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今、ついに最後の工程を終えようとしている。
バサバサと音を立てながら制服や髪の毛が風に靡いて、こんなにも耳のそばを風が切っていく様は、まるで自分の身体を風がどこかへ運んで行ってくれるような感覚にになる。
視界には皮肉なくらい綺麗な青色が広がっているけれど、君が目を見開いてこちらに手を伸ばしている姿が残像のように脳裏に焼き付いて離れないままでいた。
ごめんね。
校庭にひっそりと植えてある金木犀の甘い香りが、風に乗せられて私の鼻腔をくすぐっていった。
今年も君が言う、橙色をした小さな花が群れなしてちゃんと咲いているみたいだ。
やっと、この明るい空の下で君と手を繋げられた。
どく、どく、とどちらのものかも分からない静かな鼓動の音と、力強く握られているせいか汗ばむくらい温かい温度が、この繋がる自分の左手と君の右手を行き来している。
ああ、何とも愛おしくて、幸せで、生きているんだと思った。
君にこのかけがえのない思いを伝えたくて、君の方を向いたら、君もちょうどこっちを向いていて、さあ、最後に伝えようか。
ぷつん。
ほら、終末論を唱えよう。
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ーーー西暦2X58年 日本国 東京近郊の学校
「『従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまでーーーーー』」
昼休みが終わり、お腹も満たし、昼下がりの程良い温度の中での現代文の授業は苦行と言っても良いほど睡魔との戦いの時間だ。どんな話であろうと心地の良いBGMになりかねない。
生徒が順々に教科書の文を音読しているが、僕には今日はその順番が回って来ないと断定して言えるからこそ余計にのんびりとした微睡みの時間になっていた。
比較的窓寄りの席なので外の景色がそこそこ見渡せる。窓の外に目を向けると、晴天の青空の下でもうほぼ花は散り若葉が茂る葉桜達がそよそよと風に揺られているのが見えた。
僕はこの席が結構気に入っている。窓側から2列めの後ろから2番目。1番後ろだと休み時間の時とかに自分の真後ろで人が行き来するのは落ち着かないし、窓際過ぎると暑過ぎたり寒過ぎたりしてしまう。
この席からだと授業中の人の様子も見渡しやすい。ちゃんと真面目に聞いてるやつもいれば、居眠りしてるやつ、ノートに落書きしてるやつ、こっそりとスマホを弄ってるやつもいる。
そんなことを思いながら今日も僕はぼんやりと教室中の様子を見回して人間観察に徹していた。
あれ、あの子…頭良いし真面目そうだと思ってたけど意外と授業中にスマホ弄ったりするんだ…
彼女は峯山希子といって、学年の中でも10位内には入るくらい成績も良く、身嗜みも校則通り、化粧っ気もなく、性格も控えめで大人しく、さらにシンプルな眼鏡がより彼女の印象を際立たせているかの様に、目立たない地味なクラスメイトの1人だ。
人間観察が趣味に近い僕の考察上だとそんなもんだが、実際必要以上の会話はしたことはない。そんな子が授業中にスマホをいじってたのが少し意外だった。
まあ、今時誰だってスマホくらいいじるか。
僕の通っている学校はこの辺じゃあ進学校として有名で、事実毎年有名大学に何人も進学者を輩出している。校則も決して緩いわけではないが高校2年の春という、学校生活にも慣れ、受験まではまだ時間があるため勉強へそこまで重く力を入れる必要もないせいか、みんな少し緩みがちな時期なのだろう。
かく言う僕も強く行きたい大学がある訳でも、夢がある訳でもないので、そんなに勉強を励んでる方ではない。成績も中の上くらいだ。さらに言うと、数学や物理なんかの方が好きなので、現代文とか古典なんかの国語系は勝手な苦手意識も大きくて、やる気の出ない教科なのである。
だから余計にこの時間はのんびり傍観するのに徹してしまいがちなのだ。
そうやってこの後ろの特等席からこの小さな箱を俯瞰しながら、再び峯山さんの方に視線を移すと、彼女はもう、ちゃんとペンをしっかり持ち、顔は先生の方に向き直っていた。
峯山さんの席の斜め後ろには、肩につくくらいのショートボブの髪型をした女の子が座っている。中野咲という名前で、小柄な割にスタイルは女性的で、気さくで優しい雰囲気の子だ。彼女の特徴をあげるならまだまだあげれる気がする。彼女は僕の最近少し気になってる人でもある。人見知りなところがあるのか、少し照れながら笑う時の笑顔がとても可愛らしいのが魅力だ。
彼女を観察していると、ノートと黒板を忙しなく顔が行ったり来たりしていて、小動物のような愛らしさを感じた。
ああ、また一つ彼女の可愛い特徴を見つけてしまったよ。
そんな風に中野さんに気がいきすぎたせいで、僕は全く周りが見えなくなっていた。
「おい、各務!何ぼーっとしてるんだ!」
突然名前を呼ばれたので驚きながら前を見ると、国語教師とばっちり目が合った。どうやら確実に僕の名前を読んだ人物は、教卓の前で腕を組みながら眉間に皺を寄せている国語教師に間違いなかった。
「っ!あ、はい、すみません」
「今の私の話聞いてたか?」
「……聞いてませんでした」
「全く、昼食後の授業だからって気をぬくんじゃないぞ。はいじゃあこの10行目読んで」
「すみません…『老婆は、片手に、まだ死骸の頭から奪った長い抜け毛を持ったなり、蟇
ひきのつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな事を云った。「成程な、死人
しびとの髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。ーーー』」
「はい、そこまででいい。それと各務は放課後国語科準備室に来るように。はい、次その後ろから読んで」
ああ、最悪だ。ぼうっとし過ぎた。今日の俺の放課後は無くなったのが決まったよ。しかも注意された時中野さんもこっち見てたし。ああ、最悪だ。今日は絶対最悪な日だ。
僕はこの失態で、この日の放課後にもっと最悪なことが起きて、この日が本当に最悪な日になるのを思い知るのだった。