世界史B:大航海時代~対抗宗教改革
【大航海時代】
背景としてはマルコ=ポーロの『世界の記述(東方見聞録)』が挙げられます。これによりアジアブームを巻き起こし(だって日本は黄金の国ジパング(笑))イスラームを通じて流れて来た羅針盤の改良に成功、航海技術が発達した事で遠洋航海が可能に。船の強度も強くなりより長い航海が出来たのです。香辛料の需要も増え、同量の銀・金と取引される程。
昔は香辛料が欧に入ってくるまで「アジア→イスラーム→北伊諸都市→ヨーロッパ」と途轍もなく馬鹿高い金をかけていましたが、直接海路でアフリカを南下しつつ購入できるようになったのです。そしてキリスト教を広める為にレコンキスタも進んでいます。
始まりは葡の亜進出でした。エンリケ王子(航海王子)がアフリカ西岸を探検させヴェルデ岬に到達。12C後半にジョアン2世の命でバルトロメウ=ディアスがアフリカ南端の喜望峰へ到達(1488)、ヴァスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到達(1498)。因みに彼はインドへ向かうのにアラブ人ムスリムの水先案内人であるイブン=マージドさんを雇って行きました。マリンディ(アフリカ東岸)から雇ったらしいです。
【アフリカ大陸への到達】
始まりはジェノヴァ出身のコロンブスがトスカネリの地球球体説を信じた事です。西王女イサベルに援助を求め、サンタ=マリア号で出発。船で暴動が起こるギリッギリでサンサルバドル島を見つけた(1492)挙句に先住民をインディアンと名付けました。当時は米だなんて欠片も思っていなかったようです。
その後米大陸は1497~98にかけて伊のカボットが英王からの援助を受け北米探検、1499・1501~02に伊のアメリゴ=ヴェスプッチが南米探検をした事で新大陸だと漸く確認されました。他にも大航海と言ったら世界周航したマゼラン(1519~22)等。フィリピンに到達した時に先住民に殺されて部下が旅を続けたので正確には彼は世界一周なんて全くしていませんが。
こんな感じで当時最先端を行っていたのは西と葡。彼等は勢力範囲を決めようぜ、と勝手に教皇アレクサンデル6世が教皇子午線を引き(1493)、その後ブラジルもちょこっと葡に入るようにトルデシリャス条約(1494)を結びます。葡は主に亜、西が主に米を占領する形になりました。
その後、マゼランにより「地球って丸いんだー」と証明され「ならもう一つ線引かなきゃ駄目じゃん」とサラゴサ条約(1529)が結ばれました。
因みにそんな葡ですが、1510年ゴアに総督府を置き支配下に、1511年マラッカ占領、1512年モルッカ(香料)諸島到達、1557年マカオ居住地を明との貿易の為確保、1518年セイロン島占領、1543年種子島漂着、1550~1639年まで平戸に商館を置く、と亜で植民地を広げて居ました。
【スペインによる征服】
アメリカは征服者によって征服されていきました。マヤもスペイン人によって滅ぼされた程です。コルテスがメキシコのアステカ王国を滅ぼし(1521)、ピサロがペルーのインカ帝国を都、クスコを破壊する事で滅亡(1533)させました。
またここではポトシで銀山が発見され(1545)欧に物価高騰をもたらしました。そんな横暴が出来たのは、エンコミエンダ制の所為です。西王室が「植民者達よ、先住民をキリスト教徒にするなら土地と先住民の支配を委ねよう」というお触れをだしちゃったのです。因みに上の文を訳すと
「キリスト教使って支配するつもりなんだ!それを果たしてくれたら好きに使ってくれて構わないよ!」
になりますね。銀鉱山の発掘も農作業も奴隷よろしく彼等は強制させました。
そんな米から欧へはトウモロコシ、ジャガイモ、トマト、煙草、カカオ、唐辛子と今食卓に当たり前に並んでいる物が次から次へと輸入されていました。一方逆はキリスト教、天然痘等の疫病、馬・牛等大型家畜、鉄、車輪と大半物騒なモノです。おもに疫病はヤバかった。インディオの数は激減し、それを見ていたドミニコ会宣教師ラス=カサスはあまりの不憫さにこう告発しました。
「彼等が可哀想です。インディオに変わる労働力としてアフリカの黒人奴隷を輸入しなさい」
……アレ?
ちなみにこのエンコミエンダ制は17Cからアシエンダ制に変わっています。債務奴隷をインディオの代わりに労働力とするプランテーション(大農場で単一作物を輸出用に作る)にするようになりました。アシエント(多分アシエンダの語源)は奴隷供給契約の意味です。
【ヨーロッパ世界の変容】
大航海時代の幕開けと共に欧は様々な革命に襲われていきます。まずは商業革命。イタリア中心の商業だったのが大西洋を中心に広がりリスボン、セビリャ、アントウェルペン等に広がりました。
次が価格革命。新大陸で銀山が発見され、ヨーロッパに横流ししたら銀の価値が駄々下がり→物価高騰→貨幣の価値も下落し、地代を貰って生活していた封建領主が没落していきました。これは西欧の話で、東欧では西欧諸国への穀物輸出の為再販農奴制が敷かれています。
と、人や物の移動が世界規模になっていきましたので、近代世界システムが成立しました。中核、つまり覇権国家と呼ばれる西、蘭、英、米が工業製品を輸出する為豊かな資本・技術を有する。一方周辺と呼ばれるその他の国、主に初期のアメリカやアフリカ、東欧が工業原料や食糧を生産する役を担っていました。
【ルネサンス】
この言葉は元は仏語で、スイス人ブルクハルト(19C歴史家)が『イタリア=ルネサンスの文化』という著書で初めて使いました。再生を意味するこの言葉の元は古代ギリシア・ローマの文化の再生です。14~16C伊のフィレンツェで始まり、仏・独などへ拡大していきました。
カロリングルネサンスや12Cルネサンスといった具合に何回かに分かれて居ますが一番有名なのがこの時代です。神様が不倫やら浮気やら二股やらをする文化を元にしていますので人文主義を重視し、自由で合理的、人間らしい生き方を追求しました。これは言外に「教会なんて堅苦しいモンからおさらばじゃ!」という事になりますね。
背景としては東方貿易で生まれた富裕な市民層が道楽に走った事です。メディチ家などの大富豪や教皇が画家のパトロンになって仕事・金を与え文化を発展させて行きました。中心地はフィレンツェでしたがしらいにアルプス以北に広まっています。
又この時代科学技術が発展し、ポーランドの天文学者コペルニクスは地動説を唱え教会に怒られたり、フィレンツェの天文学者ガリレイが同じことやって教会裁判開かれたりしました。
そんな技術の中には三台発明もありまして、羅針盤によって遠洋航海可能に、火薬によって戦術が変化し騎士の没落が促進、唐や高麗にあったのとは別にグーテンベルクが活版印刷を発明した事で思想・文化の普及に寄与しました。
【宗教改革・原因】
ルネサンスとは「個」の自覚です。中世の宗教は「個人」を認める物では無く「身分」で括る物でしたので、次第に反発が上がって来たのです。
まず第一の原因は神聖ローマ帝国の政治的分裂。一枚岩で支配が出来ず、300もの領邦国家でしたのでバラバラだったのです。
第二にルネサンスで人文主義者が活躍した点。エラスムスの『愚神礼讃』が良い例でしょう。愚かな神を讃える事の愚かさ、的なタイトルで内容は察して下さい。
第三にレオ10世(メディチ家出身)による贖宥状(免罪符)の販売。これは教会が「やっべサン=ピエトロ大聖堂新築するのに金足りね」となった為に販売されたのですがまぁ売れる売れる。当時は死が身近(ペスト大流行☆)でしたから、買うだけで許されるというのは大変精神的安定になったのでしょう。
【ルターの宗教改革】
ルターさんはヴィッテンブルク大学神学教授でした。しかし「贖宥状!?なんだそのインチキ!」と九十五カ条の論題を発表し(1517)『キリスト者の自由』という本で聖書第一主義(頼るべき物は聖書だけだよ!)を主張(1520)。コレの中で信仰義認説(金や免罪符で救われるとか思う訳?信仰以外で救われる訳ないじゃん)を唱えた上万人司祭説(聖職者とか要らないでしょワロタ)もプラス。
これには教皇もブチギレ破門します。独皇帝カール5世がヴォルムス帝国会議に彼を召喚し「自説撤回する?破門ヤでしょ?」と言った物の下げず「法律の保護外に置かれる」と宣言されてしまいます。つまりは「ルターが誰に殺されようと犯罪にならないからね。どうなっても知らないよ。マジで」と言われたのです。
しかしザクセン選帝侯フリードリヒがワルトブルク城で彼を保護します。そうして新約聖書を独語訳(1522完成)したルターは(教会はラテン語=聖書が読めるというアドバンテージでご飯食べてたのにそれが通らなくなった)近代ドイツ語に影響を残しました。
【影響】
まず、ドイツ農民戦争(1524~25)が起きました。指導者は再洗礼派のミュンツァー。西南独の農民たちが農奴制の廃止等を要求して起こしました。ところがルターさんはこれに対し始めは同情的だったのに、社会改革と信仰を結び付けた農民たちにコロッと意見を変え、「現世の秩序は神が定めた物」とか言って諸侯による弾圧を支持するようになります。これにより諸侯はルター派を受容(旧教否定した訳では無い)、領邦教会制で領内の教会保護権と支配権上げるよ、と国に言われます。
さて、そんな独では新教・旧教の争い(1494~1559)が勃発しています。が、それに手をあまりかけられない状態でした。皇帝はイタリア戦争で仏のフランソワ1世とバトル中、オスマンのスレイマン1世に第一次ウィーン包囲(1529)をかけられてしまいます。
こんな状態で内部分裂はヤバい、とルター派と妥協したのですが、後にやっぱ無しで、と言い出す始末。これに対し新教諸侯が抗議し(抗議=プロテスト=プロテスタント)ルター派諸侯がシュマルカルデン同盟を結成。シュマルカルデン戦争で内戦を起こし(これが最初の宗教戦争)アウクスブルクの和議(1555)で落ち着きます。この内容は「諸侯は自領の宗教旧教かルター派で選んでいいよ。領民はそれに従わなきゃダメだから」となりました。その後ルター派は独北部・北欧へと拡大します。
【カルヴァンの宗教改革】
スイスでは実はカルヴァンより前に宗教改革が行われていました。ツヴィングリが行っていて場所はスイスのチューリヒ。しかしカトリック諸州との戦いで彼は戦死してしまいます。
その後、仏のカルヴァンが聖書主義・予定説(救われるかどうかは生まれる前に神様によって決められてるのさ。だから免罪符とか意味無いよ。あと勤労とか倹約で溜められたお金のどこが悪いのさ、寧ろ努力の証拠だろ!)を唱え亡命先のスイスのジュネーヴで活動、神権政治を行いました。『キリスト教要綱』(1536)という本を出しています。
そんなカルヴァン派はお金儲けしたい所で特に受け、仏ではユグノー、蘭ではゴイセン(乞食)、スコットランドではプレスビテリアン、イングランドではピューリタンと呼ばれます。
【イギリスの宗教改革】
時はテューダー朝。国王ヘンリ8世はルター派を批判し、教会から「信仰擁護者」として偉いよー、と褒められていました。ですが問題が発生します。スペイン王妃カザリン(キャサリン)との間に子供が出来ないのです。という訳で↓
8世「子供産まれないんで離婚したいんですけどー」
教皇「却下」
8世「跡継ぎ出来ないんですけどー……」
教皇「却下」
8世「……跡継ぎ」
教皇「却下つってんだろ」
8世「……じゃあもういいよ勝手に宗教作るから!好きなようにするもん!」
と言って首長法を発布(1534)し、イギリス国教会成立。英国教会首長は英国王である。という法律なのでローマ教皇が首長の旧教から抜け、国内で反対した者は皆殺し、そして子供が生まれるまで離婚と結婚を繰り返します。更に伝統的旧教の物である修道院を解散させ、国王首長に反対した為に財産まで没収する慈悲の無さ。
が、エドワード6世の頃になるとその内容も少しずつ纏まっていきます。英国教会に新教的な考えを突っ込んだ一般祈禱書を作成(1549)、カルヴァン派の教義も導入しました。
ところがメアリ1世(カザリンとの娘)がスペイン王フェリペ2世と結婚、今度は旧教の復活を図るのです。逆らったら皆処刑(父親と同じ事やってる)し、ブラッディメアリ、という渾名(トマトジュースのカクテルの名前にもなってる)を付けられます。
その後エリザベス1世の時に統一法を発布(1559)し国教会に戻ります。これにより英国国教会は確立し、内容も固まりました。英国教会は教義としてはカルヴァン主義、司教制組織や儀式・礼拝等はカトリックからというイイトコ取りをしました。
【対抗宗教改革】
そんな風に新教が流行るのを見て焦らない訳がありません。旧教は自己革新運動を始めようとします。新旧教の調停の為トリエント公会議(1545~63)を開くものの、新教が出席拒否。仕方なく旧教内で教皇の至上権確認、聖職者の腐敗防止、免罪符禁止、禁書目録制定、宗教裁判所の強化(=異端審問)等を改めて確認しました。これにより魔女狩りや宗教戦争が出て来たのは何とも言えませんが。
ですが真っ当な旧教もありまして、イエズス会が成立します。イグナティウス=ロヨラ筆頭でフランシス=ザビエル等によって結成されたそこは厳格な軍隊的規律の下教皇へ絶対的な忠誠を送り、南独の回復、ラテン米や亜へ宣教師を派遣していきます。




