魔法教師
次の日の朝、ドロシーはフラキエス国立魔法学校の庭にあるベンチで一人座り、読書をしていた。それはいつも通りのことだった。本の内容が一文も脳内に入っていないことを除いては。あの赤髪の少女の言葉が忘れられない。世界を知りたい。ドロシーは魔法の知識を追求してきた。ドロシーの心はルシエに揺らされていた。
「気が晴れないみたいだね、何かあったのかい?」
いつも通りの光景であるはずなのに、それを見透かす者がいた。
「……オーウェン先生はいつも私のこと、お見通しだね」
オーウェンという名の老教師だ。白くたくましい髭を蓄えた老紳士は、ゆったりとした口調で心が凪いだような心地がする。校内の彼の評価は高く、どの生徒からも慕われている。ドロシーはこの人物を先生としてだけでなく、人として尊敬していた。彼の慧眼は老眼鏡をつけてもなお、遺憾なく発揮しており、未来さえも見通しているのではないかと思わされる。
「君のことをいつも気にかけているからね」
ドロシーの悶々とした心持ちに、更に疑問が付け加わる。
「どうして私を?」
横に掛けてもいいかね、という問いにドロシーは首肯すると、ドロシーの真横にオーウェンは腰掛ける。そして、オーウェンは優しい表情一つ変えることなく質問に答える。
「君が優秀すぎるからだよ」
ドロシーの疑問は更に深まるばかりだった。
「理由になってないですよ」
眼鏡の奥に見える、灰色の瞳は老いてもなお澄んでいた。言葉はなくとも、その信念を貫く瞳だけで、ドロシーは心が落ち着けられるような感じがした。
「君は極めて聡明で思慮深い。だから、相手に迷惑を掛けないようにしようと、自分の意思にブレーキを掛ける。自分ですべてをなんとかしようとする。
私も昔は自分だけで何とかなると思っていた。全能感に浸っていたんだ。
しかし、違った。現実と時間というものは冷酷だ。人は一人では生きていけないように仕組まれているんだ。
君は誰かに頼るべきだ。信頼できる誰かに」
オーウェンは遠回しに私にすべてを打ち明けろと言いたいのだろう。しかし、ドロシーもそれに対して、嫌な思いは一切していない。
「……先生、生きる意味って何ですか?」
オーウェンはフフッと微笑んでから、口を開いた。
「私の人生観で得てきた答えだ。君の意向にはそぐわないかもしれない。
私が教師をしてきた中で、一番難しい質問だ。私もその明確な答えには辿り着いてはいないよ。漠然とした答えは出ているが、それを君に伝えるのは忍びない。
その理由はその答えを探すのが君の人生であり、人によって答えが異なるからだ。私にとっての生きる意味があり、君にとっての生きる意味がある。生きる意味を探すことこそ人生。それが私が得た答えだ」
難しい質問に対して、淡々と咀嚼しやすいように言葉を選んで、ドロシーに伝えていることがわかった。そこからも、ドロシーはオーウェンが賢明で崇高な人物であることが実感できた。
「……正義ってなんですか?」
「正義は個人や時代によって変容するものさ。
私の正義は誰かに手を差し伸べること。私が教師を志した理由だよ。
ドロシー、君にとっての正義は?」
突然、オーウェンに質問され、ドロシーは口をつぐむ。やはり、この人物は見通している。ドロシーが何に迷い、何を求めているかを全て知っている。だが、その答えには自分で辿り着けと言わんばかりの真っ直ぐで真剣な眼差しだった。ドロシーが幼い頃から何度も向けられてきた視線。おそらく、アレクセイの指名手配とドロシーの変化が重なったことから推測したのだろう。
「……わかりません。
私には何が正しくて、何が正しくないのかがわからない。私は家族の……国の価値観に従ってきた。
私は王の娘であると同時に、予言で選ばれた一人。予言のままの行動をすると、命を落としてしまう。それに、ウェドニアが原因で、この国は厄災に巻き込まれてしまった。だからこそ、私達はアレクセイのことを忌避してきた。
でも、アレクセイ一行が悪い人には見えなかった。でも、交わってはいけない存在だから、強く当たっちゃった。
……ねぇ、先生、私はどうすればいいの?」
オーウェンはゆっくりと頷いた。そして、何かの思いを噛み締めるように口を開いた。
「君は私の生徒の一人だ。だが、私は魔法教師として君に教えられることはない。君は優秀だ。魔法使いとして完璧だ。今まで見てきた生徒で、君を超える才能を持っていた人はいない。
でも、君は完全じゃない。完全無欠の人間なんて、この世界に誰一人いない。私だってそうだ。この世に、完全無欠の人間がいたら面白くないだろう」
ドロシーはオーウェンの言葉に納得しながら聞いていたが、話の途中で自分の質問と噛み合っていないことに気付く。
「先生、私はそういうことを聞いてるんじゃ……!」
オーウェンは白い髭を蓄えた自身の口の前に人差し指を立てて、ドロシーの言葉を静止させる。
「ドロシー、世界を知りなさい。そして、『君自身』の価値観を信じなさい。最後に、君が『信じる人』を信じなさい。
私は君に魔法のことは教えられない。古代の魔法も、現在の魔法も君の知識には、もう遠く及ばないだろう。魔法教師としての役目は既に終えてしまったんだ。
だが、教師としてなら、まだ君に教えられることはある。
昔の偉人はこのような言葉を残している。世界には君以外に誰も歩むことができない道がある。その道がどこに通じているかと問うてはならない。ひたすら進め。
ドロシー。君には君にしか進めない道がある。君の未来を決めるのは他の誰でもない。君が決めることだ」
ドロシーは先生の言葉で、他の価値観に囚われていたことに気付いた。そして、自分の判断ではなく、周囲の判断に合わせていたことに。
自分で生きたい、そう思った。
「私は、彼らと共に世界を見たい。何が正しいかはわからない。わからないからこそ、知りたいの」
オーウェンはにこりと笑った、どこか悲しげに。
「それが君の答えなら、その道を進め。それが正解か、不正解かは君の未来が決めることだ。目の前の荒野は暗く広いぞ、迷うことなく気を付けて進め。そして、着実に進め」
「はい!」
ドロシーは無限の荒野へと続く鉄扉を力強く押すかのように、力強く立ち上がり地面を蹴って走り出す。そして、脇に置いていた魔法の箒にまたがり、どこか遠くへ飛んでいく。そして、オーウェンの視界から消える。
オーウェンはドロシーとの魔法学校の日々を思い起こす。最初は魔法薬の入った試験管などを破壊したり、古い魔法書を爆破させたりして、目が離せない少女だった。しかし、泣くことはなく、駆け寄るオーウェンに失敗したと笑顔を浮かべていた。何度も何度も失敗する姿を見てきた。そして、見るからに痛々しい怪我を手当てしてきた。もうその役目も終わりだということを、ひしひしと実感していた。
「ドロシー、君は私の誇りだ。君のような優秀な生徒を持つことができて、誇りに思っている。私の生きる意味は君を育てることだった。それほどまでに君を愛していた。教師として失格だ。
もう私は老いぼれだ。もう旅に出る君と再会することはないだろう。君の成長に携わるのも、これで最後だろう。だから、これが私が君にできる最後のことだ。
どうか、いつか君の噂を聞かせてくれ」