第23話 新規は、いつも「静かな緊張」から始まる
新規入居の日は、
フロアの空気が少しだけ硬くなる。
忙しいからじゃない。
失敗できないからでもない。
「この人は、どんな人か」
それを、まだ誰も知らないからだ。
相談課から来た資料は、
昨日、もう目を通している。
名前。
年齢。
要介護度。
既往歴。
家族構成。
全部、文字としては知っている。
でも、
人としては、まだ白紙だ。
午後二時。
エレベーターの音がした。
「来ましたね」
若手職員が、少し背筋を伸ばす。
「来たね」
それだけで、
空気が切り替わる。
ストレッチャーで入ってきた新規入居者さんは、
少し不安そうな顔をしていた。
「ここ……病院じゃないの?」
「施設です」
「帰れる?」
「今日は、ここで休みます」
「……そう」
納得したような、
していないような。
よくある反応だ。
居室に案内する。
「こちらが、お部屋です」
「狭いね」
「必要なものだけ、あります」
「……十分だ」
その言葉が出た時点で、
この人は大丈夫だと思った。
荷物を整える。
着替え。
タオル。
写真。
写真立ての中の家族写真を見て、
一瞬、視線が止まる。
「……置いていい?」
「もちろんです」
それは、
この部屋が「仮の場所」じゃなくなる瞬間だ。
バイタル測定。
「血圧、測りますね」
「はい」
素直だ。
「体温も」
「はい」
一つずつが、
信頼を積み上げる作業だ。
フロアを少し案内する。
途中で、
例の四人部屋の前を通る。
中から声がした。
「……新規だな」
勇者だ。
「はい」
「……補充か」
「人です」
「……分かっている」
言い直してくれるだけで、十分だ。
賢者が続ける。
「初期条件は、不確定要素が多い」
「そうですね」
「……観測が必要だ」
戦士が、短く。
「……守る範囲が増える」
聖女が、少し柔らかく言う。
「仲良くできるといいわね」
誰も否定しない。
新規入居者さんは、
その会話を聞いていない。
でも、
その存在は、
もうフロアの一部になっている。
夕方。
少しだけ、落ち着いてきた頃。
「ここ、うるさくないね」
「そうですか」
「静かすぎて、逆に落ち着かない」
それも、よくある。
「慣れます」
「……慣れる、か」
記録を書く。
「新規入居。
環境への適応、今後観察。
大きな不穏なし。」
まだ、何も評価しない。
今日は、
来ただけで十分だ。
世界は救われなかった。
でも、
今日から一人分、
この場所での時間が始まった。
それだけで、
この日はちゃんと意味を持っている。
新規入居の日は、
イベントのようでいて、実はとても地味です。
ドラマは起きないし、
感動もまだないし、
ただ「来る」「部屋に入る」「荷物を置く」だけ。
でも現場にとっては、
この“何も起きなかった”が一番大事です。
不穏が出なかった。
拒否がなかった。
混乱がなかった。
それだけで、かなり上出来。
介護の新規対応って、
優しくすることよりも前に
「普通に扱うこと」が求められます。
大げさに迎えない。
過剰に説明しない。
決めつけない。
この人はどんな人か、は
今日ではなく、
これからの積み重ねで分かっていく。
そして現場ではよくある話ですが、
「空床が埋まった」という事実と、
「一人の生活が始まった」という事実は、
同時に存在しています。
数字としてのベッドと、
人としての入居者。
その両方を抱えながら回しているのが、
施設の日常です。
派手さはありませんが、
この回はかなり“介護らしい回”です。
何も起きなかった、という成功。
それが新規入居対応の正解だと思っています。
世界は救われていませんが、
一人分の居場所が、ちゃんとできました。
それで十分な一日です。




