世界史A:ローマ帝国~アメリカ独立までのダイジェスト
《地中海の海上交易が発達した理由》
地中海周辺は、パンを主食にする民族にとっては面倒この上ない土地でした。理由は雨量が少ないってのと石灰岩の山地だったから穀物が育ちにくいという事です。でもそんな中勿論主食は必要。さて、そうしたらどうやって小麦だのなんだのを手に入れよう?現地の人は考えます。そして出た答えは
「そうだ、水はけだけはいーんだし、果樹栽培出来るじゃん」
という事で、オリーブ(油に加工)だの葡萄(ワインに加工。当時だと葡萄酒か?)だのイチジクだのを育てて、他の国に売っぱらう貿易を開始。船に積んで地中海渡って他国へGO!御陰で海上航路が発達しました。地中海沿岸onlyで。まぁ、そのうち廃れますけど。
《古典期ギリシア時代》
当時はギリシアと一口に言ってもポリスという都市国家ごとに政治なんかも全然違います。一応共通点は人間的(神様が異常に人間臭い。不倫とか当たり前)かつ合理的(御陰で哲学発展)な文化とポリスの中の構造ですかね。まず、アクロポリスと言う丘の上に神殿があります。その下にはシュノイキスモス(集住)とアゴラ(広場。経済活動や政治の場所)が。
あとは個々の差でも軽く書いておきます。
アテネ:18歳以上の男性が全員広場に集って民会開く直接民主制。でも女・奴隷・外人は参加不可。プラス投票になると間接民主制だからややこしい。
スパルタ:戦争重視な軍国制。兵を厳しく育てましょう。
《ヘレニズム時代》
北方マケドニアの征服時代ですね。アレクサンドロス王が東方遠征を行って領土拡大、大帝国を形成していきます。なんと
ギリシャからインダス周辺まで行ったというから凄い。けれども病に倒れ残念ながら世界統一は無理でした(ヾノ・∀・`)
でもこれにより東西文化が融合を始めます。良い例がガンダーラの仏像。
《都市国家ローマ》
ローマもスパルタ・アテネ・オリンピアと同じく都市国家でした。当時は普通に共和制。所がかの有名なカエサルさん(又の名をシーザー。サラダ?)が独裁を始めてしまうのです。戦に兎に角強かったカエサルさんは民衆にとてもうけてました。が、独裁を良く思わない輩がいるのも事実。結果信頼していた部下である方に裏切られ死亡しました。あの台詞の舞台ですね。「ブルートゥス、お前もか!」
で、死後混乱していた国を治めたのがオクタウィアヌスさん。初皇帝の位置に就きこれ以降は帝政で進みます。
で、ギリシアとは違いローマ文化は実用的な文化が発展し、精神文化があまり発達しませんでした。
しかし、そんな中ヤツはやって来る!その名もキリスト教!多神教だったローマに一神教が溶け込む訳が無い。で弾圧されてましたが、コンスタンティヌス帝が政治的要因で公認しました。インパクトの妙に強いミラノ勅令がコレです。んで更にテオドシウス帝は国教化までしてしまうから恐しい宗教です。私かれこれ11年程逃げ出せていません。幼稚園から主の祈り唱えてるとかシュールだったなぁ……
《ローマ分裂》
当時のローマは広大でした。具体的には最大時でスペインから端はイスラームまで。広すぎるだろ。
んで、兎に角広かったが故に、段々と端まで王様が目を光らせる事が出来無くなっていった、というのが最初の原因。しかもそんな所へ来る追い打ちがやって来ます。その名は異民族。具体的にはゲルマン人とフン人。後者はゲルマン人をストーk……ではなく、彼等の居た土地を狙ってた民族。これ以外には登場しません。前者は追っかけられてた上に人口増えちゃって土地が足りないので、段々東から西へと侵入して来ました。するとどうでしょう。ただでさえ脆かったローマはパカッと二分裂。片や1453年まで続く東ローマ(ビザンツの方が分かりやすい?)帝国に成長。片やたった100年すらも耐えられなかった西ローマ帝国(476年崩壊)に成長(?)。おめでとう(*´∀`*)!ローマは真っ二つだね!
《フランク王国》
クローヴィスさんが現フランスに建てた国ですが、奥さんの影響もあって彼はローマカトリックに改宗、だんだんと権力を持ち始めていた教会やローマ人の権力者と提携するために西ヨーロッパをキリスト教に染め上げました。
さて、トゥール・ポワティエ間の戦い(732)というイスラームとの戦いがありました。活躍したのはカール・マルテルさん。そしてその偉大なる英雄(笑)の孫、カール大帝がローマ教皇に冠貰う式を行いました(800)。何故かって話は、表上と裏の二パターンで解説しましょうか。
〈表〉
これは単純です。おじーちゃんマルテルさんが、先の戦いでイスラーム軍撃退したから。この当時、調子にのっていたイスラーム軍は下の方からフランク王国(西ローマ)にやってきます。「イスラム教なれー、イスラム教なりやがれー、イスラーム教なりやがれよこんちきしょうー」ってね。それを食い止めたんだから、ローマ教皇としては一安心な訳ですよ。だからその功績を残した人の孫にお礼!って感じですね。
〈裏〉
簡単に言えば、策略考えた結果お互い利益があったんスよ。
まず、教皇側としては「国のトップに冠やれるんだからこっちの方が偉いんだ」とフランクに優位性を示せました。
フランク側としては、「ざまーみやがれビザンツ、スゲー権力持ってるローマ教皇と繋がれたんだぜ!」とビザンツに優位性を示せました。まぁ、コレは教皇もなんですけど。
ついでにこれは初めてゲルマン民族とローマ系の民族がタッグ組んだという歴史でもあります。その御陰で混乱していた西ローマも統一できました。一石二鳥ですね。多分。
《封建制》
まず、この時代の簡単な説明から。西ヨーロッパは当時、民族移動の混乱とイスラームの地中海進出の影響で交易ルートが遮断されていました。御陰で商業?ナニソレオイシイノ?という生活のもと自給自足な暮らしで過ごす事になりました。
が、そんな所で問題が一つ。権力(又は武力?)を持たない平民は、自力で自分や家族の身を守れないのです。戦争戦争なこの時代、それはマジでヤバかった。という訳で、弱い人は弱いなりに考えました。そして思いついた結論。
平民「領主様ー、何かやるから守ってー」
領主「あ?なら土地一部貸してやるからそこで育てた麦の一部寄越せ」
つまり、土地を媒介とした主従関係を結んだんですね。有力領主は騎士(何人主が居てもいーよ、というイメージぶち壊しな人々)を従え諸侯として自立してました。平民は農奴と呼ばれて結婚自由、住居の移動と職業選択不可という生活を送る事になります。この人達死んでも死亡税とかいうモノで税金に苦しんだりもしました。別名、仕事出来ない迷惑代みたいな?生きてても税、死んで楽になった後も税、大変ですねー。……こんなモノが17世紀入ってもあったロシア、笑えない……
《身分制度》
祈る人が聖職者、戦う人が国王(と言ってもこの時代じゃ実質的な力は諸侯と同じ位)と諸侯(あと騎士とか)―――要は土地持ってる支配者―――で、働く人は農奴。領主の経営する荘園で農耕に従事してました。農耕は三圃制。コレはどういうものかと言えば……
①土地を3つに分けましょう
②春まき、秋まき、休みの土地と名づけそれをローテーション。ほら、土地の栄養が均等に。
《西ヨーロッパとビザンツ》
すっげー打ちにくいんですけどここ。えーと、じゃあ左が西ヨーロッパで右がビザンツです。
『政治』 教皇・皇帝の二元的支配 : 皇帝教皇主義(皇帝=教皇)最盛期はユスティ=アヌス帝
『経済』 自給自足経済 : 貨幣経済
『宗教』 ローマカトリック : ギリシア正教
宗教に関しては補足を。カトリックのトップは勿論教皇。ですがギリシア正教のはビザンツの皇帝そのもの。宗教と政治が強く結びついていました。
《教皇権の隆盛》
領主達は権力欲しさにローマカトリックのエライ人と繋がり出しました。するとカトリックそのものの勢力も強まります。あら不思議、何故かそのトップの教皇の権力が半端ない事に!という訳で教皇頂点のピラミッド型組織が形成されます。
教皇>大司教>司教>司祭ってね。そんなこんなで調子こいていくお偉方、ついには当時イスラームに占領されていた聖地、
イェルサレムの奪回を目的に十字軍を派遣します。でもイェルサレムってイスラーム・ユダヤ・キリストの聖地なんですよね。しかも領土取られるとかマジないわー(=_=)と、向こうも反撃します。一回目は陸路で攻めて失敗二度目三度目は海路も使う。すると海上航路が発達して行きました。が、実際の奪還作戦は大失敗。何度遣ってもダメ過ぎて次第に教皇の権威は失墜、それに繋がってた諸侯の力まで衰えていきました。でもまぁ、悪い事ばかりではなくて他方から見れば東方世界と交流を持つ切っ掛けに。
ビザンツの方の発展した高度な文化を持ち帰ってきます。
《都市の発展》
この当時、三圃制の普及→農業生産力の増加→余剰生産物で市場の発達→商業の発達という流れのもと貨幣経済が浸透して行きました。けど、これに領主は困った訳です。理由は、
「金なんてどーやって手にいれりゃいーんだよ?」
という事です。当時税を麦や穀物で受け取っていた身としては、金なんて持ってない訳ですよ。で、浸透してきた所で税を貨幣に移行しました。プラス、地代を貨幣にしました。
が、そこで問題発生。ネズミー(笑)がハッスルしまくった影響でペスト(黒死病)が大発生しました。そしたらビックリあら不思議、当時農奴と呼ばれていた平民はコロッと死んで行きます。ヨーロッパの人口が3分の2になった位ですからね、死亡率90%は伊達じゃない。貴族だろーが平民だろーが農奴だろーが(あ、これ二つ同じだ)聖職者だろーが赤ん坊だろーが若者だろーが年寄りだろーが男だろーが女だろーがオカマ(!?)だろーが皆平等に死んでしまいます。ほら聖職者さん!貴方達が目指す平等な世界だよ!
閑話休題。とまぁ、税を収めてくれる人が居なくなっちゃいましたから、労働力不足に領主が悩む事になりました。領主同士で農奴の取り合いまで発展しました。という事で、少しでも農奴に来てもらおうと、領主は必死です。結婚以外自由なんて無かった彼等の待遇をどんどん良くしていきます。でもそれは要するに農奴解放ですよねー。御陰で荘園制あっという間に崩壊しましたとさ。そして力を失っていく領主。火薬などの登場で戦術が変化した所為で、土地を維持出来無くなっていく領主(主に騎士とか)。国王が土地を貰って段々権力を持つようになっていきました。
《百年戦争》
前提条件として、フランスがイギリスに土地の一部を貸していました。そこでは案の定封建制を行っています。
が、事件発生。フランスで王位争いが始まってしまうのです。それに目を光らせない訳が無いイギリス。いい感じにお母様がフランス王家~って王族がいました。つー事で
「俺も王位継承者持ってるよな?なら俺も後継候補でいいんだよな!」
「ふざけんな!お前イギリス王族だろ!?」
「何言ってんだ俺のかーちゃんフランス人!」
と、ガチンコバトルが発生。ここで活躍したのが有名な聖女、ジャンヌ・ダルク。彼女の活躍でフランスは無事勝利しますが、何故か「アイツ魔女なんじゃね?」と異端者扱いされた挙句火炙り、灰は川に流されると言う悲惨な最期を遂げました。
で、この戦争の良かった所は段々と国王の力が強まり‘国’として纏まり始めた所でしょうか。ついでに民も国民だと自覚し始めます。あ、でも大量の領主が死亡しました。だから王権が強まったんですけどね。
《ルネサンス》
中世って教会の力が強いから神様中心、人間って罪深いよねほらだから祈れ、だったじゃないですか。でもルネサンスになると
人間中心になっていきます。そもそもルネサンスは再生って意味があるんですが、その名の通り14~16Cに古代ギリシアや
ローマの文化を再生したんですよ。要は「人間性とか自然を合理的に見ようぜ!」と脱禁欲主義に。あ、人文主義って言ったほうが良いか。で、そうなった背景はフィレンツェを中心とした北イタリアの諸都市です。東方貿易で富裕な市民層、その中でも特に金と権力持ってたメディチ家なんかが古代ローマの影響・伝統を広めます。てか広まりました。すると自治が繁栄するし市民意識も高まる。良い事づくしですね。
そもそも古代では人の美しさをありのままに伝える為、全裸で描かれて居ました。腐女子ども、これに反応するなよ?しかし中世に入ると「人の裸なんて描くんじゃありません!」ってなって美術家達は描けませんでした。しかしルネサンスでは人間をありのままに描きたい!と芸術家達がハッスル始めてまた昔へある意味逆戻り。
《宗教改革》
16世紀、神聖ローマ帝国ではローマ大聖堂への資金集めのため教皇レオ10世(この人メディチ出身です)が贖宥状を販売し始めます。贖宥状は別名免罪符。これ買ったら死後に罪が消えて天国に行けるよ!と売ってましたが、その罪が「嘘ついちゃった」レベルなのか「私は強盗をしてしまったのです……」レベルなのか誰も言ってくれなかったんですよねぇ。でも死が身近にあった当時では飛ぶように売れていきました。あーあ、これ売ってる本人が天国行けなくなってそうですよね。
しかしそんな悪は許さない!というセイギノミカタも出てきます。例えばルターさん。聖書主義を唱えて(要は昔を思い出して真面なキリスト教戻しましょうって事)旧教に対して新教が出来上がり、北欧や北ドイツに広がります。もう一つがカルヴァンさん。スイスで活動した、ルターさんと同じく聖書主義です。この人が唱えたのが予定説。人間が死後救われるかは既に予定されているんだ、という訳で救いを信じようよ、って考え方。あとはカトリックが金=欲望という考え方をしていた所為で金を貯めるな!と言われてたのが勤労で真面目に働いて貯まった金は良い物じゃないか、と富の認可をしたため商工業者に大評判。支持されまくってあっという間に拡大します。
で、新教はあっという間に広がって各地で名前が変わっていきます。イングランドなら清教徒。スコットランドなら長老派。
フランスならユグノー。オランダならゴイセンって具合に。
一方、それに危機感を感じた旧教が内部粛清の為対抗宗教改革を行います。イグナティウス=ロヨラさんがイエズス会を結成。ここにはかのハゲで有名なフランシスコ=ザビエルさんもいました。で、彼等がヨーロッパ以外(アジア・アフリカ等世界各地)に布教を開始します。
プラス新教側に旧教側が働きかけたりも。「ちょいちょい、新教さん。教皇様の権威再確認しないかい?」ってトリエント公会議を持ちかけるんですが、新教側が拒否しちゃったんで仕方なく旧教のみで教皇権威の再確認を行い、宗教裁判所設置及び強化・禁書目録を新教派弾圧用に作成。あとは新旧問わず魔女狩りが大流行もしました。見た目変わらなかったり疑われた瞬間もうアウト。死亡と同意義です。
《イギリス宗教改革の理由》
これはテューダー朝の時に起きました。ヘンリ8世さんが言い出した事に、ローマ教皇が却下出したからなんですけど。流れは↓
ヘンリ「すんませーん教皇様ー、スペイン王女との間に子供出来ないんですけどー。離婚許可下さーい」
教皇「却下」
ヘンリ「え、後継出来ないっつってんですけど」
教皇「却下」
ヘンリ「いやだから子供―――」
教皇「却下つってんだろ」
ヘンリ「…………じゃあいいよ!カトリック辞めるから!今日から俺がイギリス国教会のトップだ!」
という流れの下、首長法(1534)が出来ました。イギリス国教会の成立です。因みにプロテスタントです。
《大航海時代》
15C末~16C、ヨーロッパでは防腐剤や薬として香辛料の需要が増えていました。しかしオスマン・イスラームが利益をかっさらう一方で金と同じ位高い物でした。
そんな中科学技術が発展し、トスカネリさんの地球球体説や羅針盤がイスラームから流れてきたりキリスト教世界が拡大したりして東方世界に関心が増えて行く一方。次々に新航路が発見されていきます。
そしてコロンブスさんが見つけてくれた(インドだと思い込んでた)アメリカ大陸。そこをめぐって二つの条約が出来上がります。トルデシリャス条約とサラゴサ条約。スペインとポルトガルによる世界の取り合いです。
スペイン人征服者ではコルテスさんがアステカ王国征服、ピサロさんがインカ帝国征服し、エンコシエンダ制でウハウハ。これはスペイン国王が征服者に土地と先住民の管理を任せるというもので鉱山開発(主に銀が取れました)のためにインディオ使いまくって激減。それを見たラス=カサスさんが哀れに思いこう言いました。「先住民を保護しましょう。代わりに黒人奴隷を使えばいいのです!」……え?
《大航海時代の影響》
商業革命はアメリカ発見によって商品の産地・種類・量がヨーロッパ規模から地球規模に変化。地中海貿易から大西洋にまで発展します。御陰でリスボン・アントウェルペンが貿易で発展。
価格革命は新大陸から流れてきた銀により銀の価値が大幅に下がり、ヨーロッパの物価が上昇=地代に頼っていた封建領主が没落していきました。
生活革命は新食物の輸入程度ですかね。
《三十年戦争》
戦場は神聖ローマ帝国。世界最大にして最後の宗教戦争で、カトリックの神聖ローマ帝国andスペインVSプロテスタントのスウェーデン・デンマーク・イギリス・オランダでドンパチ。所がフランスがカトリックにも関わらず新教派に介入。結果宗教?アレ何処行った?と唯の国家間戦争に。特にフランス王家ブルボンと神聖ローマ王家ハプスブルクで激戦。
終結後はウェストファリア条約という講和条約で神聖ローマは事実上解体されてしまいました。御陰で別名が「神聖ローマ帝国の死亡証明書」。物騒ですねぇ。これ以降主権国家になり、ついでにスイスとオランダは独立できました。
《絶対君主》
この時代王様が大好きだった物です。この条件は
①常備軍を持っていること(でもこれって金かかるんですよね)
②官僚が居る事
③王権神授説唱えてる事(神様に王権貰いましたって豪語してるって事)
④重商主義である事(常備軍で金かかってるからお金貯めるため国内産業かつ貿易保護して輸出重視)
で良い例がイギリスのエリザベス1世やフランスのルイ16世。前者は統一法でイギリス国教会確立したり、アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊破ったり、東インド会社設立したり、アメリカ植民地開拓したりと結構凄い事やってます。後者はまぁ、「太陽王」とか名乗って「朕は国家なり」とか言ってたんですよ。
《イギリス革命》
別名市民革命とも言います。最後の女王がエリザベス1世(私結婚しない!イギリスと結婚する!と言い放った人)だったテューダー朝が終わり(後継作んなかったからねー)、ステュアート朝の時に起きました。原因は、ジェームズ1世さんとチャールズ1世さん。このお二方、議会を無視して課税した上にピューリタン(清教徒)を弾圧しました。要は絶対王政やりたかったんですね。フランスめっちゃ凄かったし。けど、清教側(議会の人達)がそれにブチギレて、革命にまで発展しました。
片や、王党派と呼ばれる国王+貴族+特権商人(イングランド北西部拠点)。片や、議会派と呼ばれる議会の人達(ピューリタン多いよ!拠点ロンドン)でガチンコバトル!ネズービーの戦いでクロムウェルさん率いる議会派が勝ちましたけどね。
そしてチャールズさんは無事首チョンパになりました!貴方が利用しまくった神様の下に一直線だね!(≧∇≦)
《復古王政の理由》
上で書いた革命の御陰で共和制になったイギリスですが、クロムウェルさんがポックリ逝っちゃうとまた王政に戻してしまいました。何故かって?理由は彼が厳しすぎたからです。日曜は競馬も演劇も禁止で休め!なんて言われちゃつまんないですよねー(´-ω-`)自分に厳格だったのはいいけど強制はさせちゃあいかんよ。正しい事でも嫌になるさ。
でもフランスに逃げ延びてたチャールズ2世さんとジェームズ2世さん連れ帰って上に据えたら、またやられちゃいました。今度はカトリック的な政治です。フランス王家はこれで豪華な暮らししてましたからね。でもプロテスタント一筋な国に合う訳ないっつーの。あっという間に国外に蹴りだされちゃいました。これを名誉革命(一滴も血が流れなかったし大きな混乱も怒らなかった事を誇った名前。(1688)と言います。で、改めてジェームズ2世の娘、メアリ2世とその旦那ウィリアム3世(オランダ人)を連れてきて、権利の章典(1689)に王権に対する議会の優越示して(何かやりたかったら議会に通してねー。それで承諾出たらいーよー、という内容)から王様に据えましたとさ。
その後日談としてハノーヴァー朝になると王様いなくなってヤバイ!とドイツ人だけど王族なジョージ1世を連れてきました。でも彼英語出来ないからウォルポール首相に政治が任せっきりに。と言う事で「国王は君臨すれども統治せず」となり議会に責任が求められました。
《アメリカ独立前》
元は13植民地としてアメリカ東岸部が植民地とされていました。それ以外はそもそも耕さないと使えない土地ですし。
当初はイギリス本国としては緩やかに支配していました。だから植民地ごとに植民地議会を開いて自治を行えていた訳です。
しかし本国は七年戦争やフレンチ=インディアン戦争で財政難になっていき、重商主義に鞍替え。急に厳しくなり、印紙法であらゆる紙に税金が。キレて「代表なくして課税なし」なんて言葉も出来上がります。だって、それぞれが自治してるんですから代表いっぱい居ますよね。あと茶法で紅茶は東インド会社からしか買えないとなります。勝手に決められた事にブチギレ、ついに
ボストン茶会事件を決行。その後第一回大陸会議にて本国との通商を断絶する事にしました。
《独立戦争》
コンコード・レキシントンの戦いで国民が一つに纏まりました。この当時は3分の1ずつ独立目指す愛国派、イギリスに忠誠誓ってる忠誠派、中立派に分かれていました。しかしトマス=ペインさんが『コモン=センス』という著書で「独立が当たり前」という風潮に仕立て上げこっからは一つに。
独立宣言はトマス=ジェファソンが起草。基本的人権・平等権・革命権などロックの市民政府二論を見習って書きました。でも先住民と黒人は適用されませんが。
サラトガの戦いでは独立軍が無事勝利。これを以てアメリカが優勢になり、フランスやスペイン、オランダが軍を派遣してくれるしロシア、プロイセン、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルが間接的に手助けをしてくれる。おまけにラ=ファイエットさんやサン=シモンさん、コシューシコさんが義勇兵を送ってくれるというからイギリスはボッチに(笑)
ヨークタウンの戦いではついにイギリスが降伏し、パリ条約で独立を正式に承認しました。
《合衆国憲法の制定》
しかしここでも国内で争いが。連邦派は中央集権を目指し、半連邦派は州の独立制を目指す。結果前者が取り入れられ連邦主義(中央集権)、三権分立(司法・律法・行政が別々)、人民主権(主権は人民に)ってなりました。
アメリカの特徴は共和制で君主が居ない、歴史が浅いため身分差が少なく中産層が多い、白人中心の自由及び平等である、という点です。あ、あと初代大統領ワシントンさんも覚えておいて下さいね?