第29話 聖女は、戻ったように見えて、崩れる
朝の巡視で、私は一瞬だけ迷った。
――昨日より、悪い。
数値じゃない。
顔だ。
水野澄江さんの肌が、白い。
血色がないというより、光がない。
「澄江さん、おはようございます」
「……おはよう」
返事はある。
でも、声が遠い。
バイタルを取る。
体温、上がっている。
脈も速い。
血圧は、また低い。
「測り直しますね」
澄江さんは、うっすら目を開けたまま頷く。
測り直しても、同じだった。
看護師を呼ぶ。
看護師は一目で察した顔になる。
「昨日より、落ちてるね」
「はい」
「呼吸は?」
「苦しそうではないです」
「咳は?」
「ありません」
「でも、熱が戻ってる。脈も早い」
看護師の指先が、淡々と酸素飽和度と皮膚の冷たさを確認する。
「脱水だけじゃないかもしれない」
声のトーンが、少しだけ変わった。
澄江さんは、こちらを見て言った。
「……ごめんなさいね」
「謝らなくていいです」
「昨日、笑ったのに」
「笑えたのは、よかったです」
「でも……今日は、重い」
自分で言えるうちは、まだ大丈夫だ。
私はそう判断しつつ、胸の奥が少し冷えた。
「採血、いきます」
看護師が言う。
「医師に報告して指示もらう」
動きが早い。
私はその間に、居室の環境を整える。
水分は無理に入れない。
姿勢を楽に。
毛布を一枚。
澄江さんの手は、冷たい。
昼前。
医師から指示が出る。
「感染も疑う。抗生剤の検討。点滴。経過で搬送も」
言葉が、現実に変わる。
この“搬送も”の二文字で、
現場の背筋が揃う。
点滴が入ると、澄江さんは少しだけ楽そうになった。
でも、それは回復じゃない。
「今、持たせている」だけだ。
「澄江さん、今日は休みましょう」
「……うん
「食事は、無理しないで」
「……分かった」
返事が短くなる。
短くなるのは、体力が落ちているサインだ。
午後。
眠る時間が長くなる。
声をかければ目は開く。
でも、焦点が合わない瞬間が増えた。
私は、その“増えた”が怖い。
廊下で若手職員が小声で言う。
「主任、昨日、戻ったと思ったのに……」
「戻ったことは事実」
「じゃあ、なんで」
「戻る途中で崩れることがある」
言い方が、冷たいように聞こえるかもしれない。
でも、現場はこれを知っていないと動けない。
夕方。
再度、熱が上がる。
血圧もさらに低い。
看護師が言う。
「医師に再報告。救急搬送の線、濃くなる」
私はすぐに相談課へも共有する。
家族連絡の準備。
搬送時の情報整理。
服薬状況、既往、直近の経過。
ここからは、紙が速いほうが勝つ。
その頃、例の四人部屋の前を通ると、声がした。
「……聖女が静かすぎる」
勇者の声。
「容態が悪化しています」
「戦闘不能では済まないか」
「医療対応です」
返すと、少し間が空いた。
賢者が低く言う。
「昨日の改善は、反動ではない。波だ
「はい」
「波は、上がる前に下がることがある」
「そうです」
戦士が、短く。
「……持ちこたえろ」
祈りではない。
願いでもない。
ただ、出せる言葉がそれしかない。
夜。
医師の判断が出る。
「搬送」
短い。
看護師が準備を始める。
私は家族へ連絡する。
相談課も動く。
フロアは静かだ。
静かなまま、全員が速い
澄江さんの手を握る。
「澄江さん、今から病院へ行きます」
「……そう」
「一緒に行けませんが、ここから繋ぎます」
「……うん」
「怖いですか」
少しだけ、間が空いた。
「……怖い」
正直な言葉が出た。
私はその一言が出たことに、少しだけ救われた。
「大丈夫です。向こうに引き継ぎます」
「……お願い」
それで、十分だ。
救急隊が到着し、ストレッチャーへ移す。
動線を確保する。
転倒させない。
酸素、点滴、書類。
搬送は「慌てないための手順」だ。
廊下の曲がり角で、勇者の声がした。
「……戻ってこい」
言葉が短い。
でも、今日はそれが一番まっすぐだった。
賢者が続ける。
「条件が整えば、帰還は可能だ」
戦士が、低く言う。
「……待つ」
誰も、澄江さん本人に聞こえる声量では言わない。
ただ、そこに“いる”。
ストレッチャーが、エレベーターへ入る。
扉が閉まる直前、
澄江さんが小さく口を動かした。
聞こえない。
でも、その表情は、昨日よりずっと弱いのに、
なぜか落ち着いて見えた。
世界は救われなかった。
笑った翌日に、悪化する。
介護の現場では、珍しくない。
だからこそ、
笑えた日も、悪化した日も、
どちらも嘘じゃない。
今日できるのは、
ただ一つ。
“繋ぐ”ことだけだ。
「昨日ちょっと良かったのに、今日は悪い」
介護の現場だと、これは本当によくあります。
回復したと思ったら崩れる。
持ち直したと思ったら熱が上がる。
食べられた翌日に食べられない。
体調って、一直線に良くならないんですよね。
特に高齢者は、波が大きい。
だから現場では、
“良かった日”を否定しません。
でも同時に、
“悪化”にもすぐ備えます。
この回で描いた「搬送」は、
ドラマではなく手順です。
慌てないために、
淡々と早く動く。
・バイタルと経過の整理
・医師への報告
・家族連絡
・相談課と共有
・救急隊への引き継ぎ
ここが噛み合うと、
本人の負担が減ります。
そして、本人の「怖い」。
これが言えるうちは、
まだ“本人としてそこにいる”状態です。
怖いと言える。
お願いと言える。
それは、弱さではなくて、ちゃんとした反応です。
コメディをやっていた翌日に、
こういう回が来る。
それが介護の難しさであり、リアルでもあります。
世界は救われていませんが、
今日の現場は“繋ぐ”仕事をしました。
それができたなら、
この回は現場としては合格です。




