第五章 結婚-5度目の風
子どもが生まれてから、夜はとても短くなった。
カイドウ・ミナモは台所で小さくため息をついた。
時計を見る。
夜の二時。
シンクには洗い終わっていない食器。
テーブルにはミルクの哺乳瓶。
リビングでは小さな寝息が聞こえる。
娘のハルカがようやく眠ったところだった。
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昼は仕事。
夜は育児。
夫のリョウも働いている。
二人で頑張っている。
それは分かっている。
でも
体は正直だった。
眠い。
重い。
頭がぼんやりする。
(こんなに大変だと思わなかった)
ミナモは窓の外を見る。
街灯が静かに光っている。
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結婚したとき。
世界はもっと穏やかだった。
休日に二人で散歩する。
カフェに行く。
映画を見る。
未来はゆっくり流れていた。
でも今は違う。
時間はいつも急いでいる。
朝。
保育園。
会社。
迎え。
夕飯。
洗濯。
寝かしつけ。
また朝。
その繰り返し。
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ある夜。
ミナモはハルカをベビーカーに乗せて外に出た。
夜の空気は静かだった。
春の終わり。
少しだけ風がある。
ハルカは眠っている。
ミナモはゆっくり歩いた。
住宅街の道。
信号。
コンビニ。
その先に
小さな公園があった。
ミナモはなんとなく中に入る。
ベンチに座る。
ベビーカーを横に置く。
夜の公園は静かだった。
虫の声。
遠くの車の音。
そして
風。
くるくる。
くるくる。
ミナモは顔を上げた。
ブランコの横に
少女が立っていた。
小学四年生の頃と同じ姿。
同じ髪。
同じ目。
同じかざぐるま。
少女は言った。
「久しぶり」
ミナモは少し笑った。
「ほんと、変わらないね」
少女はハルカを見た。
「この子?」
ミナモはうなずく。
「娘」
少女はかざぐるまを回す。
くるくる。
くるくる。
「かわいいね」
ミナモは少し誇らしそうに言った。
「でしょ」
でも
そのあと少し黙る。
少女は聞いた。
「疲れてる」
ミナモは笑う。
「分かる?」
「分かる」
ミナモはベンチにもたれる。
「正直さ、
大変」
少女は黙って聞いている。
ミナモは続ける。
「かわいいでしょ、
でも、
余裕がない」
言葉が止まる。
ミナモは少しうつむいた。
「怒っちゃうこともある。
泣いてると、
なんでって思う」
声が小さくなる。
「そんな自分が嫌」
少女は少しだけ風車を回した。
くるくる。
くるくる。
そして言った。
「大丈夫」
ミナモは顔を上げる。
少女は言う。
「それが人だから」
ミナモは少し笑う。
「それ、前にも聞いた」
少女はうなずく。
「同じこと」
風が吹く。
くるくる。
くるくる。
少女は続ける。
「愛してるから、
疲れる」
ミナモは黙る。
少女はハルカを見る。
「この子も
いつか
同じこと思う」
ミナモは驚く。
「ハルカが?」
少女はうなずく。
「人はね」
「そうやってつながる」
ミナモはベビーカーを見る。
ハルカは静かに眠っている。
小さな手。
小さな呼吸。
ミナモの胸が少し温かくなる。
⸻
それから少しして
ハルカが泣いた。
ミナモは抱き上げる。
「よしよし」
ハルカはすぐに泣き止んだ。
ミナモは少女に言った。
「ありがとう」
でも
少女はいなかった。
ブランコ。
ベンチ。
夜の公園。
そして
地面に一本のかざぐるま。
くるくる。
くるくる。
ミナモはそれを見つめる。
「……ありがとう」
風が吹く。
くるくる。
くるくる。
それは
返事みたいだった。
⸻
それから
ミナモはまた少女を見かけなくなった。
でも
知っていた。
また会う。
人生のどこかで。
ミナモがまた
孤独になったときに。
続く




