ご近所さん
昔、アパートに住んでた時の話。
そこは木造の3階建で、各階に3部屋という構成だった。
俺はちょうど真ん中の部屋に住んでて、
他の住民とは顔合わせたら挨拶する程度の仲だった。
駅から近いし、家賃は安いし、
独身なので部屋が狭いと感じた事はなかった。
とまあ平和で快適な一人暮らしをエンジョイしてたんだけど、
上の部屋に越してきた中年女性(以下、302と呼ぶ)が最悪だった。
302が来てから1週間くらい経ったある日、
仕事から帰ってくると、そいつが俺の部屋の前に立ってた。
しかも明らかに不機嫌そうな顔してて、
あれ、俺なんか怒らせるような事したかな?
とか思いながら、とりあえず挨拶してみたわけよ。
すると302が開口一番、
「タバコ吸うなよおおお!!!」
って建物全体に響き渡る大声で叫んだもんだから、
驚いた俺は思わず後ずさり、頭の中真っ白になって固まってた。
で、302の叫びは他の部屋の住民にも当然聞こえてたわけで、
なんだなんだと言わんばかりにドアから出てきて、こちらの様子を窺った。
そしたら、あ、俺、今すごく注目されてるんだ。って我に返って、
こんなにジロジロ見られて恥ずかしいな〜とか、
俺が悪いわけじゃないけどこんな時間に迷惑だろうな〜とか、
このアパートはべつに禁煙ルールじゃないんだけどな〜とか、
そもそも俺はタバコ吸った事なんて一度もねーよとか思いながら、
「俺は非喫煙者です!」ってみんなに聞こえるように言い返したんだ。
それで終わればよかったんだけど、302には俺の言葉が通じなかったのか、
「洗濯物に匂いが移るのおおお!!!」って言い返してきてさ、
俺も周りもポカーンとした表情になってたね。
俺は「だから俺じゃないですってば!」と反論してみたんだけど、
「うちは夜に干してんのおおお!!!」と、まるで会話にならない。
助け舟を出してくれたのは隣の201号室に住んでる女の子で、
「それ、私かもしれません」と名乗り出てくれた。
彼女はポケットからタバコの箱を取り出して喫煙者である事を証明し、
さらに「202さん(俺)が吸ってるところは一度も見た事ないです」
と付け加えて俺が非喫煙者である事を証言してくれた。
全然タバコなんて吸わなそうな子だから少し意外だったけど、
201さんのおかげで俺の誤解が解けるんだと思うと安心した。
……んだけど、302は「嘘つくな!!こいつに決まってる!!」と返し、
俺たちは再びポカーンとなるしかなかった。
「煙は下から上に行くの!!だから真下に住んでる奴が犯人!!
それに、あんたみたいな若い女がタバコ吸うわけないでしょ!!」
と滅茶苦茶な推理を展開する302。
このババア、風の存在を知らないのか?と呆れる俺たち。
ここで再び助け舟。
今度は102号室に住んでる男性だったので、
それなら302の言う『真下に住んでる奴』という条件に当て嵌まる。
……のだが、「あんたは眼鏡してるじゃない!!」と謎の反論。
え、なんだろう?
眼鏡=真面目=タバコ吸わない……みたいな方程式が成り立ってるのか?
続いて名乗り出てくれたのは203号室の男性。
みんなこれまで顔合わせたら挨拶するだけの仲だったのに、
今は協力して共通の敵に立ち向かってるんだと実感できて嬉しかった。
203さんの姿を見た途端、302は「今度から気をつけなさいよ!」
と急におとなしくなり、そそくさと自分の部屋へ帰っていった。
ああ、203さんの身長は190cmくらいあって、
何か格闘技とかやってそうな体格の持ち主だもんな〜。
それに比べて俺は極めて平凡な体格で、
童顔のせいもあって舐められたんだろうな〜。
ふざけんなよ、ババア!
と、その日のトラブルはそれで終了した。
ちなみに203さんは本当は喫煙者ではないのだが、
場を収めるために喫煙者のふりをしたのだろうと201さんが言ってた。
それから数日もしないうちに302は「上の階がうるさい!!!」
と夜中に喚き散らし、住民たちは「ここは3階建なんだよ!」と反論。
すると「じゃあお前が犯人だ!!」と、またもや俺をご指名。
もう勘弁してくれと思いながら深夜まで言い争いが続き、
結局、警察が駆けつける事態となった。
ゴミ捨てに関するトラブルもあった。
302のババアは階段を降りるのがよほど面倒なのか、
3階からゴミ捨て場に向かって家庭ゴミをぶん投げるようになった。
それがアパートに隣接する一軒家の敷地を侵害してしまったり、
袋をしっかり縛らないせいで空中分解して道路がゴミだらけになったり、
あのババアは本当に、本当に、本当に迷惑な行動しかしないのだ。
もうやる事なす事の全てがそんな調子なので
住民たちは302にいくら注意しても無駄だと悟り、
何か問題が起きた時は自分たちで解決しようとせずに
アパートの管理会社や警察に丸投げしようと合意した。
それと、また煙がどうのこうので因縁をつけられないように
喫煙者は駅にある喫煙所で吸いましょうという約束が交わされた。
どうせ歩いて数分の距離だし、反対する者はいなかった。
……のだが、しばらくして201さんから妙な話を聞かされた。
どうやらあのババア、喫煙者らしい。
102さんが会社をサボった日に偶然302を見かけたらしく、
彼女はタバコ片手にパチンコで遊んでたそうだ。
その光景を前にしてついブチ切れてしまった102さんは、
「あんたも吸ってるじゃないか!!」と怒鳴りつけたそうだ。
すると302は「私のはメンソールだから!!」と、またまた謎の反論。
もうやってらんねえええええ〜〜〜。
そう思った俺は速やかに荷物をまとめ、
住み慣れた我が家を引き払った。
それから1年ほど新居で何事もなく暮らしてたんだけど、
ある日201さんから電話が来て、俺は背筋が凍った。
彼女によると、302が殺人の容疑で逮捕されたんだってさ。
被害者は料理が趣味でよく台所の換気扇を回してたらしくて、
その排出された空気をタバコの煙に違いないと因縁つけられて、
「やっぱりお前が犯人だったんじゃないか!!」
と、隠し持っていた包丁で全身を滅多刺しにされたそうだ。
事件現場は202号室。
俺が以前住んでた部屋だ。
もう本当に勘弁してくれって感じだよ。
こんな話はさっさと切り上げてしまいたい。
本当にもう、俺にはどうだっていいんだ。
あのババアがその後どうなったかなんて興味ないし、
他の住民が今どこで何をしてるかも知りたくない。
こう言っちゃなんだけど被害者はどうせ赤の他人だし、
運が悪かったね以外の感想が浮かんでこない。
俺はもう何も聞きたくないし、何も話したくなかったけど、
どうにか平静を装って201さんとの会話を続けるしかなかった。
そうしないと何されるかわかったもんじゃないし。
だって俺、この人に連絡先教えてないからね。