第1話 俺が人生を諦めたきっかけ
「彼女が欲しいか」と問われれば、生物としての本能はイエスと答えるだろう。
だが、理性が全力で警鐘を鳴らすのだ。”それはあまりにリスクが高すぎる”と。
現代社会において、恋愛とは敗北が約束された無理ゲーだ。
金も時間も吸い取られ、挙句の果てに「生理的に無理」と切り捨てられる。
それだけならまだいい。最悪なのは、たった一つの嘘で人生が詰むことだ。
痴漢冤罪、DVの捏造、被害者ムーブ……。
女がその気になれば、男を社会的に抹殺することなど造作もない。
口約束の合意なんて紙切れ以下だ。「やっぱり嫌だった」の一言で、俺たちは犯罪者に仕立て上げられる。
そんな地雷原を、わざわざ全裸で歩くバカがどこにいる?
だから俺は、恋愛という市場から早々に撤退した。
それに何より、この世は残酷なほどのルッキズム社会だ。
鏡を見れば、そこには脂ぎった肌に眼鏡をかけた、典型的な「チー牛」が映っている。
覇気のない死んだ目、整える気力もなくヘルメットのように張り付いた髪。
誰が見ても「うわ、キッショ」と顔を背けるような、弱者男性の完成形。
世の中の勝者たちは口を揃えて「努力不足だ」と言う。
だが、あいつらは知らないのだ。
生まれ持った顔の骨格や遺伝子という「初期ステータス」で、俺たちがスタートラインに立つことすら許されていない事実を。
努力でカバーできる?
笑わせるな。第一印象で「生理的に無理」というフィルターにかけられた時点で、俺たちの努力はゴミ箱行きだ。
成功者の言う”努力”なんて、たまたま環境と才能に恵まれた奴が吐く、生存者バイアスまみれの戯言に過ぎない。
だから俺は、期待するのをやめた。
息を潜め、誰の目にも留まらないように、ただリスクを回避して生きる。
それが、牛久チーという底辺人間に残された、唯一の生存戦略だったはずなのに――
「きゃ~~!この人が私の胸触って来た!ひどい!」
……どうしてこうなった?
◆
とある日のことだ。
俺は休み時間、トイレから教室に戻る途中のことだった。
丁度、廊下の曲がり角を抜けた瞬間、俺はとある女子生徒と肩がぶつかった。バランスを崩した女子は、後ろ向きに転倒し、その場に尻もちをつく。
「いったぁ……」
どうやらスマホをいじりながら歩いていたようだ。良いもんだな、俺はスマホなんて没収されて使えないのに。羨ましいもんだぜ。
にしても、こいつ見たことあると思ったら、いつも教室でうるさいから嫌でも名前くらいは知っている。魏屋琉だな。嫌な奴と関わってしまった気がする。
こいつは男嫌いというか、オタクやチー牛には当たりが強く、スポーツ男子やイケメンには媚びを売るようなやつだ。
こいつは床に座ったまま、俺をまるで敵かのように睨んでくる。今のは俺は悪くねえだろ。スマホでよそ見してたお前が悪い。睨んでくんなよ。
ていうか関わったらまずい奴だと思い、俺はそのまま立ち去ろうとするが……
「ちょっと待ってよ、謝らないの?」
「は?」
明らかにお前が悪いのに「え?私女ですけど」みたいな感じで文句を言ってきた。俺がひ弱なチー牛だからと舐めてきてやがる。もしヤンキーみたいな容姿だったら、今のように突っかかっては来ないだろう。
異様な雰囲気を感じ取ってか、近くの教室からざわついた声が漏れ始める。扉を開けて顔を覗かせた生徒たちが、一人、また一人と、廊下に出てきた。その目が、全員俺と魏屋琉に向いている。視線が怖い。注目されるのはキツイ。
俺は絶対に悪くない。冤罪回避のためにも謝るわけにはいかない。こういう時はどんなことがあっても自分の非を認めないのが……そもそも俺悪くねえだろ!ぜってえ負けねえ。俺は再び立ち去ろうとした。しかし。
「きゃ~~!この人が私の胸触って来た!ひどい!」
は?俺は一瞬、視界が真っ白にぼやけて、髪が逆立つような感覚に襲われた。今の魔法の言葉で俺の人生が……俺は怒りと焦りのあまり、魏屋琉に近づいて言い返した。
「は?てめえマジで――」
「怖い!みんな見た?また触りに来た!」
魏屋琉は胸を押さえて周りに叫びながら、すぐに後ずさった。そして周りの目は、完全に俺を”敵意の持った視線”で見つめてくる。加害者は俺だと断定している。そして魏屋琉を見て「可哀そう」だと憐れみの目を向けていく。
確信した。これはどうあがいても詰みだ。もはやこうなれば、何を言っても誰も信じてはくれない。男性は加害者、女性は被害者というステレオタイプが浸透しているこの世界で、覆すのは不可能だ。
それに俺はチー牛、明らかにやらかしそうなのは、誰がどう見ても俺だ。心臓の鼓動が鳴りやまない。目の前がまたぼやけてくる。
「あいつって確かいつもしゃべらねえ陰キャの牛久じゃね?」
「こいついかにもやりそうな顔してるよな」
「うわ、こっち見た、きっしょ」
「さいって~」
「チー牛ってやっぱり危険だな」
周りは口々に好き勝手言っている。
怖い!やめろ!見るな!
もう俺の社会的地位は、いや、人生そのものが終わりを告げた。俺はせめてもの思いで、最後に魏屋琉を思いっきり睨みつける。
睨み返されると思っていなかったのか、彼女は一瞬ビクッと身を震わせたが、すぐに口元は笑みを含み、勝ち誇った顔で舌をちょこっと出してきた。
こいつ……俺の血管が千切れそうなほど、憎悪と怒りが湧いた。だが、現実は残酷で、俺がこいつに復讐する手段は無い。世の中、やったもん勝ちだからだ。
いや……あるにはある。俺は今この瞬間、すべてを失った。すべてを失った今なら、こいつを殺して、自分自身も終わらせることができるんじゃないか?
俺は文房具マニアで、常にポケットにペンや消しゴムなどを常備している。俺はポケットから、カッターを取り出そうとした。
こいつの腐った脳と顔をぐちゃぐちゃにして殺して、俺も死ぬ。だがその瞬間だった。
「てめえ魏屋琉に手だしてんじゃねえぞ!」
俺の頬に重い何かが直撃して、一瞬視界が揺らぎ、猛烈な痛みが襲ってきた。……少し遅れて、俺は殴られたのだと分かった。脳が揺れる感覚に、気持ち悪くなる。
俺はそのまま廊下の床に倒れ込んで、呆然としていた。殴られた痛みに歯を食いしばる。少しめまいもする。口の中に、血の味が広がる。
こいつ、急に殴ってきやがった?この令和の時代に何やってんだこいつは。俺は誰かと思って、殴って来た奴に視線を移す。……ああ、棒緑か。こいつは学年一のやんちゃって感じの見た目をしてる。
そう言えば、こいつと魏屋琉は仲が良かったな。俺の女に何すんだ的なノリで殴って来たのか。
目を吊り上げて俺に再び近づいてくる棒緑を、その他男子生徒が止め始めた。
「やめろ、これ以上やったらお前が処分受けるぞ!」
「さすがにまずいって!こんなチー牛ほっとけよ!」
「ダメだ、俺の気が収まらねえ、もう一回殴らせろや!」
棒緑は必死に止めてくる男子を振り払おうと腕をブンブンと動かしている。その視線はまっすぐ、獲物を逃がさないかのように、俺を定めている。
……なんなんだよ、この状況。ああ、俺って、生まれた時から、詰んでたんだ。親も、育った環境も、容姿も、遺伝子も、全てがゴミ同然で、誰もがそんな俺を笑っている気がして。
イライラ、悲しさ、憎悪、恵まれたやつへの嫉妬――もういろんな感情が渦巻いて自分でも訳が分からない。
「おい、お前ら何してる~、教室戻れ~」
すると、教師が声掛けを始めて、みんな自らの教室へと戻り始めた。棒緑もチッと舌を鳴らして、俺を一瞬睨んだ後、おとなしく教室に戻っていく。
俺ものろのろと立ち上がり、自分の教室――ではなく、こっそりとばれないように、階段を降り、学校を出た。今の俺は多分、生気もないうつろな目をしているだろう。
まだ道路に日が差す明るい中、まるでゾンビのようにゆっくりとただ、帰り道を歩いていた。
◆
俺は重い足取りで家に帰って、リビングにも洗面所にもいくことなく、真っ先に自分の部屋に行く。
親に相談?できるかよ。なんでやり返さないとか、鍛えろとか、どんくさいとか、そんなこと言われておしまいだ。
てか、誰かに相談してどうにかなるなら、みんなやってるだろ。さすがに、自分でも運が悪すぎると思うわ。
こんな世の中で生きてて何が楽しい?希望なんてものはどこを探しても見つからない。部屋の隅に置いてある、唯一の癒しのゲーム機を見ても、今はやる気が起きない。
俺は今、死のうとしてる。怖いさ、死ぬのは。でも、生き続けるのはもっと怖い。これ以上、何かを奪われる未来のほうが、よっぽど地獄だ。
それなら、いっそ楽になって、イケメンに生まれ変わったほうがコスパがいいだろ?
最後くらい、ちゃんと行動しよう。俺は覚悟を決めて、足元の支えを外した。
一瞬で世界が反転するような衝撃。喉が焼けつくように熱く、呼吸が強制的に遮断される。
苦しい、痛い、怖い……!
だが、薄れゆく意識の中で、それ以上に――腹の底から、どす黒い闇のような感情が吹き上がってきた。
なんで俺だけが?
魏屋琉、棒緑、俺を笑った奴らはのうのうと生きてる?
死んで楽になる? 違う。あいつらが許せないだけ。
力が欲しい……あいつらを、理不尽な世界を見返せる力が……!
視界が暗転し、俺は最期までこの腐った世界を睨みつけながら堕ちていった。
◆
「さすがにかわいそうだし、その願い叶えてあげよう」
は?何の声だ?願いを叶える?何の話だ?視界は真っ白で何も見えない。声だけが聞こえる状況。俺の意識に語り掛けている?死ぬ前の走馬灯ってやつ?
「いいからいいから、さすがに私も君の人生を見て同情するよ。だから、特別に、君を今から生まれ変わらせてあげよう。君のその絶望は力となる」
いや誰だよ!
「誰でもいいじゃん。ただし、怒りや憎悪には飲まれないでね。あ、時間ないからまた今度。じゃあ、またね」
おい!てかどこだよ!意味わかんねえよ!誰だよ!天国か?神か?何なんだよ!って、意識が、また、無くなってきて――。




