32.岬の事情
一年の教室前に順位表が貼り出されている。
三位 市原学
十六位 岬亮司
「まじか!すげー」
男子三人中二人が、中間試験総合点の上位成績者に名を連ねた。
「俺なんて平均点取るだけで精一杯だよ。いや、本当に凄い!」
自分のことのようにはしゃぐ西田と照れる学を横目に、岬は無言で表を見つめている。
「ん?どうした岬」
異変を察知した西田が尋ねる。いや……と岬は言った。
「負けちゃったなあ」
岬は眼鏡の奥で笑って見せたが、学はどきりと体をこわばらせた。
(あの目……どこかで見覚えが)
学は急に岬が心配になって、言葉を継ごうと考える。が、岬は踵を返すと自らの教室に戻って行ってしまった。
「おい、岬……この前貸した漫画」
言いかけた西田の言葉を、岬は扉でシャットアウトした。
岬は席に戻ると、女子がかしましい教室の中、自分の席にうつ伏せになる。
西田から借りた漫画を返せないのは、自分の時間をほとんど勉強に突っ込んでいたせいだった。机に突っ伏した彼は成績表を思い出し、漠然と考える。
(何がいけなかったんだろう)
市内一番の高校に入る実力はあった。しかしわざとランクを落とし、この学校を受けた。K大の推薦枠があったからだ。トップ校で推薦を狙うより、ワンランク偏差値が下のこの学校で推薦を狙った方が、推薦合格は確実との判断で入ったのだ。
だが現実は甘くない。上には上がいた。
(推薦で大学に入るならもっと頑張らないと)
岬は教会に行くのをやめようかとも考えた。教会に通い続けて推薦も取れないとなると、単純に時間の無駄のような気がした。
(でも)
と思い直す。
(自分より上位にいた市原君は、部活にも入っている)
それと肩を並べるには、自分はもっと時間を作って勉強に励まないと駄目なのでは。そう考えて、岬はまた思考に詰まった。
(いや、多分、そこじゃない。市原君と自分との差は、勉強時間の差だけではない)
そんな気はするものの、答えが出ない。じっと物思いに沈んでいると、
「寝てるの?」
知った声に顔を上げる。眼前には足音を立てることなくやって来たらしい明日菜が含み笑いをして立っていた。
「ねえ岬君。最近教会に来てないよね?」
「ああ、はい」
軽く応えながら
(あなたのせいでもあるんですけど)
と思う。
「放課後、教会に行かない?」
岬はすぐに忙しいと嘘をつこうと思ったが、
「今日でハンドベル、修理に出されちゃうんだあ」
それを聞いて、なぜかじわじわと焦燥感が岬の中に沸き起こる。
気付けば、こっくりと頷いていた。
教会への道すがら、岬は明日菜に尋ねた。
「……明日菜さんは、そんなに好きなんですか?その」
「ベルのこと?」
「はい。何でそんなに」
「えー?だって、可愛いし、綺麗じゃん」
こともなげに明日菜は言った。それから、こんなことを言い出した。
「あと、推薦に有利」
岬は心を見透かされたような気分になって、ぞっとした。明日菜は二年生で、一年の中間テストの成績順位など知らないはずなのに。
「第二・四月曜はハンドベル、第一・三日曜はゴスペル練習があるの。参加は任意だけど、推薦狙うならどっちもやっとくといいかもねー」
教会に着いた。岬は自分の心の重さと同じくらい重たい木製のドアを開ける。
「こんにちは!」
小学生のような元気な声が堂内に響いた。思わず岬は仰け反る。教会の壇の前、学生達の間に車椅子の男性がいる。
ヒロだ。
そしてそれを押しているのは。
(確か市原君の元同級生の、安君)
「あれ?ヒロ君と弟さん!」
明日菜の声に、岬は肩透かしを食らう。明日菜と彼は知り合いのようだ。安の方は、こちらのことはちっとも覚えていなさそうだった。
「すっごく久し振りじゃない?」
明日菜が問うと、
「なぜか知らねーけどよ、最近この人がハンドベルハンドベルってうるさいんだよ」
ぶっきらぼうに安が答える。しかし口調に反し、少し笑っている。
「早く出してよ、ハンドベル!」
ヒロはけたたましく叫んだ。明日菜はポンと手を叩くと、こう提案する。
「そうだ!ヒロ君も今日ベルやってく?」
え?と岬が反応する。
(ヒロ君がハンドベル?まさか)
足が萎え、言葉もろくに操れない彼が、本当にあの曲芸のようなハンドベルを操演出来るというのだろうか。
明日菜は既に来ている生徒らを促し、教会の倉庫を漁る。緋色のマットに薄汚れた金のベルを皆で手早く並べ、準備は万端だ。
「ねえ、岬君もやらない?」
明日菜に尋ねられ、岬は驚いて首を横に振った。
「何よお、つまんない男ね」
言いながら明日菜はベルの列ほぼ中央に陣取ると、ヒロを招き入れた。牧師がようやくやって来て、生徒らに指示を出す。
曲目は「清しこの夜」
ヒロは目の前に四つほど並んだベルを、器用に持ち替えて打ち鳴らす。皆と違って、彼の前に楽譜はない。体が覚えているのだ。
バラバラの人間が、バラバラの体が、ひとつの曲を奏でる。
岬はズキズキと胸が痛んだ。
自分は今まで、彼をどう思っていた?
(何も出来やしないと思っていた)
弟なしでは移動もままならない。そんな彼が急に、澄まし顔で美しい音色を奏でている。
曲が終わると、生徒らは懐かしいと言い合った。そして自分のかつて担当した音の演奏を覚えているヒロを、皆口々に褒め称えた。
岬と安は隣り合った席でその一部始終を見ていた。安は兄を、じっと物憂げに見つめている。岬はその表情を見て、胸にさし込むようなうずきを覚えた。
そんな安と岬の前に、明日菜がヒロを押してやって来た。ヒロと安の間に、どこか不穏な空気が漂う。たまらず岬が声をかけた。
「ヒロ君、ハンドベルお上手ですね」
すると安は曖昧に笑って
「こいつ、これぐらいしか出来ませんよ」
全く謙遜ではない口ぶりで言う。岬は凍りついた。が、
「出来るよ!」
まさに売り言葉に買い言葉でヒロが叫んだ。
「……何が出来るんだよ」
次第にイラつき出す安に岬の表情もこわばる。が、自信満々にヒロは答えた。
「お祈りが出来るよ!」
(お祈りぐらい誰でも……)
と岬は思った。安も同じように思ったようで呆れている。しかし、ふと
(そうだよな)
と感心してしまった。岬は肩に入った力が急に抜けて行くように思う。
(ヒロ君の出来ることは少ない。でも彼は、出来ることを出来ると口に出来る)
出来ないと決して自分で決め付けない。そんな彼を羨ましいとすら感じた自分に、岬は気付かされた。
(僕は健常者だ。彼より体に恵まれているのに、自分で限界を見付けたような気になって、良いことなんてひとつもなかった)
ベルの練習に戻った明日菜ら学生達を、岬と安は最後まで見ていた。いよいよ帰る時間になり、明日菜は安に声をかけた。
「どう?安君、高校は楽しい?」
安は真顔で首を横に振った。明日菜はそう……と呟き、
「じゃあ、またここに来なよ」
安は余計なお世話、と言いたげにぷいとヒロと共にこちらに背を向けた。じゃあな、と背中で言って、誰よりも早く教会を出て行った。
安兄弟の滞在時間は、ごくわずかだった。
「……安君は、何をしに来たんでしょうか」
岬は取り残された気分で明日菜に尋ねた。すると彼女は顔を曇らせ、
「ヒロ君の意思だけで来たんじゃないと思うな」
とだけ言った。岬が反応出来ずにいると、
「二人が教会学校に来なくなって、三年は経つわ。それが今日、急に来たの。ちょっと変よね。何かあったのかな?」
明日菜と安とは長い付き合いのようだ。岬は今日は一度もハンドベルには触らずに、ひとり家へと帰った。
早速机に向かう。が、なぜか何も出来ない。ヒロのことが頭をぐるぐると回る。
(あえて推薦のためにこの学校を選んだんだ。大学で見返してやる。見返して……)
何を?
岬は大きな渦に飲み込まれて行くような錯覚を覚えた。深みに足を取られる。何に躓いているのか、全く分からない。
(自分は一体、何と戦っているんだ?)
次の日の月曜、そっとハンドベル部の部室を覗いた岬を、学と西田とで捕獲した。
「何だ?ようやく入る気になったのか!」
室内に引っ張り込む。あっ、と明日菜が立ち上がった。
「来てくれたんだ!」
岬は赤い顔で、その長い背中を丸めながら
「その……」
と、もごもご言った。学と西田は、本当に嬉しそうに笑っている。
「最近、思ったんです。出来ないことを、してみようかなって」
その様子を隅で見ていたレイラが言った。
「五人もいれば、だいぶ出来る曲が増えるわね」
彼女はもう男子の入部を拒まない。室内全ての人間が彼を歓迎する。引っ張られるように、岬は練習の列に加わった。
岬は学の隣に入ると、
「あの」
と学に声をかけた。学が岬を見上げると、
「次は僕、負けませんから」
と続けて言った。学は岬の言わんとしたことは良く分からなかったようだが、何だかいい表情で何度も頷くのだった。
ベルの打ち方を明日菜に教えて貰いながら、岬はふと、安と向かい合っているように思った。
安は物憂げにこちらを見つめている。
(君もこっちへおいでよ)
今の岬は、あの日の彼にそう言いたい気がしている。




