物語の始まり
どこからともなく、鳥が飛び、うさぎや鹿が走り出す。しかし、そのうちの何匹かが体の制御がなくなり、宙に浮きだしていた。それだけではなく、遠く離れた町の中心からは叫び声がやまず、阿鼻叫喚となっていた。突然町の中心に出現したブラックホールのような闇。捕らえた獲物を逃がさないアリジゴクのような魔の手。人も動物も区別なく、飲み込んでいく。
「お父さん、怖いよ」
「大丈夫だルシエ。安心しなさい」
父のジャックは笑顔を浮かべながら、腰に携えていた剣を“魔法”で細い糸状にし、私を木に巻き付ける。その後すぐ、ジャックは闇の引力に負けたのか、体が徐々に浮いていく。
「待ってお父さん、行っちゃダメ!!」
ルシエはジャックの右腕を両手で強く引く。しかし、十歳の子どもに成人の体重を支え切れるわけがなかった。最後に、父親は私に微笑みながらこう言った。
「ルシエ、愛している」
声にもならない声で、父を呼ぶ。しかし、無情にも彼は闇に消えた。
「……エ、ルシエ。大丈夫? うなされていたわよ」
私はその悪夢の一部始終を見て目を覚ます。服が汗で濡れて、少し寒く感じた。
「うん、大丈夫だよ。母さん」
ルシエ・ジャンク、それが私の名だ。歳は十八。家族は母親のイザベルだけ。
「また、あの夢を見たの?」
「……うん」
母親はルシエのことを心配する。いつもルシエのせいではないと言ってくれるが、夢は人の気持ちなど考えずに精神を蝕んでくる。ルシエに覚えていろと言わんばかりに、頻繁に同じ夢にうなされる。
数十秒足らずだが、世界各地に現れた膨大な力は成す術も無い人類や生物を引き込み、世界各地に甚大な被害を及ぼした。ルシエの心もそうだ。
父親と森に散歩に行ったとき、突然闇がルシエの住むスターリアに出現し、父は闇に吸い込まれていった。
その時の父親の笑顔は今でも忘れられない。何故笑った。そして、なぜ最後の言葉が『愛している』なのか。それがかえってルシエを苦しめる。
「ルシエ、今日は頼んだわね。それと気を付けてね」
母親から頼まれたのは町への木材の販売だ。
「うん。任せて」
今やルシエは十八だ。あれから八年経った今も世界は乱れている。動乱が絶えない乱世。
このスターリアという、ごく普通の街でも、あれから物騒な事件が多い。殺人に至ることは少ないが、窃盗や暴動、立てこもり事件などが立て続きに起こっている。
ルシエはスターリアの町の雰囲気はとても好きだった。町中に流れる、優雅なせせらぎ。その上をゴンドラで行き来する人々。その景観は世界でも一二を争うのではないか。それを楽しみに町の関所に行き手続きをする。
しかし、街の様子が少しおかしい。関所を出た辺りに人が集まっているので、ルシエは人ごみに隠れて、その話を聞いた。
「何故、貴方のような方がこの街、スターリアにいるのか。さては、変なことでも企んでいるのではないですかな」
これは市帝の声? このスターリアを統治する市帝ともあろう人がどうして関所まで出向いているのか。
「マッシュさんがあんな改まった態度なんて、誰なんだ一体」
周囲の人々も市帝の姿にどよめきを隠せないようだ。
市帝マッシュは相変わらずのぽっちゃり体型。しかも、着ている服装が優美なだけあって、正直似合っていない。対して、話している相手は周りから顔を見られないようにフードを被っている。体つき的には成人ほどの男の人であろうか。そして、その両脇に一人ずつ小さい影。子どもであろうか。子どももフードをしている。大きなバッグをフードを被った青年だけ背負っている。なぜ青年にマッシュがこのような態度を?
「変なことだなんて嫌だなあ。しかし、そう思われるのも仕方ない」
「何の御用でしょう」
語気を強くして、マッシュは尋ねる。
「貴方は、予言をご存知ですか」
ハッとルシエは驚く。予言、急に彼は何を言い出すのか。
「存在は知っていますが、到底信じられるわけはないですねぇ。信じるとでも仰るのですか」
「いえ、可能性を見出しているだけです。ではマッシュ市帝。“アルカディア”に服従したままで良いんですか」
そうだそうだーとヤジが飛び交う。
アルカディアと呼ばれる町。規模、武力、経済力、総合しても個々であっても勝るものなし。故に理想郷を意味する、通称"アルカディア"と呼ばれるようになったのだ。
「な、何を仰るんです! そんな話、この場では! 聖なる国の者が聞いてなどしたら!」
「聖なる国、ですか」
チラリと見えた彼の口からはそんな風に呟いたように見えた。
「わかりました。ではまた日を改めてお伺いさせてもらいます」
市帝はどこか悔しそうな顔をしていた。
ルシエはすぐフードの彼を追った。予言という言葉を聞いては居ても立っても居られない。おつかいどころではない。
彼はその後、ゴンドラを借りて乗ったようだ。ルシエの家のゴンドラはない。治安が悪いため、あってもすぐに取られるものであるからだ。
ルシエはそのため、流れる川の上に架かる橋を何度も渡りながら、彼を追う。この中心都市は五芒星状で、川は蜘蛛の巣のように張り巡らされている。その巣の中心部にマッシュ市帝が居座る官邸がある。
彼らがいきなりそこに行くわけもない。「日を改めて」と言ったんだ。
しかし、彼は何処に行くか予想しなければ、到底ルシエは追いつけない。何とかして回り込まなければ。
二人の子ども、大人に近い響きを持つ青年。何処にいるんだ。ここは市街地。彼らはきっと旅をしている。予言、大きなバッグ。旅をするには。日常品が必要になる。きっと市街地でのマーケットだ。市街地は官邸の南側にある。今いるのは西側。道をショートカットすれば、間に合う。
ルシエは全速力で川縁を駆ける。川幅はそこそこ広く、どんなに良いタイミングで跳んでも届かない。しかし、川岸に止められたゴンドラになら、届く!
跳躍する前、向かい岸に停泊されていたゴンドラが、ギシっと鈍い音を立て、水面はバシャッと爽やかな音を立てる。
これは間に合った、と思った瞬間の事だった。ゴンドラからジャンプしようとしたが、舟全体が水に揺れて不自然な動きをしたからか踏み込みが上手くいかず、少ししか跳ばなかった。水に一直線。落ちる。
「うおっと。君、大丈夫かい」
「ご、ごめんなさいっ!!」
通っていたゴンドラに腰から無事に着地。
したと思っていた。しかし、ルシエは腕の中にいた。更には、フードを被っていた青年の腕に着地していたのだ。お姫様抱っこ、という形でキャッチされる。恥ずかしく思い、ルシエは急いで彼の腕から降りようとする。
「はわわわわわ」
「あ、あぁ。ごめん。下ろす下ろす」
彼は真摯な態度で素直に下ろしてくれた。どうやら、悪い人ではないらしい。
「ご、ごめんなさい。嫌だったわけじゃないんです。驚いちゃって……」
彼は微笑む。意外と凛々しい輪郭をしている。髪の色はダークブラウン。男性にしては長めの髪。瞳は湖のように澄んだ翡翠色。年もルシエに近そうに見える。
「大丈夫、大丈夫。僕の方こそ、不慮の事故とはいえ女性に触ってしまって、怪しまれても文句は言えないからね。
でも、追跡はよくないね。君が足を踏み外すと思って、ここで待っていたんだ。それにしても、君速いね」
どうやら、ずっと追ってきたことを暴露ていたようだ。
「ご、ごめんなさい。少し気になったことがあって」
いきなりゴンドラに落ちてきたせいで二人の子どもは怯えてる。申し訳ない気持ちで心がいっぱいになる。
「気になったこと? それは僕が市帝と話していたこと?」
ルシエは首を横に振る。
「予言について話していたから」
「君も知っているのか。予言のことを」
ルシエは予言が気になった、本当の理由を言えず、頷くだけにした。
「しっかし、よく僕達の行く方向がわかったね。良ければ、何処に行くと思ったか、教えてくれないかい」
「私は大きな鞄を背負って、予言の話をしてたから、市街地だと思ったの。旅をしていると思ってね。だから買い物をすると思ったの」
彼は感嘆の声を上げながら拍手した。彼は笑うと青空みたいに爽やかだった。
「実に良い推理だ。
でも、残念。半分は正解かな。旅をしているのは正解。でも、買い物ははずれ。
ところで君、良いところに来たね。ここの住民かい?」
買い物ではない。ここの住民と確認する。
「まさか。ほ、ホテルを探しに?」
「そういうこと。良ければ、泊めてもらえないかな」
偶然か必然か。リュウとの出会いが、良くも悪くもルシエのすべてを変えた。
NGシーン
ルシエ「間に合った!!!」
足ガクンッ。
ドッバーーーン!
リュウ「な、何か、誰かが入水したぞ……」