第28話 聖女は、しょうもない事件で戻ってくる
朝の巡視で、水野澄江さんの顔色を見た瞬間、
私は少しだけ肩の力が抜けた。
昨日より、血色がある。
目の焦点も合っている。
「澄江さん、おはようございます」
「……おはよう」
声はまだ弱い。
でも、薄くはない。
バイタル。
熱は下がっている。
血圧も、少し戻った。
脈も落ち着き気味。
「今日は、昨日より良いですね」
「……“治った”じゃなくて、“楽”って感じ」
「それで十分です」
看護師が頷く。
「今日は水分中心で、食事は無理せず。
トイレも焦らず。
疲れたらすぐ休ませてください」
現場の回復は、だいたいこのくらいの速度だ。
午前中は、居室で休む。
飲水ゼリーを少し。
口に含める量が、昨日より増えている。
「……ごめんなさいね、手が」
「大丈夫です」
コップを支えながら、
私はいつもの声かけをする。
彼女は小さく息を吐いた。
「今日は……昨日ほど、怖くないわ」
それだけで、充分な進歩だ。
事件は、昼前に起きた。
といっても、
事故でも急変でもない。
ただの洗濯物だ。
若手職員が、洗濯カゴを抱えたまま
固まっていた。
「主任……」
「どうしたの?」
「……これ、どこに入れました?」
指差した先には、
いつも勇者の棚に入っているはずの下着がある。
ただし。
サイズが違う。
色も違う。
そして何より、明らかに――
「……戦士のだね」
「ですよね!?」
声が裏返る。
よりによって、その場面を
勇者の桐原正志さんが目撃していた。
カーテンの隙間から、
いつもの低い声が飛んでくる。
「それは、軽装すぎる」
「軽装って言わないでください」
「防御力がない」
「衣類です」
彼は真顔だった。
戦士の岩本忠夫さんが、
のそりと顔を出す。
「……それ、俺のだ」
「すみません!」
若手職員が即座に謝る。
忠夫さんは、少し黙ってから言った。
「……奪われたわけじゃない」
「奪ってません」
「……なら、回収」
回収、という言い方がもうずるい。
賢者の秋月修造さんが、
状況を観察してまとめる。
「発生原因は、分類の誤りだな」
「そうですね」
「再発防止策は?」
「確認してから入れる、です」
「……合理的だ」
合理的で片付けないでほしい。
私は、とりあえず現場を収める。
「勇者さん、こちらは戦士さんのです」
「了解」
「戦士さん、こちらに戻します」
「……了解」
若手職員は、顔が赤い。
「主任、すみません……」
「いいよ。よくある」
「よくあるんですか」
「ある」
施設の洗濯物は、
だいたい戦場だ。
その一連のやり取りを、
澄江さんはベッドの上から見ていた。
最初は無表情だった。
次に、口元が少しだけ動いた。
そして。
「……ふふ」
小さな笑い声が、漏れた。
私は、その音で分かった。
――今日は、戻ってきている。
「澄江さん、笑いましたね」
「……笑ったわ」
「いいことです」
「だって……」
彼女は少し息を整えてから言った。
「桐原さん、真面目に“防御力”って……」
「真面目ですからね」
「あなたも、普通に返してるし……」
「現場です」
その返事に、
彼女がもう一度笑った。
今度は、昨日より深い。
昼食は、居室で。
全量は無理。
でも、数口は入る。
「無理しないで」
「……うん。でも、少し食べられる」
「それで十分です」
食べたあと、
澄江さんがぽつりと言った。
「私ね、昨日はね……笑う余裕がなかったの」
「そうでしたね」
「今日は、ある」
それが回復の証拠だ。
午後。
フロアで小さなレクが始まった。
参加はしない。
見学だけ。
それでもいい。
廊下の端から眺めながら、
澄江さんが私に言う。
「……人がいると、戻れるのね」
「戻ります」
「しょうもないことで笑って……」
「それが一番強い薬です」
「……たしかに」
夕方、もう一度バイタル。
数字は安定。
顔色も維持。
尿量も少し増えている。
看護師が言った。
「このままいけば、明日は食堂に出られるかもね」
澄江さんは、少し考えてから答える。
「……無理しない程度に」
その言葉が出るのも、
戻ってきた証拠だ。
夜。
四人部屋から、声がした。
「……聖女、笑ったな」
勇者だ。
「笑いました」
「なら、回復傾向」
賢者が続ける。
「笑いは、自律神経に良い」
「現場では、そういう扱いです」
戦士が、低く言う。
「……無理はするな」
澄江さんが、小さく返す。
「分かってるわよ……ありがとう」
その声は、昨日よりしっかりしていた。
世界は救われなかった。
でも、今日は笑えた。
しょうもない事件で笑える日は、
たいてい、もう大丈夫だ。
少なくとも、
昨日よりは確実に、前に進んでいる。
体調の回復って、
熱が下がったとか、
数値が戻ったとか、
もちろん大事なんですけど、
現場で一番分かりやすいのは
「しょうもないことで笑えるかどうか」だったりします。
余裕がない時って、
冗談も雑談も入ってこないんですよね。
目の前のしんどさで精一杯になる。
だから、
ツッコミが戻る、
苦笑いが出る、
「それおかしいでしょ」って言える。
それが出たら、
かなり安心します。
今回の回復は、
医療的に完治したわけでも、
急に元気になったわけでもありません。
でも、
・人を見て
・状況を見て
・笑って
・言葉を返した
この四つがそろった時点で、
「戻り始めた」と判断していい状態です。
そして洗濯物事件。
現場では、
本当にこういうどうでもいいことで
空気が緩みます。
戦士の下着が勇者の棚に入るだけで、
その日の緊張が一段落する。
介護のコメディって、
たぶんこういう種類の笑いなんですよね。
世界は救われていませんが、
今日はちゃんと笑えました。
それは、
体も心も、
少しずつ戻ってきた証拠です。




