第14話 荒れる夜勤は、敵が見えない
夜勤が荒れる日は、だいたい予兆がある。
風が強い。
気温が下がる。
月がやけに明るい。
そして、申し送りにこう書かれている。
「日中、全体的に落ち着きあるも、夕方より不安傾向」
――来るな。
消灯後、
フロアの空気がいつもと違っていた。
遠くで、誰かの声がする。
ナースコールが、普段より早い。
「主任、ちょっと嫌な感じしません?」
夜勤の職員が小声で言う。
「するね」
否定しない。
こういう勘は、だいたい当たる。
最初に鳴ったのは、別の居室だった。
「帰る」
「迎えが来る」
「ここじゃない」
定番だ。
対応して、戻ってきた頃。
ピン。
例の四人部屋。
「来たな」
桐原正志さんの声が、カーテン越しに聞こえた。
「はい、来ました」
私は即答する。
「外が、騒がしい」
「風です」
「……風か」
「春一番です」
「敵の動きが活発だな」
否定しない。
水野澄江さんは、少し呼吸が浅くなっていた。
「……眠れないわ
「大丈夫ですよ」
「嫌な夢を、見そうなの」
「ここにいます」
声かけを、少し多めにする。
その時。
ピン、ピン。
連続でナースコール。
「修造だ」
「はい」
賢者は、目を開けたまま天井を見ていた。
「計算が、合わない」
「何のですか」
「全体の流れだ」
夜勤で一番厄介なやつだ。
「今夜は、想定外が多い」
「そうですね」
「だから、眠れない」
「では、起きて考えますか」
「……それは、本末転倒だ」
理屈は合っている。
さらに奥から、低い声。
「……後ろが、騒がしい」
忠夫さんだ。
「何が聞こえます?」
「……足音が多い」
「巡視の音です」
「……なるほど」
少し、力が抜けた。
一気に来た。
ピン。
ピン。
ピン。
ナースコールが重なる。
夜勤者が、こちらを見る。
「主任……」
「優先順位つけよう」
声は、いつもより低く。
「この部屋は、今は保つ」
「はい」
保つ、という表現が、妙にしっくり来た。
部屋に入り、全員に声をかける。
「大丈夫です。全員います」
「欠けは?」
「ゼロです」
「……なら、布陣を維持」
布陣と言っても、
誰も動かない。
動けない。
でも、視線が揃っている。
澄江さんが、小さく言った。
「こういう夜、あったわね」
「ありましたか」
「ええ……長かった」
その言葉で、
正志さんの声が少し変わった。
「今は、戻ってきている」
「はい」
「ここは、退路だ」
「そうです」
修造さんが、ゆっくりまとめる。
「不確定要素が多い夜だ」
「はい」
「だが、対応はできている」
「できています」
「……なら、耐えるしかない」
それが、今夜の結論だった。
深夜二時。
フロア全体が、少しずつ静まっていく。
コールは、減った。
風の音も、弱まった。
忠夫さんが、最後に言った。
「……誰も、持っていかれていないな」
「いません」
「……勝ったな」
勝ちの定義が、
今夜はとても分かりやすい。
明け方。
空が、少し白くなった頃。
「夜が、終わった」
桐原さんが、静かに言った。
「はい」
「損耗は?」
「ありません」
彼は、目を閉じた。
「なら、成功だ」
記録には、こう書いた。
「夜間不穏強め。
声かけ・見守りにて落ち着き。
大きなトラブルなし」
それ以上は、いらない。
世界は救われなかった。
でも、夜は越えた。
荒れた夜勤としては、
それが最大の成果だ。
夜勤が荒れる日は、
理由がはっきりしないことが多いです。
天候、気圧、疲労、季節。
どれも決定打にはならない。
だから現場では、
「今、ここにいる」
それを何度も確認します。
否定しない。
説明しすぎない。
離れない。
それだけで、
夜は少しずつ明けていきます。
世界は救われていませんが、
今夜も、全員戻ってきました。
それで十分な夜勤でした。




