第33話 帰還の準備は、紙と電話と、少しの緊張でできている
病院から「峠は越えた」と連絡が来た翌日、
フロアの空気は少しだけ軽くなった。
軽くなった、だけ。
安心しきるほど、甘くはない。
“越えた”の次に来るのは、
だいたい「戻すまでが仕事」だからだ。
午前中、相談課から内線が入る。
「主任、病院から退院調整の打診です」
「いつ頃」
「早ければ数日後。病棟でIC入れたいって」
「分かりました。看護師と出ます」
一言二言で、現場は次のフェーズに切り替わる。
机の上に書類を並べる。
直近の経過。
服薬。
水分摂取。
夜間の様子。
普段のADL。
“戻ってきた時に困るポイント”は何か。
それを先に潰すのが、カンファレンスの目的だ。
昼前、病棟へ電話。
看護師同士の会話は早い。
「澄江さん、今はどうですか」
「熱は落ち着いてます。酸素は外れてます。食事も再開」
「意識レベルは」
「しっかりしてきました。会話、短文ならいけます」
短文。
それで十分だ。
「退院時の注意点は」
「感染の再燃、脱水、食事量。あと関節痛は波がある」
いつも通りの“現実的なポイント”が出る。
それが一番ありがたい。
フロアに戻ると、居室の前で若手が立っていた。
「主任……ベッド、どうします?」
「そのまま。だけど、清拭セットは新しくしとこう」
「はい」
「戻ってきた日に“前の空気”が残ってると、本人がしんどいから」
清潔と生活感のバランス。
このへんが地味に難しい。
午後、病棟ICの日時が決まる。
相談課が、ぽつりと言う。
「家族、ちょっと疲れてます」
「そりゃそうです」
「『また戻るんですか』って、半分泣きながら笑ってました」
その感情は、分かる。
怖かったし、長かったし、待つしかなかった。
「戻ります。戻れるなら戻したほうがいい」
私は、事実だけを言う。
夕方。
四人部屋の前を通ると、声がした。
「……退院はいつだ」
勇者だ。
「まだ調整中です。数日後の可能性」
「短いな」
「短くはないです」
「戦場なら、短い」
「ここは施設です」
「……了解」
返事が素直なのが、今日はありがたい。
賢者が続ける。
「退院は“復活”ではなく“移行”だ」
「その通りです」
「条件が変わる可能性がある」
「はい。薬も食事も、見守りも」
「なら、再評価が必要だ」
「戻ったらすぐケース会議です」
賢者が小さく頷いた。
戦士が、低く言う。
「……席は」
「空けてあります」
「……よし」
それだけでいい。
夜勤への申し送り。
「水野さん、退院調整開始。
受け入れ準備:居室環境維持+物品更新。
退院後は観察強化、食事・水分は段階的に。
退院時情報は必ず共有」
書く内容は地味だ。
でも地味な紙が、事故を減らす。
最後に、居室のコップを入れ替えた。
昨日まで残していた“続き”は、
ここで一度切り替える。
待つ時間は、終わった。
次は、戻す時間だ。
世界は救われなかった。
でも、帰ってくるための準備は始まった。
帰還は奇跡じゃない。
手順と連携と、少しの緊張で作るものだ。
この現場は、そういう場所だ。
ICとは
ここで出てきた IC は、
インフォームド・コンセント(Informed Consent) の略です。
直訳すると、
「説明を受け、理解し、同意すること」。
介護や医療の現場では、
もう日常語に近い言葉ですが、
一般の方には少し分かりにくいかもしれません。
ICは、
「同意書にサインをもらうこと」ではありません。
本来の意味は、
今、どんな状態なのか
どんな選択肢があるのか
それぞれのメリット・デメリット
何が起こり得るのか
本人や家族は、どうしたいのか
これを 分かる言葉で説明し、納得した上で決める ことです。
特養の現場でのICは、
たいていとても地味です。
・入院を続けるか
・施設に戻るか
・経口摂取をどうするか
・点滴を続けるか
・延命処置をどう考えるか
どれも「正解」がありません。
だからICは、
決断を押し付けないための作業でもあります。
今回の「退院調整」も、
実はICの延長線上です。
「もう大丈夫です」
「絶対戻れます」
そんな断言はしません。
代わりに、
「こういうリスクがあります」
「こういう対応が必要です」
「戻った場合、こういう観察が必要です」
それを共有して、
“戻る”という選択を一緒に作る。
それが現場のICです。
家族が疲れている時ほど、
ICは慎重になります。
怖かった時間が長いほど、
判断力は落ちます。
だから急がせない。
決めさせない。
選ばせない。
「一緒に考えましょう」が、
ICのいちばん大事な部分だと思っています。
世界は救われていませんが、
説明と理解と同意は、ちゃんと積み重ねました。
それができていれば、
どんな結果になっても
「一人で決めた」にはなりません。
介護と医療のICは、
そのためにあります。




