トイレの老婆
あれは大学生のころ。
一月のどうにも寒い、寒暖差のキツすぎる日のことだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
寝起きがツライ。せっかくの休みだというのに体が火照って重い。
関節が痛む。頭も痛くて熱っぽい。
これは風邪だ。まちがいなく風邪だ。
テスト明けの休日、単位も十分取れて進級できるという解放感で、はしゃぎすぎたのがよくなかったのだろう。
深夜までのゲーム浸り、スナック菓子の暴食――そんなこと体の弱い自分がやればどうなるかわかってたはずなのに。
そんな状況でもって冷えこむ朝方、ろくに布団もかぶらずに寝れば?
――当然ながら病人一名さまができあがりだ。
寝床からごそごそ動き出して薬箱から体温計を取り出す。
で、ベッドに戻って計る。
……37度6分。
むむ。こりゃ微妙な数字だ。8度あったら病院行くのに。
とりあえず買い置きの風邪薬をミネラルウォーターで流し込むことにした。
そして寝る。ほかになにかする気になれない。
腹に食い物くらい入れとくべきかと思ったが、食欲はまるでなかった。
数時間後、目が覚めた。快適な目覚めとはほど遠い。
熱い。息苦しい。今度は腹も痛い。薬で胃が荒れたのだろうか?
ベッドに寝ころんだまま、枕元に放置した体温計で再度はかる。
……うお。37度8分だと。少し上がってるじゃないか。
午後は体温が上がるというけどこれは困った。
かいた汗がびっしょりで気持ち悪い。
かといってシャワーをあびる体力も気力もなし。空っぽの胃も痛い。
しかし排泄の欲求が強く押し寄せる。目覚めたのはこのせいだ。
のどがからからで痛いくらいなのに、下腹部は排泄を強く要求する。
なんだか理不尽に思ったがあまりに膀胱が悲鳴を上げるので、オレはだるい体にムチうってトイレへ向かうことにした。
さて――。
風邪や体調の悪いときは、思考の波長がズレるせいか、異世界のものを見てしまいやすいという。
おれの恐怖体験も実際、そんなときに起こった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
いそいでトイレに入った瞬間。妙に背筋がざわついた。
室内が妙に生臭い。こんなにおい、今までかいだことない。
しかし、違和感を感じるより先に、生理的な欲求が襲ってくる。
熱で頭も働いてなかったこともあり、そのまま便座についた。
そして――。
「ふう」
便座に腰かけ、することすませて一息。
思いのほか体力が削れてるせいですぐには立ち上がれない。
ま、ここまでけっこう急いできたし。風邪でダレてるとこ踏ん張ったんだから、しょうがないよね。
「ふう」
さらに、もう一度、大きく息をついたとこで――、
「!?」
……ようやく、おれは異変に気づいた。
太もも裏側。かなり敏感な部分に風の流れを感じる。
なま暖かく、湿った規則的な風がなんども太ももを刺激した。。
(まるで……呼吸みたいな)
自分でそう考えておいて自分でふるえた。
それでもまだまだ続く太ももの違和感。もぞもぞとむずがゆいようなその感覚は、どんどん強さを増していく。
(……虫か? それともヘビか何かが?)
推測しつつ、心臓がばくばくと音を立てる。
勇気を振り絞ったというより、のぞきこまずに入られなかったというべきだろう。
おれが太ももの間におそるおそる視線を向け、便器の中をのぞき込んでいくと。
――そこにいたのは予想外のモノだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――――便器の中にいる何者かと目があった。
「え?」
思わず声が漏れるが……それもしかたないだろう。
のぞきこんだ股の間――白目をむき、しわだらけで蒼白な老人の顔がそこにあったのだから。
ぼさぼさの髪が周囲をおおい、男女の判別はつきづらいけど、おそらく老女のものだろうか?
便器の中にある老婆の顔――奇妙すぎる事態。
ここまで妙に冷静な思考ができたのは熱で頭がぼんやりしてたおかげだろう。
しかし、まともになにかを考えられたのはそこまでだった。
……ヌパッ!
突然、便器の中の老婆が口を開いた。
歯はすべて抜け、むき出しの歯茎をさらしてくる。
かさついた唇の間、唾液がねっとり糸を引き、粘ついた光を放つ。
そんな光景を見せつけられ、おれの心臓がちぢみあがった。
恐怖が一度に押し寄せてくる。
「うわあああああああああああ!」
一拍おいて絶叫が漏れた。
出す物全部出した後でよかった。そうじゃなきゃまちがいなく漏らしてただろう。
それほどの恐怖がおれを襲う。
洋式便座から転げ落ちると、トイレの床をみっともなく四つ足でにげる。
這いずりながらの後ずさり――とにかく一歩でも便器から離れたかったのだ。
……ドン!
背中がトイレのドアに当たる。
あわててドアノブを手で探るが、背中向き、しかも床にへたり込んでる状況じゃ、なかなか見つからない。
(どこだよ! どこなんだ!)
ひたすらあせるしかない。
そんなおれの視界に、便器から飛び出す手がうつった。
蒼白でしわだらけ、かさかさしてる――おそらくさっきの老婆の手のひらだろう。
(おれを追ってきたんだ!)
わけもなくそう思った。しかし、そうとしか思えなかった。
先ほど見かけた老婆。亡霊あるいは幽霊みたいなものだろうか。
とにかく超常的な現象――化け物にちがいない老婆の顔には生きてる人間に対する理不尽な怒りみたいなものが感じ取れた。
あの表情をみる限り、追いつかれたらただではすまないだろう。
――しかし、恐怖と疲労で体が言うことをきかず、おれはもう動けそうにない!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
絶望にかられたおれが、じっと視線を注ぐ中。
老婆は――老婆の手は便座の縁をつかみ、這い上がってこようとする。
…………だが。
ウィイイイイイイイィ!
ガツッ!
機械の作動音とともに老婆の、というか手のひらの動きが止まる。
そして。
ぴゅぴゅっ!
便器から勢いよく水流が飛び出し、トイレの床をぬらす。
……ああ、なんということだろう!
便器からはウォッシュレットの水が噴出していた!
…………あれ?
……もしかして?
床に倒れ込むとき、手がぶつかって作動させちゃったのか?
ちょっと体を起こして、おれがおそるおそる便器の中をのぞき込むと。
そこには排水口から片腕から頭部までをはみ出させた老婆のすがたがあった。
しかし、その老婆の頭にはウォッシュレットのノズルがちょうどつっっかえていて……。
……老婆、ひっかかった?
……老婆、出れない?
ナイスだ。ありがとう、トイレ先進国ニッポン!
と、一瞬だけ便器メーカーに感謝するおれ。
……いや。しかし、老婆が手でノズルをのけようとしてる。
む、このままでは危険だ!
あわてたおれは左右の床を探り、手近にあった物をとる。
思わず手に取ったそれは、なんとトイレ用の芳香スプレーだった!
混乱していたおれは、特に理由もなくただそれを老婆に向け、恐怖のままに噴射する!
と――。
プシャアアアアアアアアアッ!
とくに理由のない噴射が便器からようやく顔を出した老婆を襲う!
たちこめるフローラルな香りとともに、勢いよく押し寄せた芳香剤の噴流は老婆の顔面に吹き付けた。
ぼさぼさの髪がまくれあがる老婆は、まるで強風の中にいる人のよう。
その光景におれはとあるMVを思い出す。
……おお。老婆の幽霊、TMみたい。
さらに暴風とともに押し寄せる芳香パウダーが粘膜を刺激したようだ。
げほごほとむせてる老婆。涙目になってこっちを恨めしそうににらんでくる。
しかし、こっちも命がかかってるのだ。ここで手を止めたりはできない!
おれは容赦なく無慈悲な芳香スプレーを続けた。
すると――。
なんということだろう。
こちらをにらむ老婆の姿がどんどん薄くなっていく。
そして最後、すっと空中に溶けこむように老婆は姿を消した。
……ありがとう。小〇製薬。
ほっと一息ついたあと。おれは手にしたスプレー缶に感謝の視線を送るのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
あの恐怖体験の後、気になって調べた話なのだが――。
近所の人から聞くと、どうやらあの老婆――おれの前にこの部屋に住んでた老人らしい。トイレで孤独死し、しばらくたってから発見されたんだそうだ。
つまり、この部屋は事故物件だったってことになる。
不動産屋が一度別の人間を雇って入居させてたせいで、おれへの報告義務が消えてたらしい。おかげで何も知らないおれが入居し、あんな目に合うことになった。
……まったくひどい話である。
あの体験があまりにも恐ろしかったものだから、おれは次の次の契約更新で引っ越した。
恐怖のあまり、翌日からは七時間しか眠れなかったし三時のおやつものどを通らないありさまだった。
……これが、あの日、おれの体験した恐怖のすべてです。
みなさんも部屋選びにはとにかく気を付けてください。
あと、トイレの芳香スプレーは超大事です。