第17話 賢者は、計算の途中で倒れる
転倒は、音で分かる。
叫び声ではない。
助けを呼ぶ声でもない。
鈍い音だ。
夜勤明けに近い時間。
廊下の奥から、
「ゴン」という低い音がした。
私は、反射的に走った。
倒れていたのは、秋月修造さんだった。
居室の入口。
トイレに向かう途中。
尻もちの形。
頭は、壁に触れていない。
「修造さん」
「……ああ」
意識は、はっきりしている。
「どうしました?」
「……計算が、合わなかった」
それが、彼の言い方だ。
すぐに評価に入る。
意識レベル。
瞳孔。
痛みの有無。
可動域。
「痛いところは?」
「……腰」
「頭は?」
「……ぶつけていない、はずだ」
「“はず”ですね」
「……不確定要素だ」
その通り。
ベッドへ移動。
ナースコールで看護師を呼ぶ。
修造さんは、天井を見ながら言った。
「立てると思った」
「思いましたか」
「……昨日までは」
「今日は、違いました」
「……そうだな」
納得が早いのが、救いだ。
少し遅れて、
他の三人の部屋から声がした。
「……何があった」
勇者だ。
「賢者が、倒れました」
「……生存は?」
「はい」
「なら、続報を待つ」
戦士が、低く言う。
「……後ろは?」
「守っています」
「……了解」
澄江さんは、静かだった。
看護師の評価。
明らかな外傷なし。
打撲疑い。
経過観察。
「今夜は、起きないでくださいね」
「……了解」
修造さんは、素直だった。
数分後。
「主任」
「はい」
「一つ、訂正したい」
「何をですか」
「私は、油断していた」
「そうですか」
「……自分の足を、過信していた」
それが、転倒の正体だ。
朝。
申し送りには、こう書かれた。
「居室前にて転倒。
大きな外傷なし。
打撲あり。
本日、移動時は全介助」
よくある文章だ。
食堂では、
修造さんは車椅子参加だった。
「……計画を修正する」
「どんな?」
「立位は、当面使わない」
「賢明です」
「……学習は、まだ可能らしい」
彼は、少しだけ笑った。
勇者が、短く言う。
「焦るな」
「……分かっている」
戦士が続ける。
「……足元は、罠が多い」
「……今回は、完全に引っかかった」
澄江さんが、そっと言った。
「転ぶのは、弱さじゃないわ」
誰も、否定しなかった。
記録には、こう書いた。
「転倒後も意識清明。
理解力あり。
指示理解良好。
不穏なし」
それで、十分だ。
高齢者の転倒は、
「本人が一番ショックを受けます」。
できていたことが、
急にできなくなる。
それを、
自分で理解してしまうからです。
賢者は、
自分の失敗を“計算違い”と言いました。
それは、逃げではありません。
受け入れ方の、彼なりの言語です。
転倒は敗北ではなく、
戦い方を変える合図です。
世界は救われていませんが、
骨は折れていません。
それだけで、
今日は良い日です。




