第24話 新規は、最初の夜が一番長い
新規入居の一日目は、
昼よりも夜のほうが難しい。
昼間は、人が多い。
音もある。
動きもある。
でも夜になると、
急に世界が静かになる。
その静けさが、
一番、不安を呼ぶ。
消灯後、フロアを回っていると、
新規の居室から小さな物音がした。
「……すみません」
声は、遠慮がちだった。
「どうしました?」
「ここ……夜は、こんなに静かなんですか」
「はい」
「病院より、静かですね」
「そうですね」
静けさが、
安心になる人もいれば、
不安になる人もいる。
ベッドサイドに立つ。
「眠れそうですか?」
「……分かりません」
「今日は、眠れなくて普通です」
「普通……」
「初日は、みんなそうです」
それだけで、
少しだけ表情が緩んだ。
廊下を戻ると、
例の四人部屋から声がした。
「……新規は、まだ起きているな」
勇者の声だ。
「はい」
「初夜は、長い」
「長いですね」
賢者が続ける。
「環境変化の初期段階では、
脳は警戒状態に入る」
「つまり?」
「眠れない」
「ですよね」
戦士が、短く。
「……守りが、薄く感じる夜だ」
「人が減ったわけじゃないです」
「……感覚の問題だな」
「そうです」
澄江さんが、少し柔らかく言った。
「誰かが来た夜は、
誰かが不安になるものよ」
「そうですね」
「最初の夜を越えると、
少し楽になるわ」
彼女の言葉は、
現場の感覚とよく合っている。
再び新規の居室へ。
「何か、持ってきましょうか」
「……水を、少し」
コップを渡すと、
両手で包むように持った。
「ここで……暮らすんですね」
「はい」
「……まだ、実感がない」
「それで大丈夫です」
しばらく沈黙が続く。
「怖いですか」
「……少し」
正直な答えだ。
「でも、
誰かがいるのは、分かります」
「います」
「それなら……」
言葉を探して、
結局、やめた。
巡視の時間。
フロアは、静かだ。
新規の居室からは、
小さな寝息が聞こえ始めていた。
「眠れたな」
私は、心の中でそう言った。
ナースステーションに戻ると、
夜勤の職員が小声で言った。
「主任、新規さん、落ち着いたみたいです」
「一つ、山を越えたね」
「初夜クリアですね」
「そう」
それだけで、
今日の仕事は合格だ。
世界は救われなかった。
でも、
一人が「ここで眠る」という選択を、
無事に終えた。
施設の生活は、
だいたいこうして始まる。
新規入居で一番しんどいのは、
実は「初日」より「最初の夜」だと思っています。
昼間は人の出入りがあって、
説明もあって、
何となく流れに乗れます。
でも夜になると、急に全部が止まる。
音がなくなって、
人の気配が薄くなって、
「ここで暮らす」という現実だけが残る。
そこで不安が出ない方が、珍しいです。
だから現場では、
初夜を越えたらまず一安心、
という感覚があります。
眠れなくてもいい。
何度ナースコールを押してもいい。
水を飲みたくなってもいい。
「誰かが来る」という経験ができれば、
それで半分は成功です。
介護の仕事は、
何かをしてあげることより、
「一人にしないこと」の積み重ねだと思います。
特別な言葉はいらないし、
完璧な安心も作れない。
でも、
静かな夜に「いますよ」と言える人がいるだけで、
人は少しだけ眠れます。
派手さはありませんが、
この話はかなり重要な回です。
新規入居は、
「生活が始まる瞬間」を扱っています。
世界は救われていませんが、
一人分の夜が、ちゃんと越えられました。
それで十分な仕事です。




