第31話 聖女は、ギリギリのところにいる
夜勤が明ける直前、
ナースステーションの電話が鳴った。
音は、いつもと同じ。
でも、鳴り方が違って聞こえる。
出る前に、
一度だけ深呼吸した。
「はい、○○特養です」
相手は、病院の看護師だった。
「水野澄江さんの件でご連絡です」
声は落ち着いている。
それが逆に、緊張を上げる。
「現在、全身状態は不安定です」
「はい」
「血圧は低めで推移。
感染反応が強く、抗生剤治療中です」
「呼吸状態は?」
「酸素投与下で維持。
ただ、ギリギリです」
その言葉が、
そのまま胸に落ちる。
「“峠を越えた”とは、まだ言えません」
「……分かりました」
「今夜から明日にかけてが、山になります」
山、という言い方は、
現場でもよく使う。
越えれば、少し見える。
越えられなければ、景色は変わる。
「ご本人の意識は?」
「呼びかけに反応はありますが、
長くは保てません」
「言葉は?」
「単語レベルです」
“単語レベル”。
その一言で、
昨日の会話が遠くなる。
電話を切ったあと、
私はすぐに記録を打つ。
「病院より連絡。
状態不安定。
今後24時間が山。
施設復帰は未定」
感情は入れない。
入れられない。
フロアを回る。
四人部屋の前で、
勇者がこちらを見る。
「……どうだ」
「正直に言いますね」
「頼む」
「かなり、ぎりぎりです」
一瞬、空気が止まる。
賢者が、静かに聞く。
「条件付きか」
「はい。
今夜から明日が山です」
「数値ではなく、状態だな」
「その通りです」
戦士は、少しだけ間を置いて言う。
「……戻る可能性は」
「ゼロではないです」
「……ゼロじゃないなら」
「はい」
それ以上、言葉はいらない。
昼。
相談課と情報共有。
家族への連絡状況。
今後の見通し。
空床扱いのタイミング。
全部、「未定」のまま。
「決められない、が結論です」
そう言うと、
相談員は小さく頷いた。
「一番しんどい状態ですね」
「現場も、家族も」
午後。
病院から二度目の連絡。
「血圧、さらに低下」
「昇圧剤、開始しました」
「反応は?」
「……限定的です」
言葉が、慎重になる。
私は、居室に行く。
いない人の居室。
ベッドはそのまま。
コップもそのまま。
昨日より、
“戻らないかもしれない”重さが増している。
でも、片付けない。
夕方。
三人は、いつもより早く食事を終えた。
勇者が、ぽつりと言う。
「……聖女は、
俺たちを支えていた」
「はい」
「今は、逆だな」
「そうですね」
賢者が続ける。
「役割は、固定ではない」
「現場的にも、そうです」
「なら、待つ側に回るのも、役割だ」
「……はい」
戦士は、食器を置いて言った。
「……生きてるなら、
まだ戦闘中だ」
誰も否定しない。
夜。
電話は鳴らない。
鳴らないことが、
良いとも悪いとも言えない。
ぎりぎりの時は、
音が止まる。
夜勤への申し送り。
「水野さん、状態かなり厳しい。
連絡待ち。
戻りを前提に環境維持。
職員間で情報共有を密に」
それだけ。
消灯後、
私はもう一度、居室を見た。
「戻るか、戻らないか」
その境界線の上に、
今、彼女はいる。
世界は救われなかった。
結果は、まだ出ていない。
でも、“待つ”という行為だけは、
ちゃんと続いている。
それができる間は、
まだ、終わっていない。
「ギリギリ」という状態は、
医療的にも、現場的にも、
一番言葉にしづらい状況です。
良くなっているとも言えない。
もう駄目だとも言えない。
判断も、感情も、宙に浮く。
だから連絡の言葉は、
どうしても曖昧になります。
「山です」
「峠です」
「厳しいです」
「まだ分かりません」
どれも正確で、
どれも不十分。
施設側ができることは、
正直ほとんどありません。
治療は病院。
判断は医師。
現場は、ただ待つ。
でもその「待つ」は、
何もしないことではなくて、
・情報を整理する
・環境を保つ
・言葉を選ぶ
・次に備える
という、静かな作業の連続です。
今回の回では、
あえて劇的な描写は入れていません。
奇跡も、急変も、
この段階では描かない方が、
現実に近いからです。
ギリギリの時って、
だいたいこんなふうに
静かで、長い
結果がどうなるかは、
次の話でしか出ません。
でもこの「待っている時間」そのものが、
介護の仕事の一部です。
世界は救われていませんが、
今はまだ、
終わりを決める時間ではありません。




