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新浜だより 行徳新聞掲載再録  作者: 蓮尾純子(はすおすみこ)
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はじめに

行徳の市街地が形をなしはじめたころ、創刊された地域紙「行徳新聞」(明光企画)は、地域住民にとっての貴重な情報源だった。創刊2号から連載された「新浜だより」によって、鳥や自然への興味を持ったという方々は少なくない。1976年から1980年までの掲載分は明光企画によって書籍として出版されているが、続篇の刊行はなかった。明光企画の多大なご協力を得て、ここに1981年以降の記事を再録することにした。筆者にとっては自分史でもあるのだが、中には今読んでみても興味をひく内容があるかもしれない。初心への回帰という点からも、面白く読んでくださる方がおられればありがたい。

新浜だより(行徳新聞掲載分 再録)


   はじめに


 むかしむかし、あるところに・・・・・・というような、古い原稿の再録をしていてよいのかな、と思いながら。そもそも、読んでくれる人がいるのかどうか、とも思いつつ。


 この四〇年以上の年月、筆者にとってほとんどすべての活動拠点だった千葉県行徳野鳥観察舎は、耐震診断と、千葉県の行政改革審議会の答申を受けて、二〇一五年十二月二十八日から無期限休館、そして二〇一八年三月末に県の施設としては廃館となった。同年十一月から、解体工事が始められており、年度内には更地となる予定である。

幸いに、市川市が再建をめざすことになり、設計や各種手続きのための補正予算一四〇〇万円が二〇一八年九月の市議会で承認された。順調であれば、二〇一九年度のうちに、市川市立の新しい舎屋が造成され、観察施設として再開されることになる。現在のものよりも規模は縮小されるが、ありがたい決断である。再開を望んで、行徳地区(自治会や小学校等でも署名を集めてくださったところがある)ばかりか、全国から寄せられた二万二千筆をこす署名、行政改革審議会の答申に対しての六〇〇通をこすパブリックコメントも、また、無期限休館後に市川市議会で出された県への要望も、預かって大きな力となったに違いない。

 

 一九七六年に創立された「行徳新聞」は、まだ住宅もまばらだった行徳地区の住民にとっては、新しいコミュニティの様々な情報が詰まった貴重なミニコミ誌だった。その第二号から毎月一回連載させていただいた「新浜だより」は、行徳野鳥観察舎がたどった道のりの記録そのものになった。連載は二〇〇八年ごろに終わっているが、中にはきらりと光るものもある(のかな?)と自負している。

 行徳新聞の発行元である明光企画では、一九七六年~一九八〇年までの「新浜だより」を書籍として出版された。これはプレハブ二階建の観察舎スタートから、間もなく解体工事がはじまる鉄骨コンクリート三階建の野鳥観察舎の開館後間もないころまでの黎明期にあたる。一方、完全無料のウェブサイト「小説家になろう」に掲載の「新浜だより 一九九二年~二〇〇〇年」は、日本野鳥の会東京支部(現在は日本野鳥の会東京)の機関誌「ユリカモメ」に毎月書かせていただいたものだった。この時期は観察舎のスタッフが増え、環境改善の試みが試行錯誤を繰り返しながら少しずつ軌道に乗って行くまでの、いちばん脂ののった期間と言えるかもしれない。せっかくだから間の時期も、と、明光企画のご快諾と多大なご協力を得て、書籍となっていない「新浜だより(行徳新聞掲載)」の再録に踏み切ることにした。


 二〇一八年十一月現在の筆者は気楽な隠居の身。観察舎のすぐ裏手の住宅地に住み、五匹の猫と三人(ぜんぶで四人のうち一人は独立)の孫に振り回される毎日を送っている。観察舎からの道のりは三〇〇メートル(猫道―直線距離なら一五〇メートル)、住宅一列を隔てた先は行徳鳥獣保護区のウラギク湿地。時おりアオアシシギの澄んだ声が聞こえてくることもある。悠々自適、と言うべきところだが、本人にはおよそ実感が伴わない。家事、やろう、と思い定めたデータ入力や原稿整理、これに加えて、ついつい乗り出してしまった終活(目下、亡夫蓮尾嘉彪が手掛けた一九七六年の多摩川全域鳥類カウントの復元をめざし、じわじわと活動開始中)、テレビを見ながらでもできる各種手仕事、等々。なんとなく、あいも変わらず「やらなくてはいけないこと」に毎日追われている状況。それでも基本は「やりたくてやっていること」中心で、それが悠々自適ということ、と認識不足を叱られるかもしれない。

 三五歳ころからの夢。「おばあさんになって、膝に猫を乗せて、編み物をする」本気でそう夢見ていた。猫はずっといたし、四九歳で孫も生まれ、ちゃんとおばあさんにはなっているのに、膝猫編み物がちょっとだけできたのは六〇歳前後のいっとき。家でのパソコン仕事が軌道に乗ってしまうと、毎日が膝猫パソコン。いつか編み物もやれるといいのだけれど。

 以下に明光企画出版の「新浜だより」の「はじめに」と、「あとがき」を再録して、連載開始のご挨拶とさせていただく。膝猫編み物を夢見ていた日々、四〇年近くも昔のことになった保護区や行徳の様子を思い浮かべていただければうれしい。



   

   新浜だより(明光企画刊) はじめに(一九八三年五月)


 窓の外には、青々とした水面とアシ原がひろがっている。見渡す限り、と言いたいところだが、五百メートル先はきっぱりと外壁で仕切られて、湾岸道路を往来する車が、ひっきりなしにへいのすぐ外を通っていく。車の背後は巨大な倉庫群で、1キロメートル先の東京湾は、屋上に上がらないと見えない。

 右手には、塩浜の高層団地がそびえている。団地の手前には、塩浜小学校、行徳高校があり、水路を隔てて終末処理場、福栄の住宅地と続いてわが家に至る。左手には、緑濃い宮内庁新浜鴨場の林が、マンション群を背景に、おちついたたたずまいを見せている。赤い給水塔がひときわ目立つマンション「ソフトタウン行徳」は、千鳥橋をはさんで、千鳥町の工場地帯と向かい合っている。

 市街地の中に残されたこの一角は、正式には「行徳近郊緑地特別保全地区」という。「市川野鳥の楽園」という愛称もあるが、私たちはただ「保護区」とか「新浜保護区」とよぶことが多い。面積約二十七万坪。新浜鴨場を除く約十八万坪は、行徳鳥獣保護区にも指定されている。

 保護区の一角に、プレハブ二階建ての住宅兼用の行徳野鳥観察舎が設置されたのは、一九七五年のことだった。一九七六年一月から一般に公開されているが、利用者が急増したこともあり、一九七九年十二月には、鉄骨コンクリート三階建ての新館が増設された。新館には、望遠鏡を備えた観察室のほか、図書室、展示室、視聴覚室等もあり、「目で見る鳥の博物館」として、一般の利用に供されている。主人と私は、開設の当初から住みこみの嘱託として、観察舎と保護区の管理に携わっている。

 

 十六年ほど前まで、葛西から西船橋に至る一帯は、広大な湿地帯だった。街道に沿った家並みを抜けると、海まで視界をさえぎるものもなく、水田や蓮田が一面にひろがっていた。遠浅の海には広い干潟が続き、海苔や貝の養殖も盛んで、釣や潮干狩りの名所だったことはいうまでもない。

 中でも江戸川(放水路)と旧江戸川に囲まれた浦安・行徳の一帯は、宮内庁の新浜鴨場が設置されていたこともあり、日本有数の渡り鳥の渡来地として知られていた。鳥の種類や数の多さでは、関東に並ぶものもなく、全国でも屈指の場所といわれていた。新浜鴨場の名から来たのだろうが、鳥類愛好者はこのあたりを「新浜しんはま」と呼びならわしていた。

 付近の開発が進み、干潟や湿地がほぼ完全に姿を消すことになったとき、鳥類愛好者の間から「新浜を守れ」という声が上がった。しかし、この運動は、開発を進めてきた地元の意向と正面から対立することになった。開発か自然保護かという両者の折衷案として生まれたのが、現在の保護区ということになる。

 私と「しんはま」との出会いは、今から十数年前、高校一年の初夏に始まった。まだ、埋め立てがほとんど始まっておらず、昔のままの行徳のおもかげが見られたころのことだった。以来、現在に至るまで、なぜかとぎれることのない新浜とのつき合いが続いている。主人も学生時代から二十数年の間、鳥とその保護にかかわり続け、山階鳥類研究所、日本野鳥の会、行徳野鳥観察舎と職場は変わったものの、がんこなまでに鳥中心の生活を続けている。お互い、よくよく不器用で保守的なたちなのだろう。


 私にとっての「新浜」は、何度出かけても、そのたびに新しい感動を与えてくれる場所だった。あるときは生々しい鳥たちのドラマに、またあるときは珍しい鳥の姿に、そしてあるときは青々とした蓮田や沼沢地の美しさに。あるときはぬるぬるとした干潟の感触と、おびただしい生き物たちのブツブツピチピチというざわめきに。あるときは風に鳴る竹ざおのもがり笛の音に、あるときは菜の花とネギのにおいに。

 今日に至るまで、私はかたく信じている。十五年前の新浜は、現在の日本にあるどの地域と比べてみても、決してひけをとらない水鳥の楽園であったことを。

 私たちは、水鳥の楽園としての「新浜」が失われて行くことを、深く悲しんだ。そして「新浜を守る会」という団体として運動をおこし、行徳地域の利害と激しく対立した。対立の結果として、鳥のためにささやかな保護区域が確保され、その一隅にささやかな観察舎が設けられて、住みこみの管理人が置かれることになったとき、主人と私はその職を希望した。そして、私たちは野鳥観察舎に住んだ。

 私たちは、この保護区の中に、かつての「新浜」のいくぶんかを復元したいと願っている。そして、この保護区で、鳥や自然を愛する人々をいくらかでも増やしたいと願っている。保護区を訪れる人々が、かつての私たちのように、鳥や自然のたたずまいの中から、そして保護区のありようの中から、何かを得てくれることを願っている。

 私たちが「新浜」に住んでから、七年の月日が経過した。その間に、私たちは何をしたのだろうか。そして、これから何ができるのだろうか。




    新浜だより(明光企画刊) あとがき


行徳野鳥観察舎に移り住んでから、まもなく七年半になります。広い原っぱの中にぽつんと建てられた、小じんまりとした旧館に引っ越してきた日のことが、つい昨日のように思い出されます。

 この間の浦安・行徳地区の変貌は、目を見張るばかりでした。町から市へと昇格した浦安は言うに及ばず、行徳は千葉県内でもトップを争う人口急増地域となりました。かつては行徳・南行徳の二校しかなかった小学校が、新浜・富美浜・新井・南新浜・幸・塩浜・塩焼と合計九校にも増え、開店したスーパーは何店になることでしょうか。マンション群の間に残っていた空地には、建売住宅がすきもなく並び、典型的な市街地となっています。

 一方、行徳の風情を最後まで保っていた妙典の蓮田は、埋め立てや耕作中止、ゴミの投棄等に蚕食されて、蛇島の大木も枯れてきました。昔日の行徳は、ほとんど跡をとどめずに、消え去ろうとしています。

この間、観察舎にも様々なできごとがありました。鉄骨プレハブ二階建、一階が住居というささやかな旧観察舎は、三階建の新館に変わり、夫婦二人だけの勤務体制は、市職員が二名加わって四名となりました。保護区と観察舎の存続については、これでどうやら確実になったと考えてよいでしょう。

 今後に残された課題は、観察舎のより充実した活用、そしていよいよ、保護区の環境改善ということになります。生物の保護区域としては、あまりにも単調で貧弱な埋め立て地の環境に手を加え、池や水路を掘り、入り組んだ塩性湿地や入江をつくり、小島を築き、干潟の底質を改良して、真に豊かな水鳥の楽園をめざすということです。失われてしまったかつての行徳の面影のほんの一端なりとも、この保護区に復元することができるでしょうか。

 一九七六年に創刊された行徳新聞の第二号から、毎月一回掲載していただいた「新浜だより」は、観察舎のたどってきた歩みのよい記録となりました。この本には、一九七六年から八〇年九月までの記録が収録されています。面白い事件がいくつもおきて、的をしぼるのが大変だった月もあれば、締切日になってもまとまらず、明け方に起き出して取材の散歩に出かけ、何とか記事をひねり出した月もあります。活字になった文章は、筆者を離れて独り歩きしてしまうもの、本となったものを読み返すと、懐かしさもさることながら、何か空恐ろしい気がします。

 末尾にあたり、「新浜だより」の連載と出版の機会をいただいた行徳新聞社の内山明夫氏、一冊の本にまとめ上げてくださった明光企画の編集部の方々、掲載原稿の転載をご快諾いただいた日本自然保護協会、写真をお貸しいただいた山階鳥類研究所の吉井正先生、そして、楽しいさし絵で全体を明るくひきしめてくださったトミタ・イチロー氏に深く感謝いたします。

                 一九八三年九月      蓮尾嘉彪・純子



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