第30話 聖女のいない夜
救急搬送のあと、
フロアは一度だけ、深く息を吸った。
音が消えるわけじゃない。
仕事も止まらない。
ナースコールも鳴るし、
記録も書く。
でも、
「一人いない」という事実だけが、
空気を少し変える。
水野澄江さんのベッドは、
整えたままにしてある。
シーツも、枕も、
夜勤用の毛布もそのまま。
空床にはしない。
まだ“空き”じゃないから。
居室の前を通るたび、
誰かが一瞬だけ足を止める。
誰も言わないけど、
みんな確認している。
「まだ戻る場所は、ここだ」
そう言っているみたいに。
四人部屋は、
目に見えて静かだった。
勇者が、低く言う。
「……静かすぎる」
「一人分、減ってますから」
「人数の問題じゃない」
「分かります」
賢者が続ける。
「空白は、存在感を強める」
「難しい言い方しないでください」
「事実だ」
戦士は、短く。
「……片付けるな」
「片付けません」
「……戻る前提だ」
「はい」
その一言で、
部屋の空気が決まる。
夜勤に入る前、
若手職員が小声で聞いてきた。
「主任……ベッド、
空けておいた方がいいですか」
「そのままで」
「空床扱いにしなくていいんですね」
「今は、まだ違う」
「……分かりました」
“まだ”という言葉が、
今夜の答えだ。
記録を書く。
「搬送後、居室は現状維持。
物品、私物、ベッド環境変更なし」
この一文が、
現場の意思表示になる。
廊下を歩いていると、
勇者がこちらを見る。
「戻るとき、
部屋はあるんだな」
「あります」
「……なら、待つ」
「そうしてください」
賢者が言う。
「結果が確定していない以上、
席は空席ではない」
「現場用語だと“保留”ですね」
「合理的だ」
戦士は、
いつもより少しだけ声を出した。
「……守りは、残す」
「残ってます」
消灯後。
普段通りに忙しい。
でも誰も、
「次を入れよう」とは言わない。
まだ、言えない。
居室に戻って、
ベッドの横にあるコップを見る。
半分ほど残ったままの水。
昨日の昼、
少しずつ飲んでいたものだ。
私はそのままにした。
片付けない。
捨てない。
“続き”として置いておく。
夜中、
フロアは静かだ。
静かすぎて、
逆に音がよく聞こえる。
誰かの寝息。
誰かの咳。
誰かの寝返り。
一人分だけ、
音がない場所がある。
私は心の中で言う。
――ここに、戻ってきていい。
それは祈りじゃない。
命令でもない。
ただの事実確認だ。
世界は救われなかった。
でも、場所は残してある。
誰かが帰るための場所を、
そのままにしておく。
それも、介護の仕事だ。
実際の運用としては、
「入院=即退去」になることはほとんどありません。
しばらく様子を見て、状態や見通しを確認してから、
継続か退去かを判断します。
なので、この回で描いた
「ベッドをそのままにする」「空床にしない」という描写は、
制度的にもちゃんと現実に沿っています。
ただ同時に、
今回は少しだけ“雰囲気を強める表現”にもしています。
一人がいなくなると、
現場は一気に「判断待ちの時間」になります。
戻るかもしれない。
戻らないかもしれない。
でも、まだどちらとも決められない。
その宙ぶらりんな状態を、
「片付けない」「空けない」「触らない」という行動で
強調した形です。
介護施設って、
人の出入りは日常的にある場所なのに、
“今いない人”の存在感はすごく大きい。
退去が決まれば、
切り替えが始まります。
相談課が動き、次の入居の話も進みます。
でも「入院中」は、
感情も判断も一度止まる。
その止まっている空気を出したくて、
少しだけ強めに描いています。
現実はもっと事務的で、
もっと淡々としていて、
もっと忙しいです。
それでも現場の人間は、
「戻ってくるかもしれない人」を
雑に扱わない。
この話は、その感覚を物語用に
少し濃くした回だと思ってもらえたら嬉しいです。




