世界史B:中世ヨーロッパ~叙任権闘争
【中世ヨーロッパ】
ヨーロッパの風土は3パターンあります。
1.地中海地方の雨少なく石灰岩質な土地。果樹栽培が主な所為で小麦を求め貿易が盛んに行われました。
2.西ヨーロッパの温暖適度な雨量。森林や農地などがあり、いかにも中世!って感じの場所。
3.東ヨーロッパの草原地帯。特に自然環境が身を護ったりしてくれないので東方からマジャール人やフン人やフィン人等遊牧民の侵入を受けました。
又全体的に見ても農地が少なく森で囲まれているのが特徴です。森は海、村は島、と呼ばれる程森が鬱蒼としていましたが次第に開拓されていきます。
【ケルト人】
インド・ヨーロッパ語族です。前6C頃にはアルプス以北に広く住み着いていました。彼等は鉄器を使用していて、社会構造は神官、貴族=戦士、農民、職人etc…。
ドルイドってのは「樫の木の賢者」の意味で、これは宗教が自然崇拝だった事が由来です。多神教でケルトのキリスト教には未だ自然崇拝の名残があります。前1C半ばにカエサルさんのガリア遠征があり、そこで負けローマ化(ガロ=ローマ人と呼ばれるようになっていきます。ガロはガリア、つまりフランスの意味)。4C以降ゲルマン人が移動して来ると僅かに残っていたケルト人は追いやられ周辺化していってしまいました。
【ゲルマン人】
元はバルト海沿岸にすんでいました。移動前の古ゲルマン社会(原始ゲルマン社会とも)はカエサルさんの『ガリア戦記』(ケルト人についてがメイン)やタキトゥスさんの『ゲルマニア』(ゲルマン人について)に記されています。社会は部族制で成り立っていて王又は数人の首長が指導者となり、決定機関として青年自由人から成る民会がありました。平等な社会です。身分階層は貴族・平民・奴隷と楽。生活は牧畜・狩猟が主でしたが農耕も行われていました。しかしこれは地力が衰えたら次へ移動、という効率の悪い方法だったので余り採れませんでしたが、次第に農業改良で発展し、逆に土地が足りなくなる事態に。
ローマ帝国との関係は9年のトイトブルクの森の戦いでローマ軍を撃破した事で始まります。これ以後ライン川を境として対峙しましたが帝政末期には移動が開始され下級官吏、コロヌス、傭兵といった形でローマに溶け込んでいきます。
そしてゲルマン人と言えばローマへの移動なのですが、これが始まったのは375年。原住地のバルト海沿岸から家族・部族を連れて移動する人が多かったのですが、原因は人口増加による土地不足、フン人(匈奴?)の圧迫―――東ゴート人を支配する彼等を見て危機感を覚えた隣人ならぬ隣民族、西ゴート人(これもゲルマン人の一種)がドナウ川を越えてローマ領内へ移動して来た―――等が上がります。因みにこれらも原因で395年にローマは東西分裂、476年には西ローマ帝国が滅亡してしまうんですが(笑)
そしてそのフン人ですが、かれらは5前半にアッティラ王の下でパンノニアに大帝国を建設し、西ヨーロッパへ進出して来ます。しかしカタラウヌムの戦い(451)で西ローマ帝国・西ゴート・ブルグンド・フランクの連合軍に敗北。因みにローマ以外全てゲルマン人国家です。452年にローマに侵入しますが教皇レオ1世の説得に応じ撤退しました。アッティラ王の死後分裂し、やがて現地に同化していきます。
又ゲルマン人移動後のエルベ川以東、つまりバルカン半島辺りには新たにスラブ人が定住するように。暫くして西ローマ帝国がゲルマン人傭兵隊長のオドアケルによって滅ぼされてしまいました。最後の王はロムルス=アウグストゥルスさんです。
【フランク王国の成立と発展】
クローヴィスによってフランク人が統一された事でメロヴィング朝(481~751)が始まります。今までゲルマンはキリスト教の中でも別の宗派を信仰していたのですが、ローマ系住人(ローマ人貴族が主)やカトリック教会との関係を円滑化したいとアタナシウス派に496年に改宗します。このアタナシウス派ってのが今も正統されてるものでして、「父なる神、子なるキリスト、精霊は同一存在である」という三位一体説が特徴です。それまで信じてたアリウス派は「キリストって所詮神の養子だよねー」という考え。当時ゲルマンでアタナシウス派信仰してたのはこの国だけだったので、ローマ教皇庁と繋がりが生まれ、クローヴィスの権威は高まりました。
534年にブルグンド王国を併合しますが、フランク人の特徴によって次第に衰えて行きます。その特徴とは分割相続。親の死後子供には全員に土地含む財産を同量分けるというモノですが、まぁ当たり前な事に兄弟間の王権争いが勃発。これは『ニーベルゲンの歌』にも残されていますね。とまぁ、こんな具合なので宮宰(王家の行政・財政管理の長官)が実権を掌握していきます。
おまけにこの国、改宗したは良いんですが一夫多妻制とかキリスト教としてアウトな物まで残っていたりも。尚更子供が増えて争いが激化するだけだろうに、馬鹿馬鹿しいですね。
それから暫くするとウマイヤ朝時代のムスリムがイベリア半島に侵入してくるようになります。西ゴートは滅亡し、どんどんヨーロッパへ進出して来ますが、トゥール・ポワティエ間の戦い(732)で宮宰のカール=マルテルが活躍し、どうにかこれ以上の進出は阻止出来ました。
これによりどこの勢力にも入れていなかった(人はこれを‘ぼっち’と言います)ローマ教皇が接近していきました。長い物には巻かれろ、です。元々メロヴィングは力が衰えていた上、接近したローマ教皇が塗油の儀式(旧約聖書の王の儀式)をマルテルの子、ピピン(3世)に行い王と認めた事でカロリング朝が成立しました。この行動は王の正統性を主張するものだったのです。因みにメロヴィングの人は修道院に幽閉なり何なりされました。
で、ピピン(三世)はランゴバルト王国を討ち、獲得したイタリア北部のラヴェンナ地方を教皇へ寄進します。これはピピンの寄進と言い、ここは後のローマ教皇領となる場所です。
【ローマカトリック教会の成立と発展】
当時、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の仲は同勢力でありながら大変悪いものでした。理由は「おれの方が上だ!」。子供の喧嘩みたいな理由でしたが、彼等の首位争いが中々にメンドクサイ話へ発展します。
ローマ教会は「教皇は初代司教ペテロの後継者である!」と主張しますが西ローマ帝国が5Cに滅んで以降後ろ盾が皆無。
コンスタンティノープル教会はビザンツ帝国が後ろ盾なのですが、常に利用されていてうんざりしていたので別の保護者(後ろ盾)を捜索しています。つまりローマ教会のすがる所はビザンツしか無かったのですが、東ローマでは昔からビザンツ皇帝<教皇という方程式が成り立っていました。
それをローマ教会にも求めたのですが、そりゃ嫌だ、となりローマ教会はあまりコンスタンティノープル教会に近寄りたくなかったようです。因みに五本山と呼ばれる教会が他に3つありましたが、これらは7Cにはイスラームへ吸収されてしまった為論外です。
さて、そんな中次第にローマ司教は他より上だと思い込むように(何故か)なり、教皇や法皇と呼ばれるようになります。6C末の教皇、グレゴリウス1世(位590~604)はビザンツ帝国の権威を兎に角排除したがり、「西ヨーロッパの中ではローマが一番上だ!」と主張。その一環としてゲルマン人へ布教を進め、教皇権の基礎を固める事に成功しました。
そして同じく6Cにベネディクトゥスが中部イタリアにモンテ=カシノ修道院を設立し新たにベネディクト派を作り上げました。
ベネディクト戒律というものに沿った生活がそこでは行われましたが、その内容は「祈り働け」。清貧・貞潔・服従を守りなさい、という事もですね。あ、働けってのは農作業(ワイン・ビールなんかも作られました)や聖書の写本等です。
本といっても当時使ってた紙はパピルスか羊皮紙、後者は紙が油っぽく(そもそも厳密には紙ですらない)インクが滲み、おまけに疲れる重労働だったようです。すみっこには聖職者達が飽きた跡(落書き)が書いてあったりして、「疲れた」や「休みたい」「手が痛い」など中々に悲痛な状態だったようです。
その後ローマ教会でレオン3世が偶像禁止令を726年に出しました。これは当時キリスト教布教の為に絵や偶像バンバン使っていたのをやめようよ、という事。隣のイスラームがそうだったので、自分達も揺らぐわけにはいかない!これを真似しよう!となったらしいのですが、まぁ使いまくってた物止めろって言われても無理ですよね。そして751年にカロリング朝という名の保護者が出来上がったので多少は落ち着きます。多分。
【カール大帝とフランク王国】
カール大帝はピピンの子でカール=マルテルの孫です。兄弟が全て死んだ為分割相続せず、落ち着いた?始まり方してます。この時期はフランク王国が最も広かった時なんですが、それは彼が戦争に強かったから、と教皇との利害の一致のお陰でしょう。カール大帝(位768~814)は別名シャルルマーニュと言います。こっちはフランス語です。
まず彼の対外戦争から見てみましょう。最初にランゴバルト王国の征服ですかね。ピピンの時代にラヴェンナを手に入れていましたが、あくまであれは衰退させただけで滅亡はさせていませんでした。ここで完全に征服し、滅亡へと追い込んだのです。
次はザクセン人討伐。ドイツ・中央ヨーロッパに居た彼等はゲルマン人の一種でした。イギリスに移動したアングロサクソン人の中で、大陸に残ったサクソン人がこう呼ばれていたのです。彼等は7C位ではフランク王国と境界を接していたのですが、キリスト教を受け入れようとしなかった為、強制的にキリスト教へ転宗させようと大帝は討伐に乗り出しました。
他にもアヴァール人(モンゴル系遊牧民)を撃退したり、イベリア遠征行ったりしてます。後者は後ウマイアへの攻撃だったのですが、完全成功はしなかったようです。
次に統治機構の話ですが、全国を州に分けた上、各州に伯を派遣し、尚且つ土着化し独立しないよう巡察使を見張りに送りました。巡察使は主に聖職者等がなりました。
当時一応フランク王国の中心はアーヘンだったのですが、王権が各地に届く程強く無かったため王は移動して権力を主張するのが普通でした。ので都という概念は無かったようです。アーヘンはあくまで王が居る事がまぁ多い所、位の認識で構わないかと。それゆえに「旅の王権」なんて言われたりもしますが、全ての王にカリスマがある訳でも無し、中々に大変だったようです。だから尚更伯の土着化・独立をおそれたのでしょうが。
800年になるとカールの戴冠が行われました。教皇レオ3世がフランク王国との繋がりをより密接にする為に行いましたが、方法がサプライズでして。カールがサン=ピエトロ大聖堂を訪れた理由は「クリスマス祝いに」だったのに、突然跪いてるカールに冠乗せて、観客が祝いだします。カールはさぞ驚いたでしょうねぇ……
何故これを教皇が突然やったかと言うと「やべー東ローマの方が強いし、このままじゃローマ貴族に廃位しろとか言われるよ。後ろ盾探さなきゃ」という理由。この頃はビザンツ(東ローマ)の方が先進地域だったのです。
この戴冠の意義は
・西ローマ帝国復活
・西ローマ世界の安定
・ローマ教会がビザンツ皇帝から独立、等
ビザンツでは皇帝=教皇=政治・宗教のトップ、だったんですが西ローマはトップが皇帝と教皇の2つに分かれ、権力争いモドキがそのうち勃発するようになります。あとフランク王国はイタリア政策(教皇のこと守ってね!)や、皇帝変わる度にローマに戴冠してもらうために行かなければならないとか結構メンドクサイことになります。
さて、こんな時代にも文化は発展しました。カロリング=ルネサンスと言い、ローマ古典文化+ゲルマン+キリスト教が合わさって出来た物ですが、これにより西ヨーロッパ中世世界の成立、と言って良いでしょう。アーヘンの宮廷にイギリスからアルクィン(イギリスの学者)を招き、ラテン語などの古典文化の復興にいそしみました。
【フランク王国の分裂】
カール大帝の死後、例の分割相続により内紛・分裂が起きます。いや、大帝の子はルートヴィヒ(ルイ)1世(敬虔王。位814~840)しか残らなかったんで彼が継いだんですがね。その後3兄弟で争いが起きました。
で、ヴェルダン条約(843)で何故かフランス国旗的な分け方に決定ました。ロタールは後のイタリア辺り~フランスちょっとゲット、シャルルはフランス辺り、ルートヴィヒはドイツ辺りを取りました。が、ロタールさん、アーヘンが入っていたから真ん中を取ったのですが両方から攻め込まれる事になり、メルセン条約(870)で割り振り変えました。これが今のイタリア・フランス・ドイツに相当する感じです。
あとどうでもいい話ですが、の内容まとめた文書が古ドイツ語・古フランス語で記されていまして、どうも9世紀前半には言語の境界線ができてて、この兄弟互いに何話してるか分かんなかったんじゃないか説まであります。
まずはルートヴィヒ2世が取った東フランク王国についてを。カロリング朝が911年に断絶され、それ以後部族を基盤とする諸侯の勢力(=部族大公)が増大。彼等による選挙王政(王様を選挙で決める)が行われました。普通王家は合理的な血統原理(血で王家を継いでいく)を採用するのですが、ここだけが王の権力<貴族の権力な所為で「貴族が好き勝手扱える王様のがいーじゃん?」と、選挙原理を選びました。他にこんな国まずありません。
918年まではザリエル家が継いでたのですが、ノルマン・マジャール人の侵入が多すぎて無能扱い受けてポイ。その後王位を継いだハインリヒ1世(ザクセン家。位919~936)は当時の西ヨーロッパがヴァイキングやらマジャール人やらスラブ人やら侵入受けてた事もあり、辺境の防備を強化します。あとここらでフランク伝統の均等相続が無くなります。あれ、どう考えても兄弟喧嘩(と言える程可愛いものじゃない)の素ですからね。
オットー1世(オットー大帝とも)がそのさらに後継ぎますが、ザクセン家が2代続いて国内分裂気味になります。他の家から王出せや!と内乱が起きた事で国内を纏める為、対外戦争を行いました。何故か他に敵が居ると一致団結するのが不思議な所です。
955年、レヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退(その後彼等はハンガリーに定住)し、蜂起したスラブ人も撃破。このようにオットー1世が皇帝になる事へどの諸侯も文句を言えないほどの功績を遺したため、ローマ教皇ヨハネス12世(フランクが分裂した所為でまた後ろ盾失ってた)から962年に皇帝の冠を授与されます。
これが神聖ローマ帝国成立(962~1806←ナポレオンが滅ぼした)のきっかけです。ここで再び西ローマ帝国が162年振りに復活しました。
ドイツ王=神聖ローマ皇帝となり、帝国教会政策やイタリア政策を打ち出します。前者は「教会を利用して内部分裂気味の国内纏めようぜ」と皇帝が聖職者への任命権を持つものです。後者についてですが、教皇の後ろ盾となっている以上ドイツは常にイタリアのローマ教皇領を守らねばなりませんでした。だって教皇が自分のサイドに居ないと西ローマの皇帝になれない(=神の代理人になれない)のですから。
こうして皇帝は教皇領の保護・干渉の為に常にイタリアを気にしなければいけなかったので、ほぼ国王は国内に居ない生活が続き、国内統治が遅れるという謎自体に発展。尚この国、本来の意味でちゃんと国として纏まったことは皆無です(;´∀`)
西フランク(フランス)はシャルル2世が取りました。この国には9Cにヴァイキング(ノルマン人)が激しく侵入して来ていました。最初は沿岸地域の略奪を行っていたのですが、段々とセーヌ川を川登りしてきて(川下りでは無いwww)885年には軍団長ロロがパリを包囲してしまいます。
その後、パリ伯だったロベール家のウードがパリを解放するのですが、これの所為で逆にカロリング家何もしてないじゃん!となり市民は王をロベール家に変えようとするも失敗。ですが987年にカロリング朝が断絶し、パリ伯のユーグ=カペー(ロベール家の末裔)が即位してカペー朝(987~1328)が開かれます。
この当時、カペー朝が続いた341年間では他の王朝で言うと、イングランドは4回、ドイツは9回、王朝が変わり、スペインはイスラームに落ち、イタリアは纏まって居なかった事を考えるといかに凄いかがよく分かりますね。これを「カペーの奇跡」なんて呼んだりも。王朝出来た頃は権力は弱いし国土も小さかったのですが(だってカペーと同量の領土持った諸侯わんさかいましたし)次第に広まっていきます。当時持っていた領土はイル・ド・フランスと呼ばれたりもします。
イタリアはロタール1世(ヴェルダン条約で真ん中取ったアホの国。お隣二つに挟み撃ちにされ終了)が治めました。が、875年にカロリング朝断絶。それ以後教皇領・都市国家(大きな国王が守らない為都市が自ら身を守らねばならなかった。例としてベネツィアやジェノバ等)・イスラーム勢力によって内部分裂状態に陥ります。
【封建社会の成立】
これが出来上がったきっかけは様々な民族移動が起こったからです。
民族移動してくる
↓
村等が襲われる
↓
王様守ってー!
↓
え、王様近くに居なくて守れない?んなアホな
↓
仕方ない、近くの権力者に縋るか……
という流れです。封建社会は封建的主従関係+荘園で成り立ってます。主人(有力者)が家臣に土地を与える代わりに家臣は忠誠を(軍役で)示す、という感じです。ただし家臣が一旦主人に土地を上げ、それを再び授かる事で結びつきを強くしたりとまどろっこしい事も起こっていたようですが。
又この時代、商業・都市が衰退したため自給自足の現物経済が成り立っていました。ローマ時代は貨幣経済発展してたんですが、町や村の外へ出ると危ない、となり、近場で経済を回す様になっていたからです。
これらの起源は恩貸地制(主君の所で働いてよ、代わりに土地貸してあげるから)と従士制(有力者が貴族の子供の衣食住の面倒見てあげるよ。代わりに従士として主人に尽してね)です。
特徴は双務的契約。日本の武士のように
「主君へ尽くす!我が命は主の為に!」
みたいな熱血じゃなくて
「土地くれるなら義務は果たすよ。守ればいいんでしょ?あ、でもこの範囲越えて戦争になんて行かないからね。あんまり主人が義務を果たしてくれないなら他の人の所に行っちゃうぞ。まぁ既に他にも主人いっぱい居るんだけどね」
みたいな。冷めてるというか、恐ろしく主従関係が薄いというか。下手すると40人主人が居る、とかもあったそうです。
尚土地を持っている人は国王・皇帝・諸侯・教会・騎士問わず領主という括りに入ります。この中でもさらに身分ごとに封土(土地貸すよ)と忠誠(軍役行くよ)が行われていました。
国王・皇帝・教会
封土↓ ↑忠誠
諸侯
封土↓ ↑忠誠
騎士
こんな感じです。またこれら領主が農奴へ保護・支配を行う代わりに農奴は賦役(領主の為に働く)や貢納(納税)の義務がありました。
【荘園】
主君から封土として与えられた土地を言います。領主が農奴を支配する生産の場でしたが、一つ一つの荘園においては領主の力はある意味国王以上でした。領主は不輸不入権を持ち、国王の役人が荘園に立ち入ったり裁判を行う事、勝手に課税される事を拒否できたのです。これらは全て領主の権力であり、纏めて領主裁判権と呼ばれます。
つまり逆に言えば、課税も裁判も全部領主の権利なのです。
又、農奴は束縛され、地代として賦役(労働地代。領主の土地を耕したり)と貢納(生産地代。作った物の何割かを税として納める)の義務の他に、税として各種施設(かまど・水車or風車・葡萄圧搾機)使用料、結婚税(結婚すると別の場所に移動してしまう者が居る為その保証)、死亡税(いわゆる相続税)、十分の一税(教会に出来た作物の十分の一払う)等がありました。
家族・住居・農具の保有が認められている点は奴隷と違いましたが、移動・職業選択の自由はありません。これらの余りにも厳しい束縛に捨てて逃げたい、と思う人も居たでしょうが、残念ながら他の村に移るにはまず森を越えなければいけませんでした。森に棲んでるのは当時だと村を追われた病人・犯罪者・魔女扱いされた人・狼の群れ何かで、非常に危険な為命を捨てて逃げたいか?という話になった訳です。
【聖職位階制の成立】
聖職者ってのは当時なりたくてなれる代物ではありませんでした。学がなければならないし(聖書はこの時代殆どラテン語)任命されないとなれない。まぁ特別な知識が必要な為にそれ相応の権力が聖職者にはあったんです。ですが段々と、その聖職者内でさらに階層制が発展する事になっていきます。教皇(一人しかなれない)>大司教(ヨーロッパで10人位)>司教(国に数十人位)>司祭(荘園の教会で働いてる有象無象)の順ですが、それとは別に修道院長というのもありますね。
さて、当時教会は絶対的な善であり、全ての信者の救いでした。キリスト教では善行をしていると死後天国に行ける、という個人の救済になる教えがありましたが、それに目を付けたのが皇帝・国王などの世俗権力(聖職者以外の人を纏めて俗人と括ります)です。彼等は教会へ土地やら金やら寄進します。するとこれはつまり、これらは神への捧げものと考えられる=教会に対し善行を行った=救われる、な訳ですよ。ただし当時土地は権力です。段々と所有する土地が増えた教会が権力を強化し、領主化していく事になりました。
そして「皇帝」というのは即ち「神の代理人」です。どんな部族であれ神には逆らいません。あと高位聖職者はラテン語読み書き出来てローマ法まで知っている。ということで皇帝や王は彼等を官僚として用いてました。大司教とか今で言う首相みたいな扱いですね。
また、国王は高位聖職者(司教以上)の叙任(任命)を行う事ができました。これにより国王や諸侯の一族など、王が支配しやすい人が任命されていく事となります。つまり、教会が政治の道具として俗化し堕落していったのです。
例えば聖職者による聖職売買(地位を売って金を得る。シモニアと言います)や妻帯等。しかしきちんと信じて教会に入った人達も勿論居ます。かれらは俗化する教会を非難し、自ら浄化・改革運動を行いました。その例がクリュニー修道院です。
フランス東部にあるこの教会はベネディクト派で、11世紀から教会改革の中心に立っていました。
さて、教会改革の例としてグレゴリウス改革が挙げられます。ローマ法王グレゴリウス7世が筆頭となり、聖職売買の禁止、聖職者の結婚禁止、俗人による聖職者の叙任禁止等を決定しました。「教皇権至上主義」を布告した方ですね。
ですがこれに対し非常に困ったのが神聖ローマ皇帝です。当時の神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は叙任権を回って教会と対立します。
【叙任権闘争】
神聖ローマ皇帝には聖職者への任命権があり、それを利用した帝国教会政策等が存在しました。しかし「教会を利用して国内纏めようぜ!」というこれをグレゴリウス改革で全否定されたのです。これに「ヤベェ……!」となった皇帝は叙任権を取り戻さんと教会と対立しますが、教会の敵は全ての人の敵。天国いけなくなっちゃたまらん、と諸侯たちすらも敵に回る有様。そして肝心の教皇は、ハインリヒ4世を破門してしまいました。
キリスト教で破門された、という意味はキリスト教徒では無くなった、という意味を示します。ですがこんなの額面上だけでして、実際の痛手はキリスト教徒との交友禁止=封建的主従関係も禁止、そもそもキリスト教徒じゃない?なら人間じゃ無いんだね、という認識になる事です。権力者でなくても、というか権力者に対しては最悪な処罰です。法律適応外=「守らなくて良い存在」となる訳ですから、破門を解かれなければ諸侯が王として認めなくなります。
さらに王を引きずりおろしてあわよくば自分が皇帝に…と思っている諸侯が手を組んで「破門解かれなきゃお前皇帝じゃねーから」と言い出す始末。
そこで彼は1077年、北イタリアにあるカノッサで教皇に許しを請いました。ですが勿論教皇は聞きません。
カノッサ城に入ろうとした皇帝をガン無視し、会う事すらしませんでした。そこで皇帝は寒空の下三日三晩外に立って許しを乞うた、と言われています。まぁなんて間抜けな光景だったんでしょうかね。これをカノッサ事件、もしくはカノッサの屈辱なんて言います。
その後、彼等はこれら教会の堕落について協議しあい、結果出来たのがヴォルムス協約(1122)です。皇帝ハインリヒ5世と教皇カリクストゥス2世の間で結ばれた協約は、両者の妥協により成立しました。まさかの妥協策です。
「宗教上の権威の授与は教皇がやるよ、世俗領の授与は皇帝がやっていいけどね」
と聞くとよく分からないですね。そもそも聖職叙任権とは実際に「お前を聖職者にする!」という聖職叙任と、「ここお前の領土にしていいからな!」というレガリアの二つに分かれていました。
で、領土は当然元は皇帝の物。聖職叙任は―――皇帝が持ってたけどグレゴリウス改革で「それ、教会の物だから。やったら破門だから」と言われてしまって以降カオスです。
で、今回の協約で「ドイツ国内なら先にレガリア与えて良いぜ」となります。つまり皇帝が領土与えたからコイツ聖職者にする、というスタンスです。しかしイタリア、ブルゴーニュ地方等当時神聖ローマが持っていたnot現ドイツな地域は「教皇が聖職叙任するからそいつに領土渡せ」となりました。
ひとまずこれで聖職叙任権は終わった―――事にして下さい。高校生にはこれで十分です。実際はまだまだまだまだ続きます……実はここに至るまで皇帝は勝手に叙任(するなと教皇に言われてた)したり教皇を罷免して教皇二人目立てたり、教皇も皇帝勝手に皇帝新しく戴冠させたりカオスってました。が、高校レベルじゃ流石に要らないので割愛。この後も割愛。
そしてなんと、この争いの最大勝者は大公や伯と呼ばれた諸侯!自立化していって、高権国家となります。その象徴として、この時代から勝手に城を作り始められるようになります。城って本来は王しか作っちゃいけないはずなんですけどねぇ……(笑)
だからドイツには城が多いのです。ロマンチック街道とか、有名ですよね?
12~13世紀になると「諸侯」は「領邦」となり、一地方領主ではなく「国王」になっていきました。
分かりにくいようであれば、日本史で言うと、戦国時代は「日本」で一応天皇の下にある戦国武将達が自分の「国」を治めていますよね?要はそんな感覚なのです。天皇を皇帝に置き換え、かつもーちょい権力持ってるもの、と取ればニュアンス的にはあってるんじゃないかなぁと。勿論正確には違いますが。
さて、ここらで愉快な神聖ローマの命名事情。当初「神聖ローマ帝国」はこんな偉大な名前では無く「帝国」という名前でした。しかし叙任権闘争に負け、神の代理人でなくなってしまった(叙任権持ってる=神の代理人)国は慌ててSacrum、英語で言うとHoly(神聖)と言う文字を国名に入れます。
さらにこの後出て来る大空位時代。この頃に「自分はローマの継承者だからな!」と主張するためにRomanorm、つまり「ローマ」という単語を加えました。原語でこの国の名を正式に表すと「元西ローマ帝国の復活であり皆がキリスト教に帰依して神の代理であるローマ帝国」というくっそ長い名前になります。
つまりこの名前は虎の威を借りる狐な訳です(笑)
13世紀に入ると教皇権の絶頂期がやってきます。インノケンティウス3世の時代が正にそれにあたりました。彼はイギリスのジョン王をカンタベリー大司教任命問題により破門し、フランスのフィリップ2世を離婚問題で破門し、ドイツのオットー4世も破門します。もう権力者に対して好き勝手やってる感じもしますよね。彼は「教皇権は太陽、皇帝権は月」とか言っちゃってますしね。ようは表世界で輝いてるのは教皇なのさ!とかほざいてる訳ですが、その後十字軍が上手くいかなくなり段々と教皇権も衰退の一途を辿ります。ざまあ(*´ω`*)!




