敗北の少女
「決闘を挑んだ限りは一対一。それが剣士たる礼儀。そうですよね?」
ルシエの言葉に、ドラキュールは喜びを覚えたように口角を少し上げる。その瞳にはルシエは写っておらず、遠い過去を眺めているような凪いだ眼差しだった。
「ここまで肝が据わった若い者は久しいな。
ふむ。その腕の甲に刻まれた紋章……。暗黒の時代に選ばれた希望の一人か。このような若い者に世界の重責を担わせるか。リュウ・アレクセイもそうだが、若い者が背負う十字架が重過ぎるな。……いや、若さゆえか?
さて、私の独り言は置いておこう。私は君と諍いを起こすつもりはないが、君がアレクセイを庇うなら別だ。こちらはアレクセイを保護する必要がある。それを邪魔するなら、剣を抜いて応じよう」
ドラキュールは過去と対峙しながら、自身の剣のグリップを右手で握る。
「私はそのつもりよ。私はこの手に刻まれた紋章の通り、あなたに負けるわけにはいかない。
私は剣技において無敗の英雄なんだ」
ルシエはガイアを抜き、中段に構える。
「剣技において無敗の英雄……か。良いだろう。その仲間を思う心の強さが如何なるものか見せてもらおう」
ドラキュールの黒い鞘には傷が幾星霜。まるで流星の軌跡のような傷が刻み込まれていた。しかし、その傷は決して汚れて見えず、日々手入れをしているからこそ、光沢を放っていた。何度も剣を収める鞘に攻撃を受け、そして共に過ごしてきたのだろう。
その果てしなき経験がルシエの前に立ちはだかった。ルシエは足がすくむ。必死で勝ち筋を脳内で模索するが、見つからない。ドラキュールは紛れもなく、ルシエと対極にいる剣士だった。ルシエは自身の俊敏性を活かした攻撃重視のスタイル。ドラキュールは自身の経験を重視した防御の型。
ドラキュールも遂に剣を抜く。
「来ないなら、私から行くぞ」
「心配せずとも、私から行く!」
急かされたルシエは自身のスピードを活かし、ドラキュールの背後に回りこむ。ドラキュールは振り向かない。ルシエはそのとき、その程度なのかという疑問を胸にふわりと抱く。その疑問はじわじわと込み上げてくるもので、桜の花が時間をかけて開花するようなほど、ゆったりとしたものだった。
しかし、ドラキュールは背後を見ずに、ガイアの一太刀を刀身で受け止める。ルシエはスピードに追いつかれたことに驚いたが、それは一瞬だった。刀身で受け止められたガイアをドラキュールの喉元に伸ばす。しかし、ガイアの切先にはドラキュールの鞘があり、上手く伸ばせなかった。
攻め手を失ったルシエは一度後退する。
「それで終わりか」
「まだまだ!」
ルシエは真っ向から突っ込む。ドラキュールは背後に回していた剣を中段に構える。
ルシエはガイアを地面に突き刺し、棒高跳びの要領でドラキュールを飛び越える。そのまま体を捻り、ドラキュールの後頭部に突きを繰り出そうとする。
しかし、ドラキュールはその動きを知っているかのように、華麗な身のこなしで後ろを向き、自身の剣でガードする。鍔迫り合いの状態。時間稼ぎにはちょうどいい。
ルシエはマッシュ戦のときに使った『蜘蛛の巣』を繰り出すためにガイアを細かい糸にする。
「その技は妙だな。近づくのは危ないな」
長年の経験からか、ルシエの狙いを勘づいたようだった。今度はドラキュールから距離を取る。
ルシエは奇妙な感覚に襲われていた。相手は相当な手練れではあるものの、老いている。単純な素早さではルシエは圧勝だが、その素早さに追いついてくる。まるで鏡で反射する自分と戦っているような、水中で不自由さと戦いながら剣を振り回しているような感じがした。
「多彩な攻撃手段だな。君は何人と剣を交えてきた?」
「二人よ」
ルシエは父とスターリアのロレンツを思い出しながら、答えを発した。
「ほう。その二人は余程の手練れだったのだろうな。
しかし、たった二人でこの高みまで来たか、若き英雄よ。
だが、私の剣の重みには二千人以上の重さが乗っている。我が戦友の誉れのために、私は君に負けるわけにはいかない」
「確かに、私はあなたより背負うものが少ない。
でも、私は世界の希望である以上、背負うものもある」
ルシエがその言葉を発したとき、ドラキュールは悲しそうな表情を浮かべた。
「何をそこまで背負う? 君の実力は認めよう。その年齢で卓越した剣術や体術を体得している。紋章に選ばれた者とはいえ、まだ若い。将来もある。闇の時代でも、幸せはある。
しかし、君がしようとしているのは世界を敵に回すこと。暗黒に満ちた世界を変えることができるのは燦然と輝く希望の光。一輪の儚い花では世界は光り輝かない。むしろ、そこに咲いた花は世界の陰謀によって、ただ踏み躙られるだけだ。
何がそこまで君を突き動かす?」
ルシエは父を失ってから、ずっと抱いていた願望を口にする。
「私は……本当は、剣を交えたくない。誰もが戦わなくて済むような平和な世界を目指したい」
ドラキュールは更に儚い顔を浮かべる。
「なぜ今剣を交えようとするのかという無粋な質問はしない。
私もかつて抱いていた、甘い願望だな。争いは世界から絶えることはない。人は私利私欲に奔走する。己と他人を天秤にかけ、遂には自らの欲に溺れる。それが人間という醜い生き物だ。私欲と偽善の矛盾を抱えて生きる、皮肉な生き物だよ。
もし争いが絶えるとすれば、人類が、生物がこの星から滅びるときだろう」
「やってみなきゃわからない!」
ルシエは左手でガイアを振りかぶる。その剣の筋道を予測するようにドラキュールは守りに徹しようとする。
しかし、ルシエは伝導の魔法を使い、左手から右手にガイアを瞬時に持ち替える。ルシエは全身を捻り、右腕をドラキュールの足に向かって振り抜く。
「その技も知っている。二年前に剣を交えたクルブリアのフィリップ・ソーレスと、その弟子のメイス・ヴォーンスが使っていた。どちらもこの世を去った。そのうち、フィリップはこの手で殺めてしまった。良き剣士だったよ。……剣を持つということは生を奪うことだと身に染みて悟っている。
そして、平和を目指した結果も。また、理想という深海にもがき苦しんだ人間の末路も知っている」
ドラキュールはルシエの右腕の軌道上に氷の柱を作り上げる。ルシエは反応しきれず、左腕の肘裏を思い切りぶつける。激痛が走るが、ルシエはものともしない。
氷柱でのガードに終始せず、地面から鋭利な氷を生成し、ルシエの足元に向かって襲いかかる。足を狙うのはルシエのスピードを奪うため。ルシエは持ち前の素早さで、その攻撃を避ける。
「……私は負けられない。選ばれた英雄として!」
ルシエは伸縮の魔法でドラキュールの喉元に剣を伸ばながら、突進する。その勢いは比類なきもので、普通なら防ぎようがなかった。普通の者が相手なら。
「思いの強さは認めよう。
だが、手を伸ばしても、思いが強くても、届かない世界はある。果てなき宇宙のように。
その技も知っているんだ。残念ながらな」
だが、ルシエの足に纏わりつくように氷が張っていて、動けなくなっていた。鋭利な氷の槍は陽動であり、同時に足元に薔薇のような氷をゆっくり丹念に成長させるように張り巡らせていたのだ。ルシエはどれだけ強く足を動かしても、氷は砕けることなく蔦のようにルシエの足に絡んでいた。つまり、ルシエ最大の武器である機動力を奪われたのだ。
「私は甘い。誰よりもそれを自覚している。そうでなければ、足を氷漬けにして君を殺してしまっていたはずだ。我が若き頃の理想の名残だろうな。
私が相手で幸いだったな。さもなくば、この剣が君の命を刈り取るところだったぞ」
ドラキュールは剣を鞘にしまう。ルシエには、その所作一つ一つが呼吸をするように実に自然な出来事に見えた。仕草でさえも、ルシエは敗北を喫した。ルシエも首を垂れて、ガイアを下ろす。人間としての器も、剣術の技量も勝ることはなかった。
戦いに敗れた上に、命があるという最大の屈辱をルシエは受けた。
「……あなたは本気じゃなかった」
「初手で、君は油断しただろう。その程度なのか、と。そこから私の手のひらの上で転がされていた。
人間たる者、一度油断をすれば、その油断から抜け出すのは容易ではない。深層心理で慢心を生む」
「どうしたら、あなたがいる世界に私は行けるの?」
ルシエは去りゆく背中に大声で問うた。その問いに対して、ドラキュールは落ち着いた低い声で応じる。
「若き魂よ、着実に進め。目の前に道は見えなくとも、一歩一歩進め。さすれば、道は……世界は見えてくる」