帰路
俺がパンクしたのかというくらい空気の入っていないタイヤに空気を入れてまで自転車をかっ飛ばしているのは、それが最も手っ取り早い用事があるからだ。
赤い円に白い横棒の入った道路標識の脇をすり抜け、幅員一メートル前後の細い路地を突破して、隘路口に待ち構えていた太陽光線に目を細める。
そこそこ急な坂道を、ブレーキを緩くかけて駆け下りていく。麓のコーナーを急角度で曲がり、左手に神社の森を見ながら両側一車線の薄暗い道を疾走。ここからがメインエリアだ。
一分の走行で十個以上の角を曲がる。この辺は古い住宅街だから、地元の人しか知らないような裏道が無数にある。そのほとんどが、歩行者が三人すれ違えないほどの細い道だ。
やがて――三十メートルほど先、背に光を受けた人影が大きく手を振り、叫ぶ。
「……ぅおーい!」
……うるさいよ。表情が見える距離ではないが睨み付ける。
後輪を斜め前方に押し出しながら急ブレーキ。少女――渕田明音の目の前で停止。
とりあえず、『閑静な住宅街で大声出すとか傍迷惑だからやめろ』という意思をこめた視線をぶつける。だが彼女は意に介した風もなく「ごめんねー」と右手を挙げてきた。
「……何の用事だ?」
「まあとりあえず入ってよ」
黒髪ロングの常識を覆すフワフワ感で以て、彼女は俺を中に誘った。
「ハイ」
三角じゃないショートケーキが鈍重な音を立ててテーブルに置かれる。
「……ケーキ?」
「うん、ホールケーキ」
……態度の割にこいつは思いがけない言葉を発したりする。中学生が咄嗟にホールケーキとはなかなか言わないと思う。ボキャブラリーが豊富なのか機転が利くのか。
「の、四割くらいだな」
円グラフみたいになっている。
「そう? サイズとかよく見てないや」
言いながら明音はキッチンへ戻っていく。抽斗を引く音に続いて銀器の鳴る音。……展開が読めた気がする。
「もしかしてこれ、食うの?」
ケーキの半径は決して小さくない。
「うん。食って食ってー」
戻ってきた明音の手にはナイフとフォークが載せられた皿。花も恥じらう女子中学生が『食う』とか言うなよ、と思う。
早速ナイフをケーキに入れ始める明音に、俺は言った。
「どうしてこうなった?」
「うんとね、明後日クリスマスパーティーやるでしょ?」
「ああ」
「それで、お母さんとみーちゃんとあたしでお菓子とか試しに作ってみたんだ。ケーキとか作ったことないから、ぶっつけじゃまずいかなって思って」
「それでフルサイズのケーキを作ったけど食べきれなくて、ってことか」
「うん」
「それで、なんで俺が呼ばれたんだ?」
「一つは、家が一番近かったから。あと、うちの家族に味覚の偏りがあった場合リカバリーできないでしょ? だからりゅー君の意見も聴こうと思って」
「ケーキの味の違いなんか分かんねえよ」
「美味しければそれでいいんだからー」
「そう、かな?」
半ば思考停止している自分に気づいた。
いつの間にか取り皿にはケーキが乗っていた。角がはみ出している。……明音の指がそれを押し込んだ。客に出すものに何てことしてんだ。
「じゃあ、どうぞ召し上がれ」
「……いただきます」
釈然としないものを感じながら、手を合わせて会釈をしてからケーキにフォークを突き立てる。想像していたよりずっとやわらかくて驚いた。
「本気で作ったんだな」
それから角の部分を切り取って口に頬張る。
「ん、うまいよ」
素直に褒め言葉が口をついて出た。明音は少し照れた様子で「よかったー」と放念の息を吐く。
「でも、一人でこんだけは食えないなぁ……」
改めてそのボリューミーなケーキに視線を落とし、俺はため息をつく。嫌ではないが、さすがに苦しい。四割サイズでもすでに俺の顔と変わらないくらいの大きさなのだ。
「手伝おっか?」
「いや、お前も食ったんじゃないの?」
「お腹いっぱい食べたわけではないよ、味見がてらだから」
「食えるだけ食ってから回せよな……」
ふふーん、と鼻息を漏らして得意がる明音をジロッと半眼で見る。と、明音の手が取り皿に伸びる。素手でスポンジ部分を軽くつかんで持ち上げ、
パクリ。
直で行った。
「え? ……いやいやいやいや」
しれっとケーキを取り皿に戻す明音に、俺は何度も手を左右に振る。ダメだろ。
「お前、それでいいの?」
「全然無問題よー。と言うか狙い通り?」
「何? 俺に食わせたいの? 食わせたくないの?」
「食いたくないの?」
「食いたくなくはな、『食う』って言うのやめろ!」
「食べたくないの?」
「いや美味しいし食べたいのは食べたいんだけど食べていいのかよこれ?」
「食べたければ食べればいいじゃん?」
軽く明音を睨んで、
「……食べるからな」
「どうぞ召し上がれ」
そのフフン顔やめろ。俺は悔しくて鼻息を漏らした。
帰路につくべく、俺は渕田家のドアを出た。
年の瀬の冷気は、火照る頬を風になって流れていく。けれど、冷ますには至らず、上滑りして消えていった。こんな気温でおそらく真っ赤になっているであろう自分の頬をバチンと左右同時に叩く。
自転車の前輪をつついたりしている明音に
「俺帰るから」
と一声かけると、彼女は「よいしょ」という声とともに立ち上がった。黒髪が少し風に靡いて、唐突に色っぽさが現れて、俺はびっくりして、それで視線を逸らしつつもう一度頬を叩いた。「よいしょってゆーな」
悪からず思っていてくれているのは何となく察していたが、明音は俺が思っている以上に俺に懐いているようだった。クリスマスには落とされそうなペースで明音への好感度が上がっているのを自覚した。
はぁ。真っ白なため息をついて自転車を開錠、サドルにまたがる。
「送ろうか?」
「まさか。そんなに遠くないし、俺自転車だしな」
「そっか。じゃーね、また明後日」
「五時だよな」
「うん。あ、朝の五時に来ても起きてないからね」
「バーカ」
少し笑いあってから、足をペダルに乗せた。
「じゃ」
地面を蹴って――ぷす、という音を聞いた。
「うおっと」
「どうしたの?」
サドルから降りて前を覗き込み、俺は頭を抱えた。前輪が画びょうを踏んでパンクしている。
「……そんな都合よく針が上を向いて落ちてるわけあるか」
「どうしたの?」
あくまでものほほんとした表情で尋ねてくる明音の顔を見ると、風が袖から吹き込んできて俺は身震いした。
明音は俺が思っている以上に――。
「どうする? 送ろっか?」
今は亡き『エッセイ村』に寄稿していた作品を、今さらではありますが自作として改めて投稿。
一応断わっておきますと、ちゃんと元村長からは許可を得ています。
なぜ今投稿したかはご想像にお任せします。