アイザック視点
−アイザック視点—
エレノアは、もうずっと、僕にとって特別な存在だった。もともと、従兄弟同士で、母親たちも仲がよかったため、赤ん坊の頃から行き来があった。よちよち歩きで僕の後ろをついてくる、エレノアは可愛かったし、おしゃべりし出して、舌足らずで一生懸命話す彼女も、ずっと見ていたいくらい可愛かった。
僕には男兄弟はいるが、姉も、妹もいない。妹がいたらこんなふうだろうなと、思っていた。その頃は、まだ親愛の情でしかなかった。
侯爵家の教育は3歳ごろから始まるが、勉強の量が増えるのは6歳ごろからだった。僕は、6歳までエレノアのいる侯爵邸に行くことが楽しみだったし、彼女が公爵邸に来て一緒に遊ぶことも好きだった。勉強が本格的に始まっても一年に1、2度兄弟を交えて、みんなで集まる日を待ち遠しく過ごしていたことをよく覚えている。
僕にとって、彼女が特別になったのは、僕が14歳の時だった。13歳になった僕が学園に通い出したその夏の終わりから、王国は凶作にみまわれた。その年は、なぜか夏にあまり気温が上がらず、作物の実りが少なかった、特に北部の穀倉地帯は打撃を受けた。けれども、輸入や南部の備蓄を回すことで、なんとか冬を越せそうだと見通しのついた、秋の終わりに、ハワード侯爵領を水害が襲ったのだ。ハワード侯爵領は、王都に近く、王国の中心部から海に面する南部にかけて縦長に伸びる領地だ。
凶作の被害は例年の2割程度で、輸出入の盛んな土地柄ということもあり、王命により備蓄分の7割程を北部に向けて送った後の出来事だった。
その後も悪天候が続き、輸入船が来ず、疫病などが発生し、飢饉が広がった。
水害発生直後から他領、王室への援助を願い出るも、まともな支援を受けられなかった、ハワード侯爵は領内を駆けずり回りなんとかそれ以上に被害が出ないよう、命が無くならないよう、執政したらしい。
ハワード侯爵の見事な采配で、2年という短期間で、領政は持ち直したが、疫病の収束にはさらに3年かかったようだった。
僕の実家の公爵家は水害が起こってから半年後から金銭的援助を行ってはいたものの、疫病の流行もあって、人の行き来は控えられていた。
僕は、その頃、学園に通いながら、ハワード侯爵家の安全を、1日も早い復興を願うことしかできなかった。
水害が起こってから2年後、少しずつ立て直されて来たハワード侯爵家は、ハワード侯爵は領に残ったまま、侯爵夫人と娘たち、エレノアと3つ下のリリーが春休みに公爵家に遊びに来た。
2年以上あっていなかった従姉妹たちだったが、記憶の中より大きく成長していて、僕は驚いた。特にエレノアは、彼女の持つ雰囲気すらも変わって、落ち着いた、そして理知的な淑女になっていた。どちらかといえば、可愛い子犬のような従姉妹だっただけに、その変化に僕は驚き、彼女のオーラに気圧された。
領地が荒れて、きっと大変だったんだろうと。僕は思った。だけど、どこか陰のある彼女の顔を見て、僕はどうしても心配で、2人きりになった時に、何が彼女にそんな顔をさせるのか聞いてみた。
すると、彼女は、
「わたくし、お父様と一緒に領地を回りましたの。何かできることはないかと思って。けれど、わたくしは無力でしたわ。」
一呼吸置いて、何かを堪えた後
「食べるものがなく、皮だけになってしまった手に、あの虚ろな瞳に、わたくしが与えられるものは、何もなかったのです。」
彼女の話は、壮絶だった。どこに行っても、領民は腹をすかせており、飢えて争っている。そして、領主がやっと手に入った食料を、貴賤なく渡すことのできなかった、無念。不衛生になり、蔓延する病。そこに生まれてくる差別。
視察について行った時に知り合った子供が、腕の中で息を引き取ったこと。
「お父様がおっしゃったわ。全ては、領主の責任にあると。王室を恨んではいけない。他領も恨んではいけない。これからは一層、我々で領を守らねばならない。そして、わたくしは領主になる覚悟があるのかと、問われたわ。」
はっきり言って、王命さえなければ、ハワード侯爵領はもっと持ちこたえただろう。備蓄の7割は流石に多すぎる。他領からは3割程度だったことから、その不平等さにハワード侯爵家が不満を持っても仕方がない。しかし、王命に背くことはできない。
今になればわかる。ハワード侯爵は心底怒っていたのだろう。王家に信を置けなくなったのだろう。だけれど、そう公言することもできず、自分たちの身は自らでしか守れないと、彼女に伝えたかったのだろう。
以前に比べ影のある彼女の横顔に、以前より、ほっそりとした顔色の悪い横顔に、ぎらりと光る瞳がやけに目についた。
「わたくしは、お父様のあとを継ぐわ。いいえ、お父様の後悔を生かしてみせるわ。」
決して大きな声ではなかったが、彼女の決意は電流のようにビリビリと僕を襲った。
3つも年下の彼女が、とっても大人でカッコよく見えた。そして、今まで虚ろだった僕に、初めて現実を与えてくれたようにも思えた。
それまでの僕は、なんでも、適当に、卒なくできた。だから、学園でも、ほどほどにすれば、ある程度のいい成績は取れたし、社交的な笑みを浮かべ適切な会話をすれば誰とでも友達になれた。このまま、間違いなく過ごせば、城に士官して、将来は公爵家の持つ爵位のうちの一つをついで、適当な家の嫁をもらって、家庭を持つのだろうとぼんやりと思っていた。
憂いを持つこともなく。そんなもんだと思っていたのだ。
だから、僕は、その時、そんな甘い自分を恥じたし、同時に彼女に憧れたのだ。本当は、すぐにでも、彼女の領地に行って働かせてもらいたいと思った。けれど、今の学問も中途半ばの自分では邪魔にしかならないことも悔しいけれど良くわかっていた。だから、最短で、学園を卒業しよう。と心に、火が灯った。
それからは、ただひたすら勉強した。領地に活かせそうなことも、そうでなさそうなことも、どこかで、将来エレノアの役に立つかもしれない。人脈作りも腐心しながら、周囲に根回しし、2年スキップした最終学年の頃には長期休みには、ハワード侯爵領で下働きをさせてもらった。
両親は、僕の変化を喜んで、ハワード侯爵家で働くことも認めてくれている。
スキップしたせいで、3つ違いのエレノアとは、1年しか学園生活が重ならなかったけれど、学園でも勤勉に学ぶ彼女を遠目にみるだけで、奮起した。
エレノアは、14の頃から領地のある村を皮切りに、一部領主の仕事を請け負っており(もちろん最終的には侯爵の印がいるものだが)、学業との両立で忙しく過ごしているようだった。この頃は、エレノアは王都で学園に通っており、そこから執務に取り組んでいた。
一方の僕は、他の文官と混じって、領で働いていた。
僕は、時々、会うエレノアに、刺激を受けながらも、いつしか、その美しさに目が奪われるようになった。けれど、彼女には幼少期から婚約者がいた。今、彼女がフリーだったら、絶対に、僕が婚約者候補に名乗りをあげたのに、と何度思ったかしれない。
彼女の婚約者が、彼女への理解がない上に、愚かなところも全く彼女に釣り合っておらず、そのことについて考えるといつも苛立った。
けれど、良いのか悪いのか、彼女は婚約者と過ごすことは、義務的な用以外なく、特別な気持ちも持っていないようだったのが、僕にとってはせめてもの救いだった。
そうして、彼女が16に、僕が19になった時、突然ハワード侯爵が病でなくなった。前兆もなくあっという間のことだった。
それからは、侯爵夫人と彼女が侯爵の仕事を引き継いだ。それと同時に、侯爵夫人に頼み込んで、僕も執事として、侯爵家に仕えることになった。悲しみにくれる暇もなく、執務に励む彼女たちに、ベーカー伯も、ダニエルも手を差し伸べなかった。いや。エレノアならば、戦力にならない手は不要としたかもしれないが、彼らは、形だけの協力態勢すら取らなかった。
だけど、そんなことに気を取られていられないほど、多忙な日々を過ごし、ここ半年ほど漸く体制が整い、後は新法案に法って彼女が叙爵され、名実ともにハワード侯爵領を治めていくはずだった。
そして、婚姻を正式に結び、執務が落ち着いてきたこれから、結婚式の準備に取り掛かり、1年後の挙式にする予定で進んでいた。
僕は、いつしか抱くようになったエレノアへの恋心に婚姻をもって終止符を打ち、敬う主人として仕えようと、ずっと思ってきた。
そして、あの愚かなダニエルのしでかしがあった。僕は、エレノアには申し訳ないけれど、本当に、心の底から喜んだ。彼女はもう誰の婚約者でもない。たとえエスコートであったとしても、あの愚かしい男が、エレノアに触れることは、もう2度とない。
僕は、もう決して彼女を諦めない。彼女の横に僕が一生立てるよう、その権利を得ることができるよう動こうと決めた。
僕の気持ちに気づいていた両親は、僕の勢いに引き気味に応援してくれた。公爵家の力以外にも、最短で婚約破棄の手続きが進むよう、使えるものは全部使った。その早さに、流石にエレノアも驚いていたけど、もう、僕は絶対に君から離れてあげられないと思う。
なぜか頑なに、独身を貫くつもりのエレノアだけど、僕が隣にいてもいいように、彼女に認めてもらわないといけない。先行きはわからないけど、抑える必要のなくなった僕は、今、わくわくしている。