第10話 職員は、世界を知らないまま回している
朝の申し送りは、戦後処理に似ている。
「夜間、コール一回。導尿バッグ確認のみ」
「転倒なし」
「不穏行動なし」
ホワイトボードに並ぶ文字は、今日も平和だ。
「……あの部屋、ほんと静かですよね」
早番の職員が、少し不思議そうに言う。
「そう?」
「だって、要介護度高いのに」
私はコーヒーを一口飲んでから答える。
「世界観が一致してるから」
「世界観……」
それ以上は説明しない。
説明すると、逆にややこしくなる。
食堂では、新人が勇者を見て小声で言う。
「主任、あの人、いつも指示出しますよね」
「出すね」
「でも、ちゃんと従いますよね」
「従う前提の指示だから」
勇者の指示は、
「誰かがやる」ことが前提だ。
自分でやらない。
やれない。
でも、流れは分かっている。
扱いやすい。
入浴介助後、
別の職員が言う。
「あの“転送陣”、最初ちょっと笑いました」
「今は?」
「今は……便利です」
それでいい。
呼び名は、
安心につながれば何でもいい。
ナースステーションで、
看護師がカルテを見ながら呟く。
「桐原さん、今日も“異変”って言ってたけど」
「尿量のことです」
「ですよね」
通じる。
それが一番助かる。
午後、カンファレンスの資料をまとめていると、
若手がぽつりと言った。
「主任……この四人、仲良すぎません?」
「長い付き合いだから」
「家族より?」
「たぶん」
誰にも確かめようがない。
夕方、フロアが落ち着いた頃。
「主任」
「なに?」
「……あの人たち、本当に認知症なんですか?」
少しだけ、間が空いた。
私は、正解だけを返す。
「診断上は、そう」
「でも……」
「でも、対応は変わらない」
それが、現場の結論だ。
退勤前、
職員同士でこんな会話が交わされる。
「今日も平和でしたね」
「世界は救われてないけど」
誰かが冗談めかして言う。
「転倒ゼロですし」
「じゃあ、勝ちですね」
全員が、うなずいた。
居室の前を通ると、
中から声が聞こえた。
「今日の布陣は、悪くなかった」
「ええ」
「……後ろも、安定している」
「次も、この形で」
私は聞こえないふりをして、
記録室に戻った。
世界のことは知らない。
でも、今日の現場は回った。
職員としては、
それ以上の成果はない。
職員回では、
「知らないまま回す」という立場を書きました。
介護の現場では、
真実を解き明かす必要はありません。
必要なのは、
今日を無事に終わらせること。
世界を救ったかどうかは分からなくても、
転倒がなければ、
食事が終われば、
夜が静かなら。
それで、仕事としては成功です。
世界は今日も救われていませんが、
シフトはちゃんと回りました。
それで十分な一日でした。




