第20話 その夜、世界は一人分だけ静かになった
夜勤は、普段より静かだった。
コールも少なく、
巡視の足音が、廊下にきれいに響く。
「今日は、落ち着いてますね」
夜勤者が言う。
「こういう日は、気を抜かない」
私は、そう返した。
看取り対応中の居室は、
廊下の一番奥。
カーテンは半分閉じられ、
照明は落としてある。
ご家族は、もう帰られていた。
「今夜が山、とは言えませんが……」
昼間の申し送りでは、
そう共有されていた。
二時過ぎ。
呼吸が、変わった。
回数が減り、
間が、少しずつ長くなる。
私は、そばに立つ。
声はかけない。
手だけ、そっと触れる。
三時四十二分。
呼吸が、止まった。
脈を確認。
もう一度、確認。
「……ご逝去です」
声は、自然と低くなる。
夜勤者が、静かにうなずいた。
看護師を呼び、
一つずつ手順を進める。
確認。
記録。
医師への連絡。
誰も急がない。
廊下に出ると、
例の四人部屋の前を通る。
カーテンの隙間から、
低い声が聞こえた。
「……一人、行ったな」
勇者の声だ。
「はい」
私は、普通に返す。
「……戦ではないが」
「ええ」
「……それでも、見送る夜だ」
賢者が、続ける。
「確率論では、避けられない」
「そうですね」
「……だが、慣れはしない」
それも、正しい。
戦士は、短く。
「……後ろが、静かだ」
「はい」
「……抜けた場所は、埋まらない」
「そうです」
否定しない。
澄江さんは、少し間を置いて言った。
「ちゃんと……独りじゃなかった?」
「ええ」
「それなら……いいわ」
彼女は、それ以上言わなかった。
明け方。
ご遺体は、きれいに整えられ、
静かに居室を出た。
誰も、騒がない。
朝の申し送り。
「〇号室、ご逝去」
それだけで、
フロアの空気が少し変わる。
でも、業務は続く。
食事。
排泄。
服薬。
世界は、止まらない。
昼前。
廊下の花が、一つ増えていた。
誰が置いたかは、分からない。
記録には、こう書いた。
「夜間、ご逝去確認。
苦痛表情なし。
穏やかな経過。
ご家族へ連絡済み。」
それ以上は、書かない。
世界は救われなかった。
でも、
一人分の人生は、
ちゃんと、ここで終わった。
それで、いい。
施設での看取りは、
特別な出来事であると同時に、
日常の延長でもあります。
泣き叫ぶこともなく、
ドラマチックな言葉もなく、
静かに、呼吸が止まる。
それでも、
そこには確かに「最期」があります。
現場がするのは、
奇跡を起こすことではなく、
独りにしないことです。
世界は救われていませんが、
誰かの最期は、
ちゃんと人の手の中にありました。
それで、この仕事は成立しています。




