。
「藤咲さん、ケガはありませんか?」
学が問うと、レイラは怒鳴った。
「あなたがかばってくれたんでしょう?あるわけないじゃない!」
それで学は黙ってしまった。レイラははっとして、学の前にしゃがみ込んだ。
「……ごめんなさい、怒鳴るつもりじゃ」
外の喧噪が大きくなっている。学がそちらに気を取られていると、ふと自分の肩にレイラの腕が伸びて来た。
そのまま抱きすくめられ、学は驚く。が、飛び退く体力は残っていなかった。そのままの状態で、レイラはじっとしていた。
(何だろう、これは)
学は四肢を投げ出したまま、レイラの熱い体温に戸惑っていた。試しに、そうっと背中に手を回す。彼女はみじろがなかった。
「市原君!」
男子トイレに、再び自分の名前がこだました。声の主は山下だった。ゆっくりとレイラは体を離し、学を見据えたまま立ち上がる。学は手を貸してもらい、何とか立ち上がることが出来た。
駆け寄った山下が肩を貸し、学はおぼつかない足取りで歩き始めた。彼が出て来たとたん、各所で悲鳴が上がった。そこにもう安の姿はない。
明日菜と末続が様子を見にやって来た。二人を見付けると、再びレイラは泣き出した。明日菜がベルケースを持ち、末続がレイラを支えて歩く。
廊下の全員がその背中を見送っている。
宗教部の発表室から覗いていた石室女史も、一連の事件を目撃していた。




