51.安君、カワイソウ
軽快な音楽を流しながら、学のスマートフォンは男子トイレのタイル床に転がっている。ベルケースも床に投げ出されたままだ。
学は床に座り込んだまま、全く動けなかった。頭をもたげると、すぐさま安の鉄拳が学のこめかみを弾き飛ばした。ぐっ……と声が出、その声を殺すように安のかかとが学の肩に容赦なくねじ込まれる。
「何が部活だよ」
忌々しげに安は呟いた。
「安君、何でこの学校に」
「それはこっちのセリフだよ!元気に文化祭なんかやってるタマかよお前」
脳天の髪を掴まれる。安と目が合う。
「あの黒い箱、楽器入ってんのか?女子とオケでもやってんのか?下らねーんだよ、死ね!」
空いている方の手で右の頬を殴られる。執拗に同じ箇所を、何度も何度も。
「てめーはいいよな、お荷物がなくてよ。両親も揃ってていい子やってて、ひとりっ子で、うすのろで馬鹿で、自由に学校も選べて。お前、初めて俺に会った時何て言った?兄弟がいていいねって言いやがったんだ。ふざけんなよ、何がいいんだ。母ちゃんは俺を何で産んだか知ってるか?兄貴の世話をして欲しいって言いやがったんだよ、七歳の時だ。忘れられねえ。ふざけんな、全部親父が出て行ったからだ。お前聞いてんのか、おい」
学は浴びせられる罵声にエコーがかかって、男子トイレ内にこだましているのを聞いた。口調は強い。けれどこだまする言葉尻は涙交じりだった。
ああ、安は今、自己憐憫に打ち震えている。
(その感情を悟られないためだけに、苦し紛れに俺のことを殴っているんだ)
痛みの更に向こう側へ行ったのか、学は脳内に思考が戻って来るのを感じていた。全てが馬鹿らしい。殴っている安も、殴られている自分も。
学はだらりと四肢を投げ出した。安の手が止まる。
「おい、動かねーつもりかよ。ならいいぜ。ミッションスクールなら知ってるだろ?左の頬も出せや」
安は学の顎をぐいと掴んだ。が、学はそれをうっとうしそうに振り払う仕草をした。すぐに安の頭に血が上る。
「……俺に反抗したのか?」
学はゆっくりと頭を動かした。しかしその目は全く怯えておらず、むしろ笑っていた。
全てがどうでも良くなっている。学は腫れ上がった唇で囁いた。
「安君、かわいそう」
安からさっと血の気が引くのが分かる。学は続けて言った。
「今日はお兄さんと来たの?お兄さんのお世話、大変だね」
左頬をぶっ飛ばされた。それで意識が飛び、学はずるりと床に肩を付く。安は荒くなるばかりの息を整え、立ち尽くした。
安は耳を澄ませた。もう文化祭は開場しているらしく、大勢の人が外を歩いているようだ。
安が自分の仕出かしたことにようやく恐れを抱き始めたその時、止まっていたはずの学のスマートフォンが鳴り始めた。はっと安は振り返り、スマートフォンを探した。が、どこかに潜り込んでいるのか見つからない。音を頼りに捜索すると、どうやら揉み合っている内に、掃除用具入れに潜り込んでしまったようだった。
「……くそっ」
用具入れには鍵がかかっている。安は下部の隙間に手を入れ、懸命に音を探った。




