きみのいた夏
小説を開いていただき、ありがとうございます。よければ、少しでもこの世界に浸っていってください。
初投稿なので、拙い部分が多々あると思いますが、生暖かい目で見守って下さると嬉しいです。
1
「次は美瑛、美瑛。お出口は、右側です」
気怠そうなアナウンスが、曖昧に弛緩した意識を現実に引き戻した。
うっすらと目を開く。
ぼやけた視界が鮮明になっていくと、周りの風景が網膜に飛び込んできた。
ところどころ黄ばんでいる、年季の入った緑色の座席シート。
もとは白かったのだろう。しかし少しずつ薄汚れていき、薄茶色に変色した内装。
黒ずんだ床に、無造作に投げ捨てられたスポーツメーカーのボストンバッグ。
調子はずれのクーラーが、耳障りな音を立てて回っていた。
ぼやけかかった自意識が、状況を把握しようと回転する。
そして、自分が今、路面電車の中にいることを理解した。
上体をシートから起こして、背伸びをする。
凝り固まった筋肉が引き延ばされて、少し身体が軽くなった。
大きなあくびをしていると、普段は目にしない光景が、窓の外に広がっていることに気が付く。
「おお……」
思わず声が出てしまったが、無理もない。
行儀が悪いことは承知で、座っていたシートに膝乗りになる。
窓の外には、眩しさを感じるくらいの緑が、広がっていた。
田んぼだ。
大きな四角で区画された緑色の田んぼが、山々の足元まで広がっていた。
そして、憎らしいくらいの青空。
しばらく外を眺めていると、ようやく自分が田舎に来たという認識が、鮮明になっていく気がした。
わけもなく頷き、シートに向き直る。
これから、どんな夏休みが待っているんだろう。
と言っても、遊んでいられるわけじゃないけど。
子どもじみた期待に胸を躍らせていると、電車が緩やかに減速し始めた。
そろそろか。
そう思って、足元に投げ捨てたボストンバッグの中身をもう一度確認した。
「美瑛、美瑛です。お忘れ物、ございませんように、ご注意ください」
ボストンバッグを肩にかけて、ホームに降りた。
周りを確認してみるが、美瑛で降りたのは俺一人だけみたいだ。
やっぱり、田舎だからだろうか。
そう思って、目の前の掲示板にある運行表を確認した。
少し目を通して、驚く。
自分の偏見に満ちた田舎像そのまんまなほど、本数が少ないわけではなかったが、それでも平日は二時間に一本しか電車は来ないようだった。
都会との違いを体感したところで、腕時計を確認する。
二時少し前。
約束の時間には間に合いそうだった。
息を吐いて、改札を目指す。
ホームには、先ほど降りた人もいなければ、電車に乗ろうと待っている人もまったくおらず、もぬけの殻だった。
若干寂しさを感じながら、ホームの真ん中にある改札を目指した。
改札機は一台しかなかった。
それもだいぶ年季が入っているようで、本当に機能するのか怪しい。
それでも、ICカードに対応しているだけましだろう。
カードを触れさせると少し異音を立てながらだが、ゲートが開いた。
周囲を見回してみるも、駅員らしき姿もない。
無賃乗車する輩なんていないんだろうな。
そんな風に思って、改札の外に出た。
駅から出た瞬間、夏らしいギラギラした太陽が、容赦なく照りつけてきた。
今は八月の中旬だから、一番日差しの強い時期だ。
そんなこともあって、肌の弱い自分は日焼け止めを塗っているのだが、
「暑い……」
それでも、かなり日差しは強く、肌を遠慮なく灼いていた。
夏特有の鬱陶しさに辟易していると、
「おーい、もしかして」
誰かの声が聞こえた。
そちらの方に顔を向けると、七十歳近いであろう老人――祖父が手を振っていた。
「新かー?」
祖父の声に頷いて、そちらの方に歩いていく。
「久しぶり」
声をかけると、祖父は嬉しそうに顔をくしゃりと歪めた。
「背が伸びたな。俺よりもう高いだろう?」
その言葉にうなずき、俺も笑顔を返した。
そうすると、祖父は肩にかけていたボストンバッグに手を伸ばした。
どうやら、持ってくれるつもりらしい。
「大丈夫だよ、そんな重くないし」
祖父の手を避ける。十代の若者が、七十代のご老体に荷物を持たせるわけにはいかない。
「そう?遠慮しなくていいんだよ?」
それでも、祖父はボストンバッグに手を伸ばしてくる。
「大丈夫だって。おじいちゃんに持たせられないから」
そうすると、祖父は力こぶを作って見せた。
「まだまだ現役だ」
「無理しないの」
笑うと、祖父も笑顔を浮かべた。
駅前はちょっとしたお店が散見されたが、非常に数が少なかった。
駅前というには、ちょっぴり寂しい感じがする。
「家ってどっちだっけ?」
きょろきょろと辺りを見つつ、祖父に尋ねる。
「ここから南に下ってくんだよ。田んぼ畑の一角にある」
先ほど電車から見えていた田んぼは、南側にあるらしい。
ここに最後に来たのは、もう五年以上も前だから、記憶があやふやだ。
しばらく祖父の後ろについていくと、商店街のような場所についた。
さっきの駅前よりは賑わっているが、どうしても店舗数が限られていて、こぢんまりとした感じが拭えない。
しかし、最低限の生活には困らないであろうと思えるくらいは、お店があった。
「買い物は、いつもここだっけ?」
祖父に尋ねてみた
「まぁ、そうだな。美瑛じゃ、ここぐらいしか買い物できる場所はないからな」
ふんふんとうなずき、近くのお店を覗いたりしていると、一軒だけ、なんだか都会じみたおしゃれなお店が目に入った。
いかにも若い女性が経営していそうな、小綺麗なカフェ。
こんなところもあったっけ?と思っていると、置いて行かれそうになったので、小走りで祖父の方に向かった。
商店街を抜けると、大きな川が見えてきた。
この川には見覚えがある。まあ、名前とかは憶えていないけれど。
それでも、川に大きな橋が架かっているのは憶えていた。
土地の規模的には、少し大きすぎると感じられる大橋。
車道も二車線しっかりと区切られており、不便を感じることはなさそうだ。
小さなころ、誰かに手を引かれて、この橋を渡ったっけ。
この大橋、もとい川によって、駅がある北部と、田んぼだらけの南部を区切っているようだった。
祖父母の家は南部にあると言っていたから、もうすぐだろう。
ちょっと懐かしさに浸りつつ、先を急ぐ。
大橋を渡ると、田んぼ畑が延々と続いていた。
見渡す限り緑色で、夏らしさを演出していると言えばそれまでだが、太陽に照りつけられて、眩しすぎるほどの緑を、視界に灼きつけている。
本当に田んぼしかないように見受けられたが、それでも田んぼの切れ目切れ目に、ポツンと数軒の住宅が建っているのがわかった。
田んぼは、その家の持ち主のものなんだろうか。
その辺はよくわからない。
しばらく祖父は無言で歩を進めていたが、
「そういえば、今何歳だっけ?」
祖父が急に口を開いた。
「今年で十七」
「ってことは、高校ーー、二年生か?」
今年で十七になる年だから、正解だ。
「うん。高校二年生」
そう言うと、祖父はこちらをちらりと見た。
「それにしても大人びたねぇ。さっき会った時、大学生くらいかと思ったよ」
「よく言われる」
普段会わない人に会うと、毎度実年齢より老けて見られてしまう。
老けているというより、祖父の言うように大人びて見えるなら別にいいのだが、やっぱり少し老けているんじゃないかと怖くなる。
「その歳だと、ガールフレンドとか、いるだろう?」
祖父が悪戯っぽい笑みを浮かべながら聞いてきた。
「いや、いないよ」
残念ながら、いたこともない。
「お、意外だなぁ、あー坊にはいそうに見えるんだけどなぁ」
いかにも意外そうな顔つき。
ちなみに、あー坊というのは、祖父の俺の昔からの呼び方だった。
今となっては若干恥ずかしさが拭えないが、訂正する気も湧かない。
バレないように、祖父の方を見やる。
どうやら、話題を探しているようだった。
そんなに、気を使わなくていいのに。
祖父が、俺に気を使っているのは、なんとなくわかった。
それが、少しだけ胸を突く。
恐らく母から、事情を聞いているんだろう。
それが、祖父のよそよそしさの原因になっているはずだ。
ちょっぴり気疲れして、溜息を吐いた。
田んぼ畑の砂利道を歩いていくと、どうやらそれらしい家の前に到着した。
昔ながらの大きな日本家屋。
記憶に覚えもある。
祖父母の家だ。
子どものころの記憶と照らし合わせてみるが、昔感じていた大きさよりも小さく感じた。
成長したということだろうか。
でも、大して大きくなっていない気もする。
そんなことを考えていると、祖父が玄関の引き戸に手をかけた。
ガラガラと、心地よい音が響く。
「帰ったぞ」
祖父が奥に呼び掛けた。
玄関に上がり込むと、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてくる。
「あら、あっくん?あらあら、ずいぶんと背が伸びたのね」
祖母だった。
どうやら料理の最中だったらしく、花柄のエプロンをしている。
「だろ、ばぁさん。俺も見た時驚いたわ」
祖父がうんうんとうなずく。
そうすると祖母が顔を覗き込んで
「しかもかっこよくなって。ちょっと待って、写真撮るから」
そう言って、また慌ただしく奥に消えていった。
なんだか動物園の珍獣になった気分だ。
すぐに、カメラを持った祖母が小走りで帰ってきた。
その後、俺は祖父母に写真を撮られた。
しかし、二人ともカメラの使い方をよくわかっていなかったので、結局俺が全部説明をするという羽目になった。
なぜ撮られたくもない写真を撮られるためにカメラの使い方を教えなければいけないのか。
そうして、俺はようやく遅めの昼食にありつけることになった。
ちゃぶ台の前に座ると、すぐにオムレツが出てきた。
「あっくん、オムレツ好きだったわよね。懐かしいわ」
確かに、オムレツは昔の俺の好物だった。
そして、祖父の得意とする料理でもある。
祖父は昔、レストランで働いていたことがあるから、料理は絶品だ。
今回は俺を迎えに行くため、祖母が作ったようだが。
箸でオムレツを切って、口に運ぶ。
それでも、味付けなどは、なんだか昔を思い出すような懐かしい味がした。
「部活とか何やってるの?」
「何もやってないよ」
中学の頃は運動部に入っていたが、けがで辞めた。
「ええ?運動やってそうに見えるけどな」
「多少、身体は鍛えてるからね」
ほんの少しだが、ランニングと筋トレはしている。
「ガールフレンドいるの?」
先ほどの祖父と、まったく同じ質問。
「いないよ」
段々と質問に返答するのが面倒になってきた。
「意外ね。いそうに見えるけど」
「ばぁさん、俺と同じこと聞いてるぞ」
「あらあら、ごめんね」
「大丈夫」
少しうんざりしてきたが、その後も質問攻めは続いた。
「お、そうだ。荷物を運ばなきゃな」
隣に置いておいたボストンバッグを見て、祖父が言う。
オムレツを食べ終えてからも、祖母との会話に付き合って心底疲れていたから、それは非常にありがたい提案だった。
「部屋まで運ぶよ」
そう言うと、祖父はうなずいて、立ち上がった。
祖父が示したのは、二階への階段だった。
階段は体重で少し軋んだが、それでもしっかりと手入れされているなと感じさせる。
二階も一階と同様にだいぶ広かった。
二人で暮らす分には部屋がいくつも余ってしまうだろう。
案内されたのは、二階の一番端の部屋だった。
「もともとは由美ちゃん(俺の母親)が使っていた部屋だけど、綺麗にしたから大丈夫。好きに使っていいよ」
部屋の扉を開けながら祖父が言う。
ギイ、とちょっと軋んだが、まだマシな方だろう。
開け放たれた部屋を覗き込む。
古めかしい箪笥や化粧台が置かれていたが、部屋自体はだいぶ整理されていて、綺麗と言っても差し支えない。
ここを訪れたのは初めてではないが、なんだか懐かしい匂いがした。
「わかった、使わせてもらうよ」
そう言って、部屋の中に入る。
布団は押入れの中にあるみたいだった。
それと勉強用か、小さなちゃぶ台が置かれていた。
「今日の夕飯は遅めがいいか?」
遅めの昼ご飯を思ってのことだろう。祖父がそう尋ねてきた。
「合わせるから気にしないでいいよ」
実際、オムレツ一つくらいでは腹は膨れない。今すぐにでも、食事はできるくらいだった。
「わかった、いつもだとだいたい六時半だから」
その言葉にうなずき返す。
「それと、これからどうする?」
部屋にかかっている時計を見てみる。
時刻は三時過ぎ。
このまま家にいると延々と祖父母の話に付き合わされそうだ。
「少し外歩いてくる」
そう返すと、祖父は少し残念そうな顔をした。どうやら、まだ話足りないようだ。
だけど、すぐに調子を取り戻して、
「わかった、道に迷わないようにな」
それに返事をして、ボストンバッグを部屋に置いた。
外は、日が傾いてきたこともあって、さっきより多少涼しかった。
それでも、暑いことには変わりない。
額にかかった前髪を避けて、溜息を吐く。
取り敢えず、質問地獄からは逃れられたようだ。あのままだと、こちらが疲れきるまで、質問は続いていたことだろう。
とにかくそれから逃げることばかりを考えていたので、これからどうすればいいのかは、まったく決めていなかった。
左右を見る。
砂利道は家の前から左右に続いていて、右側が前に来たほうだ。
どうしようか考える。
ちょっと考えて、やることもないし、気を取り直して辺りを散策することにした。
ともかく、来た道を引き返してみることにする。
そう思って、大橋の方へ歩き出した。
しばらく田んぼに挟まれながら歩いていると、大橋に辿り着いた。
相変わらず、大きい橋だ。
車の通行自体はあるようだが、今の時点では車の一つも見えてこない。
どちらかと言うと、住宅は橋を渡って北側の方に偏っているみたいだった。南側のこちらでは、あまり見ないかもしれない。
大橋を渡って北へ行こうかと思ったが、道に迷っても困るので、渡るのは控えておくことにした。
引き返そうと思って向き直ると、
「ん?」
視界の端に、周囲と不釣り合いな、大きな建物が目に入った。
二、三階建ての白い建築物。
私見だが、学校のように見えた。
「ふむ……」
少し興味が湧いた。
もしかしたら、ここで初めて同年代の連中に会えるかもしれない。あそこまでなら、迷うこともないだろう。
ちょっぴり期待を膨らませながら、足はそちらの方へ向かっていた。
段々と白い建物が眼前に迫ってくる。
やはり田んぼだらけの周囲には不釣り合いだが、それでも学校があった記憶はないので、新しくできたのだろうか。
そう思ってもう少し近づいてみるが、建物自体は結構古そうだった。自分が知らなかっただけかもしれない。サッカーなんて余裕でできそうなほど大きなグラウンドもある。
もしかしたら、子どもの数は多いのかもしれない。いまのところ、生徒は一人も見受けられないが。
校門の前まで来て、学校名を確認する。
美瑛高校。
「高校なんだ」
独り言ちて、うーんと背伸びをする。
ここに来て、少し体調がいい気がする。空気が綺麗なんだろうか。
腕時計を見る。まだ時間はありそうだ。
もう少し歩いてみようと思って、学校に背を向けた時のことだった。
視界の隅に、何か青いものが映り込む。
不思議に思って、もう一度高校の方に振り返る。
しかし、青いものなど、空くらいだった。
首をひねっていると、今度は青い光を感じ取る。
顔を上げてみる。上の方からだ。
そうして俺は、校舎の屋上に、人影があることに気が付いた。
驚いて、それを凝視する。
髪が肩以上に長い。どうやら女の人のようだ。
なんであんなところにーー
そんな風に思っていると、
女の人が、屋上を囲っているフェンスに手をかけた。
「まさかーー」
そう思った頃には、もう足は動いていた。
校門をひと思いに飛び越え、玄関口に走る。
自殺だ。
直感が、そう告げていた。
頭で考えるより先に、身体が動いている。
止めなきゃ。
そんなたった一つの感情が、身体を突き動かしていた。
幸いなことに、玄関戸のドアは施錠されていなかった。
乱暴に開けて、靴を履き替える間もなく目の前の階段を上った。
屋上は、四階のはずだ。
なりふり構わず猛ダッシュで屋上を目指す。一秒が惜しい。もしかしたら、間に合わないかもしれない。
でも、そんな可能性を度外視して、俺は走った。
息を絶やしている暇もなく、屋上の扉の前に到達する。
勢いよく扉を開けた。
バッと開く視界の中で、女の子――高校生くらいだったーーはフェンスの外側に立っていた。
考えるより前に、言葉が出ていた。
「やめろ!」
俺の声が届いたのか、女の子はこちらに驚いたように振り返る。
青い光。
その光が、女の子の目から発せられていると気付く前に、俺は走っていた。
女の子は、意を決したように、身体の角度を変えた。
やっぱり、飛び降りるつもりだ。
必死に、フェンスを駆け上る。こういう時、どうしてか普段以上の力が出るんだろう。
一瞬でフェンスの外側に出ると、自分が落ちる可能性を考えずに、校舎の縁を全力で走った。
女の子の身体が、重力に負けて、下へ下へと引っ張られていく。
その身体が、完全に落ちてしまう前に、
俺は彼女の左腕をしっかりと掴んでいた。
しかし、女の子の体重に負けて、自分も地面へ落ちそうになる。
ものすごい力が右腕にかかる。
だけど、なんとか踏みとどまることができた。
「やめてよ!なんで止めるのよ!」
宙ぶらりんになった女の子が、怒声をあげた。
「止めるに決まってる!」
歯を食いしばりながら、女の子を引き上げようと、全力で全身に力を入れる。
「離して!」
女の子は身体を揺らして、振り落とそうとしてきた。
「離せるわけないだろ!」
それに耐えながらも、少しずつ女の子が引きあがってくる。
「あんたには関係ないでしょ!ほっといてよ!」
彼女は涙を流し始めた。
それに構わず、胸元まで引き上げた女の子の足を、校舎の縁に着地させた。
フェンスの中に強引に連れ戻している間、女の子はさめざめと泣き続けていた。
それを横目で見つつも、取り敢えず屋上の縁に座らせる。
「なんなのよあんた......あと少しだったのに」
女の子が呪うように言葉を紡いだ。
「あと少しって。やめてよ、そんなこと言うの」
自殺の現場に居合わせたのはもちろん初めてだが、助ける側がこんなに疲れるとは思いもしなかった。
そして、女の子の言葉にうんざりしていると、
先ほどの青い光が頭をよぎった。
そっと、女の子の瞳を覗き込む。
青い瞳。
やはり、彼女の瞳は青かった。
これは、何かの病気なのだろうか。
しかし俺は、その瞳に見とれてしまった。
「ーー何よ、あんたも、おかしいって言いたいの?」
また、恨むような声。
「えーー?」
「私の目よ。ほら、気持ち悪いでしょ?」
彼女の表情が、自虐的なものに変わった。
どうやら、本人はあまり自分の目の色について、よくは思っていないらしい。
「いやーー」
だけど俺は、率直な感想を伝えることにした。
「綺麗だ」
女の子が驚いたようにこちらに振り返った。相当意外だったんだろう。
「ほんと、なんなのよあんたーー」
そう吐き捨てると、
「ーー気持ち悪い」
少し顔を歪めながらも、言葉とは正反対に、笑っていた。
とにかく、彼女が泣き止むのを待った。
少し待つと、女の子の呼吸が落ち着いてくる。
これからどうすればいいのか迷ったが、そこで、彼女の名前を知らないことに気が付いた。
「君、名前は?」
その言葉に、彼女は少し顔を上げた。
「あんたから名乗りなさいよ」
意外と生意気だった。
それでも、こちらから名乗らないと話が先に進まなそうなので、
「広瀬新」
そう告げると、こちらの様子を少しうかがって、
「......水野涼子」
青を連想させる、良い名前だと思った。
その後、何をするでもなく、お互いに無言の時間が過ぎる。
この校舎には、今のところ俺たちしかいないようだ。
だから、飛び降りのことについて知っているのは、俺たち二人だけになる。
そのことに関しては、幸いと言えるだろう。
もし誰かに見られていたら、救急車や警察を呼ばれて大事になりかねない。
そうなることは、お互いにとってあまりいいこととは思えなかった。
このまま放っておくわけにもいかないので、
「家まで送ってくよ」
自宅までは安全に送り届けることにした。
「いいわよ、別に。もう、死のうなんてしないから」
そう、ぶっきらぼうに返される。
「別に信用してないわけじゃないんだ。だって、怖かったろ?」
自分は自殺を実際に試したことはないのでわからないが、それでも、死のうとするには、それなりの覚悟と恐怖があったはずだ。
自殺に必要な心持ち。
あまり想像したいものではないが、よっぽどの感情の動きがなければ、自殺なんて試さないだろう。だからこそ、そこにはよほどの葛藤があったはずだ。
死ぬ勇気と、死ぬ恐怖。
俺には死ぬ勇気はよくわからなかったが、死ぬ恐怖に関しては、想像に難くなかった。
俺の言葉を聞いて、水野はゆっくりと肩を抱いて、小刻みに震え始めた。
やっぱり。
怖かったんだ。
「だからだよ。一人より、二人の方がいいでしょ?」
できるだけ安心させるように声をかける。
水野は、それを聞くと、呆れたように息を吐いて、
「ーー変な奴」
そうつぶやいた。
水野を連れて、高校から出る。
彼女は震えも収まり、落ち着きを取り戻していた。
「家どっち?」
水野に尋ねた。
「月の瀬の方」
「月の瀬?」
知らない地名だった。
それを聞いて、水野は呆れたように、
「大橋渡った先のとこ。やっぱりあんたここの人じゃないでしょ」
やっぱり、すぐにバレてしまうものらしい。田舎は住民同士が顔見知りと聞くが、本当なのだろうか。
「うん。東京から来た」
「どうして?」
その質問が、胸に突き刺さった。
水野は、ただ疑問に感じて質問しているようだった。
「どうしてだろうね」
そう返すしかなかった。
「傷心?ま、なんでもいいけど」
俺の返答に対して疑問を抱かなかったのか、彼女はすぐに興味を失い、俺の先を進んだ。
「羨ましいな、都会。ここと違ってなんでも揃うでしょ?」
結局、水野の家を知らないので、俺は彼女についていくだけになってしまった。
まぁ、それだけでも一人よりが良いかと自分に言い聞かせながら。
「そうなんじゃないかな」
曖昧に返す。
水野にはそれが不満だったようだ。
「何よ、馬鹿にしてる?」
少し怒っているようだ。
よくわからないが、田舎に住んでいる人は、無条件に都会に憧れるという。それが本当なら、逆に自分の住む田舎に対して、劣等感を抱いているのではないだろうか。
その部分を触発してしまったのかもしれない。
「してないよ。ここで暮らしたことないから、よくわからないんだ」
馬鹿にする意図などないことを伝えておく。
「ふぅん、まぁ、そうかもね」
彼女は、そうフワッと返すと、また無言に戻った。
しばらく歩くと、あの大きな橋に辿り着いた。
そこを渡った彼女は、俺が利用した駅とはまた違う方向に歩を進めた。
月の瀬――美瑛の北側は、東側に駅があるようで、俺たちは今、西側に向かっていた。
西の方へ進んでいくと、ちょっとした住宅街に辿り着く。
こぢんまりとした住宅が連立しているが、どちらかというと今風な建物が多く、美瑛でも若い層が住んでいるんだと予想させた。
その住宅街を抜けると、一軒の大きな日本家屋――もといお屋敷――が見えてきた。
祖父母の家とはまた比べられない大きさだった。
映画で初めて見たような豪邸だ。
「ここが家?」
まさかと思いつつも、確認を取る。
「そう。何?珍しい?」
都会に住んでいる身としては、とても珍しい。こんなもの、実際に目にするのは初めてだ。
「いや、お屋敷なんて初めて見たよ」
そう返すと、水野はつまらなそうに、
「田舎じゃそこまで珍しくないわよ。土地安いし」
「そっか」
無言の間が、二人の間に落ちた。
「ここまででいい」
そう、ぴしゃりと告げられる。
もともと、家の目の前まで送り届けるつもりはなかったので、この場で解散することにした。
「わかった。じゃあーー」
そう言って、別れを口にしようとしていた時だった。
目の前の門が開いた。
その扉に手をかけているのは、俺の母親と同じくらいの年齢であろう女性だ。
その女性がこちらに気が付いた。
「あら、涼子。お帰りなさい」
水野の顔が、驚きに変わった。
なんとなくだが、女性は水野の母親な気がする。目の色は流石に違っていたが、雰囲気が似ていた。
女性は、水野の隣にいる俺の存在にも気が付いたようだ。
しかし、なんだか訝しげにこちらを睨んでいる。
「その方は?」
水野に尋ねているらしい。
女性は、どこか怒っているように見えた。
しかし水野は、自殺のことがあったからか、言いよどんでいる。
仕方なく、助け舟を出すことにした。
「涼子さんが道で倒れてて、介抱したんですよ。貧血みたいだったから、自宅まで送るって言ったんです」
水野がこちらをバッと振り返った。かばったのが、かなり意外だったらしい。
女性が、こちらをじろりと睨んだ。
「それは。どうもありがとう」
その言葉は、どこか皮肉めいて聞こえた。
「だけどもう結構よ。お帰りなさって」
俺が言うのもなんだが、自分の娘を介抱した人間に対しての言葉ではない。
「お母さん!」
流石に失礼だと思ったのか、水野が怒ったように注意した。やはり、女性は水野の母親のようだ。
だけど母親は、水野を睨んで、
「わかっているでしょう?今がどういった時期か。あまり外を出歩くものじゃないですよ」
水野が唇を噛んだ。
彼女の母親の言っている意味は、よくわからなかった。
このまま居続けても邪魔になりそうだったので、そろそろお暇することにした。
「それでは失礼します。体調、気を付けてね」
それだけ告げて、俺は二人に背を向けた。
水野は最後、何か言いたそうな表情を浮かべていたが、そのまま押し黙った。
色々複雑な家庭らしい。
振り返ることもなく、お屋敷を去った。
しかし、
「家、どっちだっけ?」
水野についてきただけだから、帰り道がわからない。
もう一度屋敷に戻って、道を尋ねようかと思ったが、また険悪な雰囲気になりそうなので、自力で帰ることにした。
まったく、忙しい日だ。
そう思いながら、とにかく来た道を引き返してみた。
祖父母の家に到着することには、もう日が落ちてしまっていた。
引き戸を開けて、溜息を吐く。結局一時間以上迷ってしまった。
引き戸の音に気が付いたのか、奥から祖母が慌ただしくやって来た。
「どうしたの?道に迷った?」
まったくその通りだった。
「ちょっと迷った」
靴を脱ぎながら、そう応えると、奥から祖父まで現れた。
「大丈夫だった?」
純粋に心配してくれていたみたいだった。
申し訳ない気持ちになりながら、
「うん。心配かけてごめん」
とにかく謝った。
それから、俺は遅めの夕食を摂り、促されるまま、一番風呂までいただいた。
自室に戻ることには、もう九時近くを回っていた。
自室に入って、すぐにちゃぶ台の前に座って、大きく息を吐く。
とんでもない一日だった。
都会から越してくれば、飛び降り未遂に遭遇して、
こんな非現実的な出来事は、今後は起こらないだろうが、やっぱり気疲れが尋常ではない。
慣れないことというのは、精神を疲弊させる。
それ以上に人の生命が賭かっているとなれば、なおさらだった。
少し重たい頭を抱えて、早めに眠ろうかと思ったところで、
部屋の端に置き去りにされているボストンバッグが目に入った。
それを見て、自分の仕事を思い出す。
「今日ばかりは休みたいけどな」
そうも言っていられない。
ボストンバッグを開いて、中から各科目の問題集を取り出す。
バッグには衣服なども入っていたが、一番の体積と質量を誇っているのは、この勉強道具たちだった。
まず、それらを持ち上げて、ちゃぶ台の上に置く。
すべてに目を通すのは時間的に不可能なので、重要教科に絞って行うことにする。
英語からにしよう。
そう思って、問題集を開いた。
一時間ほど、それらと向き合っていたが、
どうしても、集中できなかった。
シャーペンを卓袱台に放って、天井を見上げる。
暖色の豆電球が、ぶら下がっていた。
それを見つめていると、今日の出来事が脳裏を駆ける。
飛び降り自殺をしようとしていた女の子。
その子の、まばゆい青の瞳。
あの透き通った青さが、胸を締め付ける。
どうして、自殺なんてしようと思ったのだろうか。あんなに綺麗な瞳を持つ女の子が、どうして。
よく考えてみれば、自分の行動も大胆だった。
少しでも間違えば、俺だって地面に落ちていたかもしれない。
自分のことを冷静だと思っていたが、意外と熱い一面もあったようだ。
しかし、俺の思考を埋めるのは、
あの行動が、果たして正しいことだったのか、ということだ。
水野は、死んでもいいと思えるくらいの闇を抱えて、自殺を敢行したはずだ。
捉え方によっては、俺がその邪魔をしてしまったともとれる。
世界から消えてしまいたいという思い。
それは、どれほどの諦念を重ねれば、辿り着くものなんだろうか。
そこまで考えて、頭を振って、思考を中断した。
考えても仕方ない。人命救助は人命救助だ。間違いなはずはない。
これ以上思索にふけっていてもうつになりそうだったので、布団を敷いて、眠ることにした。
布団に横たわると、慣れないことをしたせいか、すぐに睡魔が襲ってくる。
もう二度と、あんな場面に出くわしませんように。
そんなことを考えていると、まもなく意識は消沈した。
2
明くる日の目覚めは、それはもう憂鬱なものだった。
眠ることはできたものの、どうしても眠りが浅かったようだ。
あくびを絶やさないまま、祖父の用意した朝食に手を付ける。
「そういえば、昨日はどうして迷子になったの?」
祖父が尋ねてきた。
どう答えるべきか、しばし迷う。
まさか自殺しようとしていた女の子を、家まで送り届けたなど、口が裂けても言えない。
「ちょっと遠出したら、道がわかんなくなった。下手なことはするもんじゃないね」
普通に迷子になったことにした。別に無理矢理な言い訳ではないだろう。
「迷ったら、人に聞くといいよ。みんな親切だから、広瀬さん家ってどこですかって聞けば、教えてくれるよ」
祖母がそう優しく語りかけてきた。
「わかった。でも、もう迷わないようにするよ」
嘘をついたことに多少の罪悪感を覚えながら、朝食を平らげた。
朝食を終えて自室に戻ったところで、これからどうしようか考えた。
すると、ちゃぶ台の上に散らばった問題集が目に入る。
昨日は、集中できなかったからな。
課題を溜めてしまっては、元も子もない。
まずは、問題集にできるところまで手を付けることにした。
予想外にも、集中は続いた。
昨日の影響で、まだ集中力に支障をきたしているのではないかと思ったが、存外、自分の精神面は今まで色々あったからか強靭だった。
最終的には、昼ご飯を挟んで夕方ごろまで、勉強は続いた。
窓の外が夕焼け色に染まり始めて、ようやく休憩を取ろうという気になる。
飲み物でも飲もうかと、一階へ行こうと思った時、
昨日の風景が脳裏をかすめた。
夕日に揺れる青い瞳。
それを想起した瞬間、
今が昨日のあの事件と同じ時間帯であることに気が付く。
もしかしたら、
もしかしたらだがーー、
思い立って、部屋着から外着に着替え始める。
高校に、行ってみよう。
それは、微かな予感だった。
あの子が、また高校を訪れているのではないかという。
昨日で懲りたように見えたが、可能性の一つとして、もう一度自殺しようとして、高校に来るかもしれない。
それだけは、防がなければならないと思った。
「ん?どこか行くの?」
外着に着替えて降りてきた俺を見て、祖父が聞いてきた。
「ちょっとね。散歩だよ」
また嘘を吐いた。あまり心地いいものではない。
「道に迷わないよう、気を付けてね」
祖母の心配が、胸に痛かった。
「うん。ありがと」
そう返して、家を出た。
外の空気は、昨日に比べて、さらに澄んでいるように感じた。
これが、この土地に慣れてきた、ということにしておきたいが、二日三日で慣れるものではないだろう。
いまだに、田舎の空気を美味しく感じているということなのだから。
美瑛高校に向けて、歩を進める。
流石に高校までの道のりは覚えたので、下手に道を外れなければ、迷子になることはないだろう。
夕日に照らされた稲穂が、黄金に煌めく。米の種子をつけた穂首が、風に揺られて爽やかな音を立てた。
そんな風景に囲まれながら、水野のことを考える。
なぜ、自殺なんてしようと思ったのか。
それは、あの青い目に関係しているのだろうが、いじめなどに遭っているのだろうか。
もしくは、昨日の母親の態度。
ひいき目に見ても、親子仲が良好、とは言えないのではないか。
それも、自殺に関係しているのか。
今のところはわからないことだらけだ。
だけど、まだ自殺するような気があるのなら、
一度止めた身として、どうしても止めさせなければならない気がした。
すると、視界に白い校舎が見えてくる。
昨日の現場、美瑛高校だ。
見たところ屋上に人影はないし、救急車などが来ている様子もない。
やはり、杞憂だったかーー
そんな風に思って、引き返そうと思った時だった。
きらり
校舎の正門前に、青い光を感じた。
ハッとして、そちらを注視する。
髪の長い女の子が、校門のフェンスに背中を預けていた。
間違いない。
俺は、意を決して、彼女の方に近づいて行く。
「水野」
「遅い」
彼女は、待ちくたびれたように背伸びをした。
ここで、率直な疑問を尋ねることにする。
「どうして来ると思った?」
どうやら、自殺というわけではないようだ。明らかにこちらを待っていたように思える。
水野はこっちをちらりと見て、
「あんただったら、そうすると思ったから」
そう答えた。
「どうせ、また自殺したりしないかな、とか思って、確認しに来ると思った」
完全に思考を読まれていた。
「ふぅん」
気のなさそうな返事を返しておくが、昨日少し話しただけで、そこまで人の行動形態を読むことができるのは、特殊な才能としか思えなかった。
「来なかったら、どうするつもりだったの?」
俺が来ないという可能性も、彼女の中にはあったはずだ。
「来るっていう、そんな自信があったから。まぁ、日が暮れたら帰ってたと思うけど」
「まさか午前中からいたの?」
俺の驚きに、水野は肩をすくめた。
「さぁ、どうでしょうね」
それを聞いて、本当に午前中から待っていたことを悟り、とても申し訳ない気持ちになった。
「それは悪いことをした、謝る」
素直に謝った俺を見て、水野は目を丸くして、おかしそうにクスリと笑った。
「やっぱり、変な奴」
反応が意外だったが、笑った彼女は、夕日の背景によく合った。初めて笑った顔を見たからかもしれないが、水野には笑顔が似合う気がする。
「それで、どうして俺を待ってたの?」
涼子は校門から背中を上げると
「昨日のこと。ちょっと聞きたいことがあって」
「何?」
水野は少しこちらを見据えた後、
「どうして話さなかったの?」
「なんのこと?」
「私が死のうとしてたこと。どうしてお母さんに言わなかったの?」
「言ってほしかった?」
水野は、小さく首を横に振った。
「なら、それでいいじゃないか。何も間違ったことはしてない」
そうだ。間違ったことはしていないはずだ。
それを聞いて、水野は少し辛そうに視線を下に向けた。
「お母さんが出てきたとき、あ、自殺のことバレちゃうって思った。もうそんなことさせないように、親にあったことを話すと思った」
その可能性も考えたが、親の態度を見て、言うべきではないと感じた。なんとなくだが、そっとしておいた方がいい気がしたのだ。
「だけど、あんたは言わなかった。それは、どうして?」
少し考えた後、
「あの場では、そう答えるのが正しいと思ったから」
本当に正しいかどうかなんてわからない。でも、人は自分の選んだ選択肢を信じることしかできない。
水野は俺の瞳を覗き込んだ。その青い瞳は、考えていることすべてを見透かすような、そんな不可思議さを感じさせた。
満足したのか、彼女は息を吐いて、視線を外した。そして、橙色に染まった空を見上げて、ポツリとつぶやく。
「私ね、大人になりたくないの」
直感で、この言葉には、表面的に捉えられる意味以上の想いが込められているのを悟った。
「でも、誰だっていずれは大人になるよ?」
子どもは、子どものままではいられない。いずれ、大人にならなければいけない。
「そうね。だけど私は、大人になりたくない。誰かの言うことを聞いて、それにしたがい続ける人生なんてまっぴら」
その言葉は、俺の人生そのものを表しているように感じた。
親の言いなりになって、勉強し続ける毎日。
そこに疑問を感じても、そんなもの感じていないように気丈に振舞う。
それが、正しいことだと思っているから。
たとえ身体が、心が崩れても、従い続けるのが正しいとあきらめているから。
俺は、奴隷なんだろうか。
誰かに従い続けることが楽だから、奴隷に甘んじているのだろうか。
「だから私は、子どもで居続けるために、死のうと思ったの。最期のワガママとしてね」
「でも、死ぬ以外の方法だって」
そうだ。死ぬ以外の方法だってあるはずだ。彼女の事情は知らないが、自死する以外で解決することも不可能ではないはず。
それを聞いて、水野は悲しそうに笑った
「子どもはね、大人と違って無力なの。子どもも、大人にならなきゃ、大人とは対等にならないのよ」
「無力......」
過去の自分を反芻する。
親に、学校の教師に、立ち向かったことはなかった。
どうしてか。
勝てないとわかっているからだ。
子どもは、大人には勝てない。
水野は、それをどうやって覚えたんだろうか。
それでも、従い続けるのは嫌だから、抵抗のために自殺を選ぶ。
自殺が決して正しい解決策ではないとわかっていても、俺にはそうやって、自分より強い相手に立ち向かう彼女の姿が、勇敢なものに映った。
「だからさ、責任取ってよ」
「責任?」
「私を止めた責任」
「そんな無茶苦茶な......」
「別にお金を払ってって言うわけじゃないわ」
「じゃあ、何しろって言うのさ?」
水野は一度目を瞑り、ゆっくりと、でも確かに開いた。
「この夏の間、私を子どものままでいさせて」
一陣の風が、俺と彼女の間を通り抜けた。
その言葉は、俺たちの関係を決定的にする力を持っているようだった。
「それはどういう......?」
「この夏だけは、まだ子どもでいたいの」
真剣さがひしひしと伝わってくる青い瞳。
水野が冗談でこう言っているわけではないのは、十分にわかっている。
夏だけは、子どもで。その願いは、どこか儚げだが、確かな光を伴っているように思えた。
子どもでいたいという思い。それは、俺がどこかで見失ってしまったものじゃないのか。
俺に持っていないものを、彼女は見つけていた。
生命を賭けても守りたいという意味が、そこにはある。
俺は、気がついた頃には、その思いに共鳴していた。
「わかった。いいよ」
この一言が、自分の運命を大きく変えた気がした。
俺の答えを聞いて、水野は嬉しそうにうなずく。
「それで、具体的に何をすれば良いんだ」
子どもでいたい、というのはあまりにも抽象的すぎて、捉えどころがない。
水野は少し考えるそぶりを見せて、
「子供のままでいれば良いのよ」
そのまんま返してきた。
彼女のアバウトな返答に、若干呆れながら、
「それはそうだろ」
もっと具体的な方策を聞いているのに。
考え込んだ水野は、
「子どもらしく、遊ぶとか?」
「そんなことで良いのか?」
「うん。まずは形から入らないとね」
そこで、水野がふと思い出したように、
「そういえば、あんた何年生?」
「二年生だけど」
それを聞いて、水野は驚いたような反応をした。
「なんだ、私より年下じゃない」
意外だった。
「え?もしかして高三?」
「そうよ、十八よあたし」
彼女は衝撃を受けたように項垂れた。
「なーんだ。同い年かと思ったけど」
「年下かと思った」
正直言って、彼女は少し子供っぽかった。子どもでいたいという願いを考慮すれば、別に悪いことではないんだろうが。
「失礼ね。今から敬語使いなさい。あんた呼ばわりも禁止」
ぴしゃりと言い放たれる。
どうしたって、年上には逆らえない。
俺は水野さんじゃないから、子どもでいる必要はないのだ。
「すみません、水野先輩」
そう言って謝罪すると、水野さんはまた目を丸くして、静止した。
その後、噴き出したように笑いだした。
「なにかおかしなことを言いましたか?」
「冗談よ。涼子でいいわ。敬語もなし。今まで通りで。あたしも新って呼ぶから」
冗談だったらしい。
「わかりましーーわかった。そうするよ」
涼子はそれを聞いて、顔いっぱいに笑顔を浮かべた。
「ねね、どうして美瑛に来たの?」
昨日も聞かれた気がする。
「それ、昨日も聞かなかった?」
「気になるじゃない。何?やっぱり失恋とか?」
半ば呆れて、溜息を吐いた。
「違うよ。そんなんじゃない」
「え?違うの?うっそ、意外だなぁ。都会の子は進んでるって聞くから、彼女の一人や二人いるのかと思った」
「二人以上いたらダメでしょ......」
大袈裟に笑う涼子。
その姿は、昨日死のうとしていた人間には見えなかった。
「いつまでこっちにいるの?」
「夏休みが終わるまでかな」
「じゃあ三十一日までか。よかった、夏終わる前に帰っちゃったら、約束果たせなくなっちゃうもんね」
「そうだね」
「うーん、でも、夏終わるまでまだ二週間以上もあるね」
背伸びした涼子は、
「じゃあさ、明日町を案内してあげるよ。来たばっかで全然わかんないでしょ?」
それは魅力的な提案だった。
ここで二週間以上も暮らすのだから、土地勘はなるべく早くにつけておいた方がいい。
「それはいいけど、受験生だよね?勉強しなくていいの?」
「あー、子どものままでいるんだから、勉強なんてやらないの。やっちゃったらそれはもう、大人に近付いてるってことよ」
「無茶な論理」
「何がともあれ、明日暇よね?」
「まぁ、暇だけど......」
「じゃあ決定。明日の十時にここ集合で」
うなずきを返す。
「私、そろそろ帰らなきゃ」
「ごめんね、待たせて」
「いいの。私が勝手に待ってただけだから。明日の約束、忘れないでよ?」
うなずいたこちらを見て、涼子はえくぼを見せた。
ぼんやりと、よく笑う子だな、と思った。
「じゃあ、また明日ね」
「うん、また明日」
手を振ると、涼子は駆け足で大橋の方へ消えていった。
その後姿が見えなくなるまで待って、俺は家に帰ることにした。
3
いつも通り朝の支度を済ませて、自室に戻る。
昨日の今日だが、なんだか気分がいい。
涼子が思った以上に元気だったのもあるのだろうが、なんだか自分の中に、一つの希望みたいなものが見えた気がした。
部屋に入って、掛け時計を確認する。
午前八時。
約束の時間まで二時間ある。
何をしようかと辺りを見回して、ちゃぶ台の上に問題集の束を見つけた。
昨日、だいぶ進めたが、まだまだ先は長い。
時間になるまで、できるところまでやろうと思い、ちゃぶ台の前に腰掛ける。
そこで、昨日の涼子のセリフが蘇ってきた。
「勉強なんてしたら、それはもう大人に近付いてるってことよ」
心の中に葛藤が生まれた。
約束は、涼子が子どもでいるだけであって、自分が子どもである必要はない。
そんな言い訳を考えついて、若干申し訳ないと思いつつも、課題に手をつけた。
「こりゃ重症だな」
しばらく問題を解いて、自嘲する。
まったく、涼子の言う通り、親の奴隷だ。
そんなことを考えていると、掛け時計が、十時に近づいていることを示していた。
「そろそろ行くか」
身体を伸ばして、外着を手繰り寄せた。
部屋から出て、一階に降りると、祖父がテレビを眺めていた。
「散歩か?」
「うん、勉強ばかりじゃ気が滅入るからね」
祖父は笑った。
「はは。だけど勉強は大事だぞ。今は学歴社会だからね」
その言葉が、脳裏に親の説教を思い出させた。
耳にタコができるほど聞かされた言葉。
「そうだね、頑張らないと」
適当に返して、外に出た。
高校に着く頃には、涼子はもう来ていた。
昨日と同様に、フェンスに背中を預けている。
「遅い」
「約束の時間より五分は早いけど」
「私より遅く来たんだから遅いの。年上を待たせるものじゃないよ」
「昨日年関係ないって言ってなかったっけ?」
「そんなこといった?」
上下関係なし的なことは言っていたはずだ。
「まぁ、いいよ。悪かった」
そう言って謝ると、涼子が呆れたように溜息を吐いて、フェンスから身体を起こした。
「すぐ謝るの、悪いくせ。新が正しいんだから、自信持ちなさい」
何故か説法されたが、嫌な気分ではない。
むしろ自分のことを本当に考えて、教えてくれたと感じられる。
「さて、町案内だったよね。と言っても、ここ大したところないけどね」
「俺には色々新鮮に感じられるけど」
実際、普段目にしないものも多く、退屈はしていない。
「そう?ただ広いだけよ?特に美瑛の中でも、南側の雪の下は、田んぼだらけで何もない。あるとすれば、ここぐらいね」
そう言って、涼子は校門の後ろを振り返った。
「ここに通ってるの?」
「そうよ。美瑛には高校が二つあってね。大橋を渡って北側の月の瀬にある高校と、雪の下のここよ」
そこで、一つ疑問が生まれた。
「どうして遠い方に通ってるんだ?」
普通なら、近い方に通うはずだ
涼子は少し顔を下に向けて、
「田舎にはね、色々あるのよ」
これ以上、聞くべきではない気がした。
話題を変えるべきだ。
「じゃあさ、月の瀬の方案内してよ。あっちの方全然わからない」
「いいよ。まだ月の瀬の方がお店あるし。行きましょうか」
そう言って、涼子は俺を追い越して、大橋の方へ向かった。
涼子と二人で歩いていると、月の瀬と雪の下を繋ぐ大橋が見えてきた。
「この川、意外と大きいよな」
川幅五十メートルはくだらないだろう。そうなると川の中心は流れが速いため、泳いだりはできないはずだ。
「そうね、下流の方が川幅もっと広いけど。そういえば、そろそろ祭で使われるわね」
「祭?」
「二週間後くらいに、夏祭りがあるの。その時に、灯籠を流すのよ」
「灯籠流しってやつか」
「そう、下流の県に迷惑だから、あんまり数は流せないけどね。結構綺麗なのよ」
初耳だった。
「へぇ、見てみたいな」
「夏の終わりまでいるんだったら、見れるわよ」
「それは楽しみだな。大きな行事のある祭りって初めて」
「他にもあるわよ。神社でやる巫女の踊りだったりね。それとーー」
涼子が突然押し黙った。
会話的に、かなり不自然な沈黙だ。
「どうかしたの?」
涼子はこちらを向くと、笑顔で首を振った。
「何でもないわ。まぁ、そんな行事があるわ」
少し涼子の様子がおかしかったが、これ以上尋ねるのもおかしいか。
俺は話題を変えることにした。
「月の瀬は、駅と商店街しかわからないな。あとは涼子の家か」
「美瑛には電車あそこしか来ないのよ。しかも本数少ないから、市外に出るのは億劫ね。商店街も、美瑛じゃ買い物はあそこで済ませるしかないわね。だとしても店、あんまりないけど」
確かに、店の数は商店街にしては少なかった。
「私の家はちょっと外れてるけど、あっちの方は住宅街よ。それと高校もある」
「さっき言ってたやつか」
「そう、月の瀬高校って言うんだけどね、歴史は浅いのよ。待ち合わせした美瑛高校の方が、昔からある」
「こう言っちゃ悪いけど、高校が二つもあるんだな」
美瑛の規模的に、高校が二つもあるとは思えなかった。
涼子はそれに頷いて、
「全くその通りよ。でもね、事情があるのよ。さっき、住宅街が月の瀬にあるって言ったでしょ?」
なんとなく察しがつく。
「なるほど。通いにくいわけか。わざわざ遠くに高校があるのは不便だからね」
涼子はうなずいた。
「そういうこと」
「じゃあさ、美瑛高校の方は、無くなったりしないのか?」
「いい質問。生徒はもう三年生しかいないの。私の代で美瑛高校は廃校なのよ。校舎は、市の施設に建て替わるそうね」
「そうなのか。なんか、寂しいな」
自分の通う学校が廃校になるのは、どんな気分なんだろう。
自分だったら、きっと少し寂しいだろう。
しかし涼子は、
「別に、大したことじゃないわ。必要ないものはなくなる。それがこの世の摂理だもの」
まったく感情のこもっていないように聞こえる声で、そう吐き捨てた。
ちょっと冷たい気もする。
「ドライな考え方だね。思い入れとかないの?」
高校なんだから、思い出の一つや二つあるはずだ。
「ないわよ、学校になんて。あんな場所、無くなればいいのに」
「でも、子どもは学校に通うものだけど」
涼子はそれを聞いて、頬を膨らませた。
「それとこれとは違うのよ」
今思い立ったが、目の色のことで何か嫌がらせでも受けているのではないかと思ったので、これ以上は触れないようにしよう。
そう思って、取り敢えず肩をすくめた。
大橋を渡って、商店街とは逆の方向、涼子の家がある方に向かっていく。
そうしていると、しばらくして綺麗な校舎が見えて来た。
「あれがーー」
「そう。月の瀬高校よ。できて五年だからまだまだ綺麗でしょ?」
まだまだ綺麗というより、ものすごく綺麗だった。
俺が通っている高校も、もともとはこんなに綺麗だったんだろうか。
「生徒数とかは足りてるの?」
グラウンドも整備されており、田舎の高校とは思えなかった。
「一学年一クラスしかないけど、クラス自体は三十人いるわ」
俺は、月の瀬高校に関して、通ってないのにどうしてそこまで細かい情報を知っているのか、不思議に思った。
そこで、校舎から、部活帰りと思われる女子生徒が出てきた。
それを見た涼子は顔色を変えて、咄嗟に俺の後ろに隠れようとする。だけど、その女子生徒の目は涼子を捉えていた。
「もしかして涼子?うわ、なんか男連れてるし」
隠れても無駄だと判断したのか、涼子は後ろから姿を見せた。
「そうだけど、何?」
女子生徒は嘲笑するように、
「あんたこそ何よ?退学した学校に男連れて顔出して?」
涼子はハッと顔を上げて、こちらを見た。
退学した学校。
その意味を噛み砕く前に女子生徒が切り出した。
「それにしてもあんたに彼氏ができるなんてね。物好きよねほんと。ねぇ、彼氏さん?」
目の前の彼女は、こちらに話しかけているようだった、
「俺は彼氏じゃない」
「じゃあなんで一緒にいるのよ?」
一瞬頭を巡らせ、
「ここに来たばっかりで何がどこにあるかわからないから、案内してもらってたんだ」
嘘はついてない。
「ふぅん?」
女子生徒は、こちらを舐めるように下から上へと視線を動かした。
「見た目は悪かないけど、あんた、気持ち悪いと思わないの?」
「何が?」
女子学生が涼子を睨んだ。
「あの青い目よ。日本人なのに。気持ち悪いじゃない」
さっき考えていたことは、あながち間違いではなかったようだ。
この町の人々は、涼子の目のことを、あまり快く思っていない。
それは、もしかしたら、涼子がこの女子生徒が通う学校を辞めた原因になっているのかもしれない。
「そうかな?とても綺麗だと思うけど」
女子学生は信じられないといった目でこちらを見る
「やっぱ、似たもの同士が固まるのねーーまぁ、どうでもいいわ。じゃあね」
女子学生が吐き捨てるように言って、俺たちを置いて住宅街の方へ歩いて行った。
しばらく、沈黙が俺たちの間を支配した。
どう言葉をかけたらいいかわからなかったが、
「涼子」
「......何?」
こちらから目を背けている涼子。
「涼子に何があったかはわからないけど、その目について、俺は一つも嘘を言ってないからね」
涼子の青い瞳。
ここの連中がどう思っているのか知ったこっちゃないが、
俺は、彼女の目の色を、本当に綺麗だと思っている。
それだけは、真実だった。
涼子はそれを聞いて、
「......ありがと」
ポツリと、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、そうつぶやいた。
「行こうか」
「うん」
そうして、俺たちは学校を後にした。
その後、月の瀬をダラダラと散歩していたが、月の瀬高校での出来事が尾を引いているのか、お互いに無言の時間が続いた。
だけど、その沈黙を破るように、
「ちょっと寄りたいところがあるんだけど」
涼子を盗み見る。先ほどよりかは、調子を取り戻しているように映った。
「いいよ。どこ?」
「すぐそこよ。新も気にいると思うわ」
気に入る、とはどういうことだろうか。
涼子はこちらに構わず、先に進んでいった。
方向は、東側。商店街の方だった。
まもなく、商店街に辿り着く。
お世辞にも活気があるとは言えなかった。
「ここのどこかにあるの?」
「そうよ」
涼子は商店街に入ると、小さな可愛らしいカフェの前に立った。
祖父と二人でここを通った時、気になっていたお店だ。
「なんだか似つかわしくないな」
商店街はどちらかというと観光客用かお土産屋か、小売店が多いからか、ちょっぴり浮いて見えた。
「何よ、私には似合わないって?」
涼子が怒ったように頬を膨らませた。自分に似つかわしくないと言われたと思ったらしい。
「違うよ。商店街の雰囲気に合ってないってだけ」
それを聞いて、涼子は顔を綻ばせた。ころころと表情の変わる子だ。
「おしゃれでしょ?常連なのよ、ここの」
「ふぅん」
うなずいて、俺たちはカフェの中に入った。
「あら涼子。いらっしゃい」
店に入ると、おしゃれなエプロンをした若い女性が、カウンターの奥から現れた。
「お邪魔するわね」
女性は涼子にうなずき返すと、不思議そうにこちらの方を見やった。
「あれ、その子は?」
「夏の間だけ、ここにいるみたいで、町案内してたのよ」
涼子は女性に対してため口だ。
まぁ、そこまで歳も離れていないだろうが。
「広瀬新です。いいお店ですね」
実際、店の中はだいぶおしゃれな装飾が施されていた。
女性はなぜか複雑そうな顔をしたが、
「あら、しっかりした子じゃない。私は住吉世都子よ。世都子でいいわ。よろしくね」
そう言って、窓際の席に案内された。
お店は、お土産屋を兼ねたカフェになっていた。
食品やキーホルダー、人形までも置かれていたが、しっかりと小さなカフェとしても機能しているようで、ちゃんとしたメニュー表も置かれていた。
おそらく世都子さんの趣味であろう内装は凝っていて、女の子は特に気に入りそうだ。
「涼子はいつものよね?新くんは?」
メニューを眺める。
飲み物だけでも、かなりの数あるようだった。
「抹茶ラテで」
そうすると、世都子さんは目を丸くして、すぐに微笑んだ。
「涼子と同じね。わかったわ」
そう言うと、世都子さんはテキパキと店の奥に消えていった。
「どう?雰囲気良いでしょ?」
抹茶ラテを待っていると、涼子が尋ねてきた。
「うん。気に入った」
男だとしても、この小洒落た感じは嫌いではない。
「でしょ?良かった良かった」
涼子も嬉しそうだ。
「いつ頃から通ってるの?」
「初めて来たのは、中学一年の時ね。そこからちょくちょく来るようになったの」
「へぇ」
「一発でお店のおすすめ頼むなんて、意外と見る目あるじゃない」
抹茶ラテのことらしい。
「美味しいんだ?」
「そうよ。抹茶ラテ初めて飲んでから、基本飲み物はそれを頼んでるわ」
「食べ物のおすすめは?」
「そうね......。焼きそばが美味しいわよ」
「焼きそばなんてカフェで出るのか?」
「普通のカフェと違って、ファミレスに近いのよ。あんまり量は多くないけどね」
しばらく話していると、世都子さんが抹茶ラテを二つお盆に載せてやってきた。
「お待ちどおさま。はい、抹茶ラテ二つね」
「ありがとうございます」
挨拶をして、抹茶ラテを受け取る。
小振りだが餡子と白玉が乗っていて、美味しそうだ。
「お昼時だし、何か食べたくなったら呼んでね。初回サービスで、新くんは安くしとくから」
「えぇ?私も割引してよ」
涼子が、がめつく食い下がった。
「いつもそう言って値切ろうとするじゃない。あんたはきっちり全額払ってもらうわよ」
不貞腐れる涼子を見て、世都子は笑う。
「カップルサービスってなら、安くできるけど」
涼子は顔を赤くした。
「私たち付き合ってないから!」
世都子さんは笑いながら奥に引っ込んでいく。
「全く。人が悪いわよね」
頬杖をつきながら、涼子が溜息を吐いた。
「元気で良いじゃないか。店だけじゃなくて、住吉さんも気に入ったよ」
「あとで痛い目見るわよ」
抹茶ラテにストローで口をつける。
濃厚な味わいが、口いっぱいに広がった。
涼子の言う通り、普通に美味しい。
「美味しいね」
「でしょ?クセになるのよね」
「あとで焼きそば頼んでみるよ」
時間的に、小腹も空いてきた。
「じゃあ私も、何か頼もうかしら」
そんな感じで話していたが、ここで一つ気になっていることを聞いてみることにした
「ねぇ」
「何?」
「聞いて良いのかわからないんだけど」
「うん?」
「そのーー目のことなんだけど」
とても聞きにくかったが、彼女と関わるうえで、知らないわけにはいかないだろう。
「あぁ、これね」
涼子はフッと息を吐いて下を向いた。
「生まれつきなのよ。別に病気とかじゃないわ。日本人でも、たまにいるらしいのよ」
「そうなんだ」
目の虹彩が茶色っぽい人は見たことがあったが、完全なる青は初めてだ。
「でも、珍しいでしょ?私も自分以外会ったことないわ。そのせいでね、あんまりこの土地じゃ評判良くないのよ」
「目の色が違うだけで?」
「ここではね、それ以上の意味があるのよ」
「どういうこと?」
「目の色が違う子どもが生まれたら、乳母湯につける前に首を絞めて殺せっていう、古い言い伝えがあるのよ」
スッと、背筋が冷たくなる感覚が通り抜けた。
涼子は自嘲気味に笑う。
「私のお父さんもね、私の目を見た瞬間、言い伝え通りに殺そうと考えたらしいわ。ま、時代も時代だから、そうはしなかったみたいだけど」
目の色が周りと少し違うだけで、死ななければならない赤子。
たったそれだけの違いで。
胸の奥に、なにやら燃え盛る熱を知覚した。
「どうしたの?」
「何でもない」
その炎のような感情を抑えながら答える。
「だけど、生まれた瞬間から憎まれるのって、ゾッとしないわね」
生まれた瞬間から忌み嫌われる。それはどれほどの悲しいことなんだろう。
「でも涼子は、望まれて生まれてきたんだ。目の色が違うくらいで、腫れ物扱いする方に問題がある」
そう、涼子は、両親に望まれて生まれてきた。だから、他人とちょっと違うだけで、扱いを変えるのはおかしい。
涼子はそれを聞いて、静かに顔を伏せた。
「正しい、正しいわ。だけどね、正しさだけじゃ、生きていけないのよ」
正しさだけでは生きていけない世界。世の中は俺たちが思っている以上に複雑で、汚くて、そして、それ故に美しい。でも、心躍る風景ばかりに、目を向けて生きてはいけない。どう転んだって、決してこの世界の汚い部分に、立ち向かわなければならないのだ。
「ーーそうだね」
だから、生きづらいこの世界にで生きていくために、子どもは大人になっていく。
世の中の不条理を知って、人は我慢を覚え、成長していく。
俺たちは、子どもでいたいと思うほどに、大人になっていた。
だからこそ、俺は思った。
「むしろ、みんな喜べば良いのに。そんなに綺麗なんだから」
綺麗ものには、素直にそれを喜ぶ。
美しいものに、心惹かれ、感動を覚える。
そんな単純なことが何の障害もなく行えるくらいには、世界は透明であって欲しかった。
涼子は俺の言葉を聞いて、複雑そうに笑った。
「そう簡単にはいかないのよ。土地のしがらみってのはね」
「だから、同学年くらいの連中からもそういう扱いを受けてるのか」
「ま、そういうことね。あの子たちは、親からその手の話を聞いて育つから、結局は除け者扱いするわけよ」
想像する。
親から、町のみんなから、半ば迫害のような扱いを受け続ける境遇を。
自分には、耐えられる自信がなかった。
「ーーそれが自殺の原因?」
周囲からのいじめ。
自殺するには、十分すぎる理由だと思った。
涼子はこちらをチラリと見ると、目を背けた。
「うーん、違うとは言えないけど、原因ではないはね」
その回答は、少し予想外だった。
「別に何か理由があるのか?」
「そうね」
涼子の様子を伺う。
彼女は、窓から外を眺めている。
自殺の原因について尋ねるのは、まだ早い気がした。
「はぁー、辛気臭いわね。もっと面白い話しなさいよ」
涼子が退屈そうにテーブルに突っ伏した。
「そうだね。もっと別の話をしようか」
そう言うと、涼子は上体を起こして、
「じゃあさ、今度は新の話を聞かせてよ。私、あんたのことあんまり知らないから」
「いいよ。何が聞きたい?」
「そうね、じゃあ、何度か目になるけど」
多少の間をおいて、
「どうして美瑛に来たの?」
非常に答えるのに困る質問だった。
だけど、彼女との関係性を鑑みると、話しておいても悪くないかと思えた。
「ちょっと長くなるけど」
「いいわよ」
姿勢を正す。この話を他人にするのは初めてだ。
けど、涼子になら、話してもいいと思えた。
「俺の家は教育熱心でね。子どものころから結構お金をかけて俺を教育してたんだ」
「うん」
「それでね、中学も私立の進学校に入れて、あわよくば大学まで行ける学校にね。結局、意外と有名な進学校に入れたんだ」
「別に、そこまでなら良い話じゃない?」
「問題はここからなんだ」
抹茶ラテを含んで、唇を潤す。
「有名な進学校に入れたのは良かったけど、ちょっと厄介な病気にかかってね」
「どんな病気?」
「肺に穴が開く病気だよ」
涼子は目を見開いた。
「それ、辛くなかった?」
「まぁまぁ痛かったよ。でもね、さらに厄介なのが、この病気、完治しないんだ」
「どういうこと?」
「肺の穴が塞がっても、また開く可能性があるってこと。それで、結局俺は、六回入院して、三回手術したんだ」
同情するように目を細める涼子。
「そうだったのね……それは、苦労したわね」
「それでね、俺の通ってる学校は進学校だから、入院したからと言って、宿題や課題が減るとか、そういうことはないんだ」
「それ、おかしくない?こっちは病気で大変なのに、その上勉強しなさいなんて、本末転倒よ」
「まあそうだね。それで、俺は入院、溜まった課題を解く、そのストレスで肺に穴が開くーーを繰り返して、――そうだね」
この先を言うべきか悩んだが、
「うつになったんだ」
涼子は黙ってこちらの話に耳を傾けている。
俺は、涼子がうつ病患者に対する差別がないことに安心した。
「無理もないわね。私だって同じ状況だったらうつになってたわ」
「でも、学校をやめることはできない。それまでにかかってきたお金や時間が全部無駄になるからね」
「あんたまさか、まだその学校に通ってるの?」
「うん。やめたいけど、やめられないんだ」
涼子は自分のことのように辛そうな表情を浮かべた。
「そうすると、ここに来たわけはーー」
涼子は考えを整理するように視線を宙に彷徨わせて、
「夏休みの間、うつ病を少しでも軽くするため?」
「その通りだよ」
「でもあんた、その課題とやらも持って来てるんでしょ?」
「うん」
涼子は呆れたように息を吐いた。
「私が言うのもなんだけど。それじゃ、一生治らないわよ?」
「全くその通りだね。今も肺にまた穴が開かないかひやひやしてるよ」
「笑えないわね」
涼子は俺の目を覗き込んだ。
青い瞳が、視線を縫い付ける。
「どうして、そこまで親に従うの?」
先ほど同様、回答に困った。
「親だって、大人だって人間よ。子どもと同じで、間違えることもあるのよ」
涼子は呼吸を整えると、
「あなたの件に関しては、完全に学校や親がおかしいわ。子どもが体調を崩しているのに、無理矢理勉強をさせるなんて。ちゃんちゃらおかしい話よ」
「でも、学校をやめることはできないんだ。授業料を払ってるのは親だから。俺に進退を決める権利はない」
「じゃあ聞くけど」
「うん」
「あなたはどうしたいの?」
それを聞いて、深く考えたが、結局よくわからなかった。
「よくわからない」
「でしょうね。今まで、自分で自分の道を決めて来なかったから」
まったくその通りに思えた。
涼子はそんな様子の俺を見て、指をぴんと立てる。
「あなたより一年多く生きている私からのアドバイス。自分の道は、自分で決めなさい。自分が正しいと思う道を、自分で選び取るの。それが、人生に後悔しないコツよ」
自分の道は自分で決める。それは、俺にできないことで、涼子にできること。
俺でも、涼子になれるんだろううか。
とにもかくにも、彼女のアドバイスは、とても当たり前で、それ故に尊いものに感じた。
「うん。そうだよね。高校生にもなって、親の言いなりじゃおかしいよね」
「私にどうこうすることはできないけど、あなた自身で考えることが、あなたの幸せに繋がると思うから」
「うん」
「まずは、その課題とやらをすべて捨てなさい」
「いや、それは流石に……」
「あっても新の性格的に手を付けちゃうでしょ?ならそれは新にとって毒よ。今すぐ排除しなさい」
困った。すべて捨てるとなると、母から何を言われたものかわかったものじゃない。
「そういうところから始めないと、いつまで経っても病気、治らないわよ」
「わかったよ、捨てるのは無理だけど、やらないことにするよ」
渋々と、折衷案を提示する。
「それがいいわ」
涼子は笑顔を浮かべた。
彼女は、真剣に俺のことを思って提案してくれているみたいだ。
それが、とても嬉しかった。
自分のことを本当の意味で心配してくれる人間に、初めて出会えた気がしたから。
「ありがとう、少し気が楽になったよ」
「あんたも意外と苦労してるのね。また何かあったら相談に乗るわ」
「うん、ありがと」
その後は、他愛無い会話が続いた。
話しているうちに、いつのまにか夕方になっていた。
結局、俺と涼子は焼きそばを注文して食べたが、彼女の言う通り絶品だった。
「結構話し込んだわね」
涼子が窓の外を見ながらそう言った。
「そうだね」
「今日はこのあたりにしましょうか」
うなずく。
涼子はレシートを取って、カウンターに向かった。
「世都子さーん。お会計」
そうすると、世都子さんがすぐに現れる。
「はいはい。個別会計ね」
料金を支払った後、
「ラテも焼きそばも美味しかったです」
「あら、どうも。またいつでもいらっしゃいね」
挨拶をして、俺たちは店を出た。
解散するのは、大橋で、ということになった。
お互いの家の中間地点だから、悪い提案ではない。
大橋に向かいながら、今日の感謝を伝えることにした。
「今日はありがとう。おかげでこの町のことが少しわかったよ」
「そう?なら良かったわ」
「お祭りが楽しみだ」
そう言うと、涼子は少し悲しそうに微笑んだ。
「ね、明日も暇でしょ?」
こちらに振り向きながら、尋ねる涼子。
「いつも暇みたいな言い方は良くないと思うよ?」
「何?用事あるの?」
「......ないけど」
「じゃあまた付き合いなさいよ。次は歩くのめんどくさいから、さっきの世都子さんのカフェ集合で」
「ほんとに遊び続けるつもりなんだね」
「当たり前よ、だってーー」
涼子は、空を見上げて、
「この夏しか、子どもでいられないもの」
その意味は、俺にはよくわからなかった。
その日の夜。
風呂に入った後、自室に戻ると、そのままの流れで勉強しそうになった。
そこで、涼子とのやり取りを思い出す。
「危ない危ない」
課題の山をどうするか考えて、それらをボストンバッグに詰めて、部屋の端、視界に映らないところに投げ捨てた。
「自分のためだ」
そう自分に言い聞かせて、やることがなくなったので、早めに布団に入ることにした
4
次の日、待ち合わせ通り、住吉に集合した。
ちなみに、涼子は俺より早く来ていて、気怠そうに抹茶ラテに口をつけていた。
「それで、今日は何するの?」
腕を組んで唸る涼子。
そして、何か思いついたように顔を上げる。
「そうだ、昨日、祭りが楽しみって言ってわよね」
「うん」
「なら、案内したいところがあるのよ」
「昨日行ってないところ?」
「そうよ。そこまで遠くないし、少し運動になるし」
「運動?」
運動になる場所なんて、美瑛にあるのだろうか。
「行けばわかるわ」
そう言うと、涼子は抹茶ラテを一気に飲み干した。
それに倣って、こちらも一気飲みする。
冷たさと甘さが喉を心地よく刺激した。
「世都子さーん、お会計、よろしく」
涼子の呼び声を聞いて、世都子さんが意外そうな表情で出てきた。
「あら、もう行くの?」
「ちょっと行きたい場所ができたのよ」
「どこ行くの?」
「神社よ」
「神社......」
世都子さんは、何か思ったのか、目を伏せた。そして、
「練習しに行くの?」
そう涼子に尋ねた。
世都子さんの言葉を受けた涼子は、ハッとしたように顔を上げる。
「あ、いやーー。まぁ、そんなところよ」
練習の意味は、よくわからなかった。
店を出て、涼子について行く。
「ねぇ」
「何?」
「えっとさ、さっき言ってた、練習って?」
涼子はこちらから視線を外すと、しばし沈黙した。
「ーー何でもないわ。気にしなくていい」
「そっか」
問い詰めるのもおかしいので、スルーすることにした。
そのまま、俺たちは無言で歩き続ける。
そうしているうちに、住宅街を越えた先に、山肌が見え始めた。
色鮮やかな緑が、山を覆っている。
「もしかしてだけど、その神社って」
なんとなく感づいて、尋ねてみる。
「お察しの通り。この山にあるの」
山を見上げてみる。
登れないほど高くはないが、少し大変そうだ。
「運動になるって言ってた意味がよくわかったよ」
「ここの高校の運動部はよく走り込みに使ってるのよ。歩くぐらいで音を上げないでよね」
「これでもちょっとは鍛えてるんだ。そこまでヤワじゃない」
運動部に入っているわけじゃないが、多少は鍛えている。この程度で、息が上がることはないだろう。
そう言うと、涼子は石段を上り始めた。
二人で、山の石段を上る。
まあまあな規模を誇る神社なのか、石段を上っている間にも、何人かの大人とすれ違った。地元の人っぽいが、何をしていたんだろう。
「結構時間かかるね」
「あら?もうギブアップ?」
首を横に振る。
「まさか。この程度、問題ない」
そうしていると、急に視界が開けた。
石段を上り切ったらしい。
目の前には、意外と大掛かりな神社の境内が広がっていた。
その中心には、なにやら祭りの会場設営をしている大人たちがいる。
さっきすれ違ったのは、会場設営をしている大人たちだったらしい。
「意外と大きな祭り?」
器具などのサイズや数を目算して、そう尋ねる。
「例年通りなら、観光客も来るわね」
なるほどな、と納得する。
「少し歩きましょうか」
「うん」
祭りの準備を除いても、神社自体の規模がかなり大きく、これなら神社の存在だけでも観光客が呼べそうだった。
大人たちは特にご高齢の方が多く、土地の高齢化というものを目の当たりにした気がする。
そのように神社の中を歩いていると、
「おや、涼子ちゃんじゃないか」
声がした方に振り向くと、白い袴(のように見えるが、正式名称はわからない)を着込んだおじさんが、ニコニコしながら立っていた。
どうやら、涼子と知り合いらしい。
「おじさん、腰の調子はどうですか?」
「おかげさまでね、最近は病院に行く回数も減ってきてるよ。ここから隣町の病院に行くのは大変だからね」
「間違いありません」
「ところで、その子は?」
おじさんはこちらをうかがっている。
「夏の間だけこの町にいるみたいで、少し案内してたんです。祭りに興味があるみたいで」
涼子は説明すると、
「新、この人は神社の神主さんよ」
そう耳打ちしてくれた。
おじさんは説明を聞くと、うんうんとうなずいた。
「ここの祭りは都会から観光客が来るくらい人気でね。伝統的な行事もあるからかねぇ」
「灯籠流しのことですか?」
「おお、もう涼子ちゃんから聞いていたか。そうだね、最近は環境配慮の面もあって、大規模にはできないけどね」
神主さんは、そこまで言うと、
「あれ、涼子ちゃん。巫女の件は言ってないのかい?」
涼子の肩がピクリと反応した。
巫女。
その言葉が、脳裏で反響する。
「いえ、言い忘れてました」
「まぁ大きな役目だからね。緊張もするだろう。話したくないのもわかる」
神主さんはまた、うんうんと同情するようにうなずいた。
「巫女、と言うのは?」
ここまで来たら、聞いてもいいだろう。
「ああ、話していいかい?涼子ちゃん」
涼子は迷うそぶりを見せず、
「かまいません」
そう答えた。
「夏祭りではね、毎年町の娘さんの中から一人、神社で演舞をしてくれる人を募ってるんだよ。それでね、今年の巫女は、なんと涼子ちゃんなんだ」
ここで。世都子さんの話を含めて合点がいった。
しかし、なぜそれを黙っていたのか、それだけがわからない。
「それはすごいじゃないか。もっと祭りが楽しみになったよ」
涼子はそれを聞いて、少し複雑そうに笑った。
「それで涼子ちゃん。最近練習はちゃんとしているのかい?」
「ぼちぼちですね。そろそろ合同練習ですか?」
「そうだね、涼子ちゃんのことだから、心配はしていないよ。きっとうまくいくからね」
笑顔の神主さんに向かって涼子は曖昧に笑った。
「それでは、失礼します」
頭を下げる涼子。
「ああ、気を付けてね」
神主さんはそういうと、手を振ってくれた。
最後まで、彼はニコニコと笑顔を浮かべていた。
なんとなくだが、この人は多分、涼子のことが嫌いなんだなと、そう思った。
その後、何をするでもなくなった俺たちは、神社を後にすることにした。
神社の石段を下りながら、気になっていたことを聞く。
「何で言わなかったんだ?」
「巫女のこと?」
「そうだよ。すごいことじゃないか」
涼子は少し顔を背けて、
「恥ずかしかったから。人の前で踊らなきゃいけないのよ?誰だって知られたくないわ」
「でも、応募制だったんだろ?涼子がやりたいって名乗り出たんじゃないのか?」
涼子は首を振った。
「お父さんが勝手に。気付いた頃には、もう決まってた」
それを聞いて、涼子の父親に対する反感を覚えた。
「俺が言うのもお門違いだけど、だいぶ勝手なお父さんだね」
「まったくよね。勘弁して欲しいわ」
涼子は憂鬱そうにため息を吐いた。
神社へ行った後、取り敢えず世都子さんのカフェに戻った俺たちは、そこでたわいもない会話をしながら、時間が過ぎるのを待った。
そして夕方になり、自然と解散することになった。
別れる時まで、どこか涼子はボーっとしていたが、指摘するのも変かと思い、そっとしておくことにした。
そそくさと帰宅して、夕食をいただき、その後リビングで祖父とテレビを見ていた時、
廊下から、耳障りな電子音が響いた。
電話だ。
祖母が洗い物をやめて、慌ただしく廊下に飛び出す。
少し時間が空いて、祖母が受話器を持ったまま、リビングに顔を出した。
「あっくん。由美ちゃんよ」
母からだ。
億劫に思いながらも、受話器を受け取った。
「変わったよ。何?」
「そっちはどうかと思って」
久方ぶりの母の声だった。
「別に。普通に過ごしてるよ」
「そう」
少しの沈黙。
「宿題はどう?終わりそう?」
ちょっとだけ、どう答えようか迷った。
「そのことなんだけどさ」
「何?」
口に出すのが決して正しいことではないと思ったが、
もう実際に、俺は課題をやっていない。
涼子のアドバイスに従って、俺は身体の療養に夏休みを利用している。
「宿題、少し手を抜こうかと思って」
その瞬間、
母の態度が変わったのが、よくわかった。
「あっくん。今、学校の子がどう過ごしてるか知ってる?」
その答えは身に余るほどよく知っていたが、答えにくかった。
「もう大学受験に向けて勉強してるのよ。みんな塾にも行ってる。あなたは体調面が不安だから、塾には行かせていないけど、それでも学校の課題さえ手を抜くなら、絶対成績下がるじゃない。せっかく成績も悪くないんだから、勿体ないわよ?」
「そうなんだけどさーー」
「体調が不安なのはわかるけど、それでも受験に失敗したら、一生後悔するのよ?それはわかってるわよね?」
返事に困る。
「みんな期待してるのよ。大変なこともあったけど。それでもあっくんなら、絶対うまくいくって思ってる。病気だって、もうかからないって強い気持ちがあれば大丈夫よ」
黙るしかなかった。
「だから、勉強はやりましょう?いいわね?」
ここでうなずいてしまっては、また負のスパイラルに陥りそうな気がした。
それ以上に、涼子のアドバイスを無駄にしたくないと思う自分がいる。
「俺、もう疲れたんだ」
「あっくん?」
「母さんは気胸になったことないから平気で言えるけど、肺に穴が開くのって、ものすごく痛いんだ。うつだって、夜眠れなかったり、生きているだけで辛かったりするんだ」
俺の両親は、うつを信じていない。
ちょっと疲れただけだと、そう言い聞かせて、精神科の先生の話を信じようとはしなかった。
本当は病院に通って、適切な処置を受けるべきだとわかっていて、
だから、俺は、初めてここで、親に抵抗することにした。
「だからね、この夏の間くらいは、病気の治療に専念したいんだ」
母は、怒っているようだった。
「勉強しないってこと?」
「ずっとしないってことじゃない。身体が落ち着いてきたら、またすこしずつ再開するよ」
それが俺にとっての、親に対する最大限の譲歩だった。
しかし、母さんは納得しなかった。
「あっくんが勉強しなくなったら、やってなかった時間また他の子より遅れるのよ?ただでさえ気胸で遅れてるのに。塾も行ってないし。そんなんで、勉強しないなんて言えると思ってるの?」
ふと、涼子の顔が思い浮かんだ。
あの青い瞳を見ていると、彼女となら、どこまでも行ける気がした。
俺が信じたのは、涼子の方だった。
「母さんは、俺の心と身体が壊れても良いから、良い大学に行って欲しいの?」
「そうは言ってないわ。ただ、今勉強しなくなったら、今までの努力が全部無駄になるのよ?お金も時間も、帰ってこないのよ?」
「俺にはもう、わからないよ」
「もしかして、そっちで誰かと知り合った?あんた、その子から何か変なこと言われたんでしょう」
ぎくりとした。
「そんな子信じちゃダメよ。どうせ子どもの言うことだから、あっくんをひがんでるのよ。その子には持ってないものを持ってるから。だから、そんな子のことを、信じちゃーー」
俺は、ここ最近で、一番苛ついていた。
涼子を否定するのが、この町の人間と同じように見えて、どうしても許せなかった。
「あんたに何がわかるんだ」
「あっくん?」
受話器を叩きつけて、電話を切る。
その音に驚いて祖父母が心配そうにリビングから顔を出したが、俺はそれに構うことなく、自室に駆け込んだ。
それから、俺と涼子は毎日のように住吉で待ち合わせして駄弁り、たまに外へ散歩しに行く毎日を送った。
二人で過ごす毎日は自堕落そうに見えて、とても色鮮やかだった。
勉強はもうしなくなった。その結果、今まで見えなかった色々なことが見えるようになってきた。
俺の目は、こんなに薄汚れていたんだなと。
目に映るすべてが、美しいもののように感じられた。
そして、それ以上に、自分の意見というものを意識できるようになってきた。
自分の意思で、自分を決める。
そのことの重要さを、実感をもって体感した。
彼女と過ごした数日で、俺は確実に変化していた。
5
涼子と遊ぶようになって数日が経ったころ。
今日も住吉で駄弁っていたが、涼子が突然声を上げた。
「私たち、かなり怠惰じゃない?」
「間違いない」
涼子はそう言うと、席から立ち上がった。
「もっと何か別のことしましょう」
「別のことって?」
席を立ったまま、うーんと考え込む涼子。
「何か別のことよ」
「話が先に進んでない」
「あー、文句言ってないで、何か案を出しなさいよ」
彼女の言う通り頭を回転させながら、外を眺めた。
ギラギラと照りつける太陽に夏空に、小さくセミの鳴き声が聞こえてくる。
「夏らしいこととか?」
完全な思いつきだった。
「夏らしいことって?」
「海に行くとか、バーベキューするとか?」
涼子はうなだれる。
「どっちも無理ね」
「だろうね」
涼子は席にまた腰掛けると、
「あ!」
何かに気が付いたように声を発した。
「どうしたの?」
「海は無理だけど、プールならあるわ!」
「え?でも、この町にプールなんてないよね?」
「嶺泉にならあるわ」
「嶺泉って、隣町の?」
確か、ここに来る一個前の駅が、嶺泉という名前だったはずだ。
「そう!」
そう言うと、居ても立ってもいられないといった様子の涼子は、
「ねぇ」
「水着持ってないよ」
「そんなの買えばいいのよ。嶺泉なら、ここよりもっと大きなお店があるわ」
どうせ止めても聞きやしない。俺は溜息を吐いた。
「わかったよ。いつ行けばいいの?」
「それはもう今からーー」
「今からは無理。せめて明日だね」
「えー」
涼子が不満そうに頬を膨らませる。
「大体、今から行ったって、大して遊ぶ時間取れないし、もしかしたら帰りの電車がなくなってる可能性だってある」
「それは、確かに」
「行くなら、やっぱり明日以降だね。水着も買わなきゃ行けないし」
「じゃあ、明日に決定!」
涼子はそう言って、目を輝かせた。
「嶺泉かぁ、久しぶりだなぁ」
「楽しみ?」
「うん!」
元気よく首肯する涼子。
その笑顔を見られただけで、もう十分な気もした。
「待ち合わせはーーというか、美瑛駅の運行日程知らないんだけど」
「確か十一時に一本あるわ。帰りは五時くらいがちょうどいいと思う」
「じゃあ、十一時前に美瑛駅集合で。お金忘れないでよ」
「忘れたら新に奢ってもらうわ」
「忘れたらその場で解散だね」
「冗談だってば!」
怒る涼子を尻目に、多分彼女と同じかそれ以上に楽しみに思っている自分がいた。
次の日。
部屋で涼子と嶺泉に行くための準備をしていると、祖父がやって来た。
「今日もどっかに行くの?」
「うん。隣町の嶺泉に」
祖父は驚いたように、
「どうして嶺泉に?」
「プールに行くんだ」
「一人で?」
「いやーー」
ここで、涼子のことを話すか少し迷った。
「ここで友達ができてね。その子と」
「お?どこの家の子?」
「水野涼子っていう子」
それを言った途端、祖父の顔色が変わった。
「新。悪いことは言わない。水野の娘と関わるのはやめるんだ」
「それは、涼子が忌子って言われているから?」
祖父は言いにくそうに、
「それもあるが、あの子にとって、今年の夏は特に大事なんだ」
「どういうこと?」
「ーー何も聞いてないのか?」
少し考えて、
「夏祭りの巫女に選ばれてるから?」
「そうだ。その意味はわかっているだろ?」
うなずき返す。
「なら、関わるのはやめるんだ」
夏祭りの巫女に選ばれているとして、そこまで神経質になる必要はないと思うが。
「約束したんだ」
「約束?」
「うん。ーー今年の夏だけは、子どもでいるっていうね」
祖父はそれを聞いて、納得したように小さくうなずいた。
「そうかーー。だけど、あまり下手に手を出すものじゃないよ?」
最後の言葉の意味がよくわからなかったが、取り敢えず曖昧に首肯しておいた。
待ち合わせ五分前には美瑛駅に到着するも、すでに涼子が待っていた。
「遅い」
「約束より五分は早いけど?」
「私より遅く来たんだから、遅いのよ」
そう言って、涼子は笑った。
ふと、彼女の服装がいつもと違うことに気が付く。
いつもは白シャツにジーンズという女の子らしからぬ恰好なのに、今日は白地のワンピースを着てきていた。
触れるべきか悩んでいると、
「ねぇ、何か気付かない?」
「何が?」
「ほら、当ててみてよ」
なんとなく言いたいことを察したが、
「まったくわからないな」
素直に触れるのもしゃくなので、気付いていないフリをすることにした。
「あんたならわかるはずよ」
しばらく悩んでいる風に腕を組んで、
「さっぱりだ」
「ーーそう」
ちょっぴり寂しそう目を伏せる涼子。
罪悪感が胸をかすめる。
「ーー似合ってるよ」
言ってみて、すごく恥ずかしくなる。
俺の発言を聞いて、涼子がいたずらっぽい笑みを浮かべた
「照れた?」
「照れてないよ」
「どうだかね?」
涼子はそう言うと、機嫌良さそうに改札口へ歩いて行った。
改札を通り抜けて、まもなくホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
もちろんと言ったら失礼だが、乗客は俺たち以外いなかった。
車両の端に二人そろって腰掛ける。
「嶺泉は久しぶりなんだっけ?」
「そうね、電車の本数的に、あんまり頻繁には行けないのよ」
電車に乗る前に時刻表をもう一度確認したが、電車は二時間に一本しか来ないようだった。
しかも、朝と夜はそもそも電車が来ないみたいだ。
「だろうね、でも、やっぱり不便だろ?」
「まぁ十八になれば免許取れるからね。ここの人は車を使うわ」
「涼子は免許取らないの?」
「取った方が便利だけど、ちょっとね。どうせ時間かかるだろうし、学校もあるし。クラスの男子は夏に結構取るみたいだけど」
「ふぅん」
「新は十八になったら取るの?」
「大学受験終わった後に取ろうと思ってるよ」
「そうね、受験あるから、すぐには取れないわよね。ここの人はみんな大学行かないから、高校のうちに取れちゃうのね」
俺は涼子の進路について気になった。
「涼子は高校卒業したら、どうするの?」
涼子はそれを聞いて、少し顔を伏せる。
「ーーまだ決めてないわ。大学に行ってみたいけど、今更勉強しても遅いし」
「そっか」
涼子が黙り込んでしまったので、無言の時間が流れる。
そして、いつの間にか、隣町の嶺泉に到着した。
改札を出ると、意外と大きなショッピングセンターが建っていた。
他にも、色とりどりの店が乱立している。
「一駅だけでこんなに違うのか」
意外とショックだった。どうして一駅でここまでの差ができてしまうのか。
「美瑛じゃ週末にはここに来る人も多いわね。なんでもじゃないけど、まぁまぁ揃うし」
「確かに、車があった方が便利そうだ」
プールに行く前に、俺たちは水着を買わねばならなかった。
そういうことで、目の前に屹立するショッピングセンターに入る。
自動ドアをくぐった途端、強烈な冷房が襲った。
肌寒さを感じながらも、取り敢えず店内の案内図を確認する。
水着は衣料品なので、二階だ。
エスカレーターで二階に上がると、すぐ目の前に水着が展示されていた。
奥の方が、男性物らしい。
「じゃあここで」
涼子と別々に行動しようと思い、一旦の別れを告げると、
「ねぇ、せっかくだし、お互いの水着を選ぶのどう?」
涼子がそんな提案をしてきた。
「却下」
即答する。
「どうしてよ?」
「自分のものは自分で決めたいんだ」
涼子はそれを聞いて一瞬静止するが、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「もしかして、恥ずかしがってる?」
「違う」
即座に否定する。
「ふぅん?まぁ良いけどね?」
「プールに行って初めて見るのが良いんじゃないか」
苦し紛れに聞こえただろうか。
涼子はなおも、不敵な笑みを浮かべて、
「ま、そういうことにしといてあげるわ」
それを尻目に、俺は男性物の水着が置いてある方に歩いて行った。
水着を買って、ショッピングセンターを出る。
お互いの水着は着替えてからのお楽しみのいうことになった。
ショッピングセンターからすぐのところに、涼子の言うプールはあった。
市民プールのようで、流れるプール的なものはないが、泳ぐには十分の大きさがありそうだ。
夏真っ盛りということもあって、混んでいるかと思ったが、それほど人は来ていないようだった。
プールの入場口に入り、受付に寄る。
入場料は市民プールなので、二百円程度だった。
「じゃ、また後でね」
「うん」
涼子と更衣室の前で別れる。
更衣室の中も、あまり人はいなかった。
そそくさと着替えて、プール側に出る。
プールは、レーンが八つもあり、かなりの大きさだった。
そして、来ているのは家族連れが多いようだ。
涼子が来る前に入るわけにもいかないので、身体を軽く動かしながら待つことにする。
準備体操をしていると、
「お待たせ」
涼子の声が聞こえた。
振り向くと、
恥ずかしそうに身体を隠す涼子が立っていた。
なんだか、こちらまで恥ずかしくなってくる。
というか、そもそも俺は、知り合って一週間(その間、毎日一緒にいたとは言え)の女の子と、なぜかプールに来ている。
ちょっと、普通では考えられない状況だ。
ちらりと、涼子の方を盗み見る。
手で隠そうとしているものの、あまり隠しきれてはいない。
水着自体は、そんな布地が少ないものではなく、セパレート?(合ってるかわからないが)タイプではなかった。
あの、胸の部分と、下の部分が繋がってるやつを着ている。
だけど、涼子自体のスタイルがいいため、予想以上に魅力的だった。
「どう?」
恥ずかしがりながらも、涼子は尋ねてきた。
「似合ってるよ」
素直に感想を伝えた。
「そう……」
涼子はなおも恥ずかしがっていたが、それでも少し嬉しそうだった。
それから、俺たちは、プールで自由に泳いだ。
最初は恥ずかしがりながらだったが、それでも段々とその気持ちも薄れてきて、普通に接することができるようになった。
俺は、平泳ぎ以外は得意だったので、涼子の前でその中でも得手であるバタフライを見せてみた。
涼子はバタフライを初めて見るようで、泳ぎ方にとても驚いていた。
「あんた、泳ぐの上手いわね」
「子どもの頃、水泳教室に通ってたから」
これも親の英才教育の一環だが、それも悪かないなと、この瞬間だけは思えた。
「なるほどね」
反面、涼子はプールに来たいと言っておきながら、完全なカナヅチだった。
クロールどころか、犬かき程度もおぼつかない。
「どうしてプールに来たいなんて言ったんだ?」
「夏っぽいじゃない」
頬を膨らませる涼子。
俺は溜息を吐いて、
「教えてあげるから、不貞腐れないでよ」
そう言って、涼子に最初から泳ぎを教え込んだ。
しばらく泳がせてみたが、少しずつ涼子は泳げるようになってきた。
「泳げるようになるなんて」
涼子は信じられなさそうに自分の両手を見ている。
「そもそも泳ぎの経験がないだけだったみたいだね」
泳がせてみた感じ、運動能力やセンスはどちらかというと優れている方だった。
「泳ぐの楽しい」
そう言って、二十五メートルを往復する涼子。
俺はちょっと疲れたので、それを遠目から眺めていた。
その後、泳ぎつかれた涼子がプールサイドに上がってきた。
「お腹すいたわね」
「受付の方に食べ物の自販機あったけど、何か食べるか」
俺と涼子は、一度プールから出て、自販機へ向かった。
自販機には、市民プールらしからぬ、夏らしい食べ物が用意されていた。
せっかくということなので、俺たちはきゅうりの味噌漬けを選んだ。
自販機の隣に設置されていたベンチに腰掛ける。
「きゅうり苦手じゃないんだ」
「何よ?意外?」
「好き嫌い激しい方かと思ってた」
涼子の性格的に、我が強いというか、嫌いなものは嫌いと言いそうだった。
「心外ね。出されたらなんでも食べるわよ」
「同じく。ただ美味しくないと食欲失せるけどね」
「逆にタチ悪いわね。選り好みが激しいってことじゃない」
「そうとも言うな」
食事が済んだ後もプールに戻って泳いだが、流石に疲れてきた。
プールの時計を見ると、もう二時半を回っていた。
「そろそろ出るか?」
プールサイドに腰掛けていた涼子に声をかける。
「そうね。他にも行きたいとこあるし」
「どこ行きたいの?」
「カラオケよ。美瑛にはないから」
「カラオケ好きなの?」
「お風呂でいつも歌うくらいにはね」
「なるほど」
俺たちは一旦プールサイドで別れて、シャワーを浴び、更衣室で着替えをした。
持参したタオルで髪をぐしゃぐしゃと拭きながら、受付前で再集合する。
「行きましょっか」
「カラオケって近いの?」
時間的に余裕はあるが、一応聞いておく。
「駅前よ」
「近いね」
そう言って、俺たちは市民プールを後にした。
カラオケ店はプールと違い、案外混んでいるようだった。
だからといって待たされることもなく、一時間予約で、すぐに部屋へ入れた。
「何歌うの?」
電話帳みたいにどでかいカラオケの曲番号表を開きながら尋ねる。
「普通の邦楽よ」
「流行りのやつ?」
「そうね」
涼子はそう言うと、マイクを持って立ち上がった。
彼女の選んだ曲は、最近売れ始めたバンドグループのものだった。
言うだけあって、だいぶ上手い。
俺はきゅうりの味噌漬けだけじゃもの足りなかったので、頼んだポテトをつまみながら聞いていた。
「上手いね」
「実はね、カラオケ来るの初めてなの」
予想外の返答だった。
「え?そうなんだ」
「上手く歌えるか心配だったけど、大丈夫だったみたいね」
「すごく上手だったよ」
「なら良かったわ」
涼子が座ったので、俺が立ち上がる。
俺が選んだのも、一昔前だが、流行ったバンドグループの曲だ。
涼子ほど上手くはないだろうが、下手でもないはず。
歌いながら涼子を見ると、手を叩いて盛り上げてくれていた。
歌い終わって、
「まぁまぁね。でも悪くはないわ」
「それはどうも」
俺自身もカラオケはあまり行かないが、歌うのは嫌いじゃない。
一時間の予約だったが、結局三十分延長した。
「カラオケって楽しいわね。また来たいわ」
カラオケ店を出た涼子は、大変満足している様子だった。
「また来れば良いじゃないか」
気軽に言ったつもりだったが、言った後、後悔する。
来れるなら、いつだって来ているはずだ。
来れない理由があるから、今まで一度も来なかった。
涼子は俺の無遠慮な発言を聞いて、少し遠い目をした。
「そうね」
使う言葉を完全に間違えた。
内心反省していると、
「ね。まだ時間大丈夫?」
涼子がこちらをうかがいながら尋ねてきた。
「えっと、五時に電車に乗るんじゃなかったの?」
もう時刻は四時過ぎだった。
「電車は一応七時まであるから、新の時間が大丈夫なら、寄りたいところがあるんだけど」
先ほどの失言を挽回するためにも、付き合うべきだと感じた。
「いいよ。時間は気にしないで」
「ありがと」
そう言うと、涼子は歩き出した。
到着した先は、小さな映画館だった。
上映会場を数多くは持ち合わせていない、田舎らしいと言えば田舎らしい映画館だ。
「観たい映画があったのよ」
涼子が受付で申し込んだのは、最近テレビ番組などでも取り上げられている、有名な恋愛映画だった。
それを知って、少しだけど複雑な気持ちになる。
なんというか、こういうのはもっと深い仲の人間同士で見るものだと思った。
もう上映会場は開いていた。俺たちは後ろの方の席を取った。
「ヒット作だし、つまらないってことはないでしょ」
涼子は俺の気持ちなど知らん顔で、そうつぶやいた。
「まぁ、そうだね」
上映自体は、待つ間もなく、すぐ始まった。
ヒット作だけあって、内容は面白い。
端的に言うと、ファンタジーが入り混じった恋愛ものだった。
主人公の男の子が恋した女の子が、実は亡くなった幼馴染、という設定だ。
隣の涼子を見る。
彼女は真剣に映画を観ていた。よほど観たかったものらしい。
映画のラストは、亡くなっていた女の子が、主人公に愛を伝えて消える、と言った手合い。
上映が終わり、俺たちは映画館を出た。
「普通に感動しちゃったわ」
「そうだね。良い話だった」
映画館を出たら、空はもう暗くなり始めていた。
「そろそろ帰りましょうか」
「うん」
ぼんやりとそう応える。
なんとなく疲れでボーっとしてくる時間帯だった。
駅に着いてから、俺たち二人は無言だった。
映画の余韻で、なんとなくしんみりしていたのもあるが、思いっきり遊んだから、少し疲れていたのもあるだろう。
ホームで待っていると、すぐに電車が来た。
電車に乗って、席に着いた後も俺たちは無言だったが、
「ねぇ」
「ん?」
涼子が切り出した。
彼女は窓の外の田園風景を見ながら、
「あんたって、彼女いるの?」
なんとも気まずい質問だった。
「いるように見える?」
残念ながらモテたためしはない。
「うん」
俺にとって、その言葉は意外だった。
「いたら、涼子とこんなに遊んだりしないよ」
「それもそうね」
重い沈黙が流れる。
「そう言う涼子はどうなのさ?」
とにかく会話を続けようと、そう質問する。
涼子はこちらをチラリと見やった。
「私もいないわよ。今まで一人も」
涼子は窓の外に顔を向けたままだ。
彼女の生い立ちや境遇を考えれば、仕方ないとも言える。
「ーー俺と同じだ。俺も、誰とも付き合ったことない」
それを聞いて、こちらに振り返る涼子。
「嘘よね?」
その青い目が、こちらの真偽を質そうと絞られる。
「いや。嘘じゃないよ」
「ーーほんとに?」
「本当だってば」
そう告げると、涼子はまた顔を背けた。
「そっか」
また俺たちの間に、沈黙が流れた。
何か言わなきゃいけないが、何を言えばいいかわからない。
そうしている内に、電車は美瑛に到着した。
美瑛駅に到着しても、沈黙が破られることはなかった。
改札を出て、俺たちはそのまま帰路につく。
辺りはもう闇に包まれていた。
しばらく大橋に向けて歩いていると、
「ごめんね、さっきは変なこと聞いて」
涼子が申し訳なさそうに謝った。
「謝ることないさ。俺だって、上手く話を返せなかった」
「はは。これも映画のせいね。影響受けやすいのかしら、私」
そう言って笑った涼子は、
「そういえば、明日はどうするの?」
「普通にいつもの時間に住吉集合で良いんじゃないか?」
「そうね、疲れたし、明日はゆっくりしましょうか」
大橋に向かう道には、申し訳ばかりの街灯が設置されている。
その街灯の明かりが、涼子の目をさらに美しく彩っていた。
疲れているのもあるんだろうが、俺はなんとなく、彼女の目を見つめていた。
すると、俺の視線に気づいたのか、
「ありがとね。私に付き合ってくれて。わがまま聞いてくれて」
涼子が感謝を告げた。
「俺がやりたくてやってるんだから、お礼なんていらないよ」
涼子のお陰で、ここの暮らしは悪いものじゃない。
むしろ、都会の生活より楽しいまである。
だから、感謝したいのはこっちの方だった。
前を歩いていた涼子が、こちらに身体ごと向き直った。
「私ね、今が人生で一番楽しいかもしれない」
「そんなに?」
「お世辞じゃないわ。本当よ。こんなに楽しい夏休みって初めて。これも新のおかげよ。本当にありがとう」
ちょっと照れ臭くなって、顔を背ける。
すると、突然涼子が立ち止まった。
つられて、こちらも立ち止まる。
「だからね、もう、言うことにした」
なんの脈絡もない言葉。
「涼子?」
「今まで黙っててごめんなさい。でも、今話すからーー」
涼子は一度目を閉じて、そして、強い意志を宿した青い瞳を開いた。
「私は、ねーー」
「涼子!」
涼子の言葉が遮られた。
その声は、彼女の後方から聞こえた。
そちらを見やると、きっちりとした恰好をした、若い男性が立っていた。
「あーー」
涼子の言葉が途切れる。
「探したよ。帰りが遅いから、心配したんだよ?」
涼子は黙り込んだ。
「どこに行ってたんだ?」
「……嶺泉に」
小声で答える涼子。
「なんで?」
「遊びに行ってたんです」
「そうかーー。なるほど」
男がこちらに振り返る。
「君は?」
先に名乗れということか。
なんだかいい気分ではなかったが、
「広瀬新です。夏の間だけ、この町に来てます」
「そうか」
そう言うと、
「新くん。こう言うのもなんだが、涼子とはどういう関係なのかな?」
その言葉について、脳裏で思考する。
なんだ、この質問は。
どうしてだか、気分が悪くなった。
「友達です」
男は見定めるようにこちらを凝視した。
「ーーならいい」
男は涼子の方に振り返ると、
「もう遅い、家まで送るよ」
「大丈夫です。ひとりで帰れます」
「そんなことは言わないで。さ、送るから」
そう言って、男は涼子の手を掴んだ。
全身に、電流が走るようだった。
気が付くと、俺の右手は男の方に伸びようとしていた。
ハッとして、それを引っ込める。
何やってるんだ、俺は。
顔を上げて、二人の様子を確認する。
男の方には気づかれなかったみたいだが、涼子には感づかれたようだ。
涼子は後ろ髪を引かれるようにこちらを見ていた。それを見て、何かしなければならないという衝動に駆られるが、身体は縫い付けられたようにびくとも動かなかった。
涼子は、そのまま男に手を引かれて、住宅街の方に消えていった。
その姿を、俺は見つめ続けるしかなかった。
6
「あら、いらっしゃい」
レジカウンターの奥の暖簾をくぐって、世都子さんが顔を出した。
店内の様子を見回って、世都子さんに尋ねる。
「涼子は来てますか?」
世都子さんは首を振った。
「いや、まだ来てないわよ」
その報告に、違和感を感じ取る。
いつもなら、俺より早く来ているはず。
そこまで考えて、昨日の出来事が蘇った。
男に連れていかれる涼子。男は、涼子と顔見知りだったらしいが、一体誰だったんだろうか。
涼子自身、男に対してそこまで好意的な印象を抱いていないように見受けられたが。
心の内に、もやもやとした感情が浮き出てくる。
この感情の正体を、俺は知らない。知らないが故の不快感が、喉元まで這い上って来る。
自分の右手を見下ろす。
昨日、男が涼子の手を握った時、出かかった右手。どうして、あの時、俺は無意識的に行動を起こしていたんだろう。わからない。でも、その行為が間違いとも思えない。あの時、俺は涼子の手を握る男を、振り払おうとしていたのかーー
「どうしたの?」
顔を上げると、世都子さんが心配そうにこちらをのぞき込んでいた。確かに、不自然な仕草だったかもしれない。
「なんでもありませんよ」
笑顔を返して、空いている席に着いた。
いつも通り抹茶ラテを注文して、それを飲みながら涼子を待つ。
だけど、約束の十時を三十分過ぎても、彼女は現れなかった。
流石におかしい。
脳裏に、嫌なイメージが浮かび上がっていた。
その不安な思い付きを振り払うと、それと同時に世都子さんがカウンターの奥から現れた。
「遅いわね、あの子。何かあったのかしら」
世都子さんもどこか不安げだった。いつもなら遅刻することなどなかったから、当然とも言える。
「わかりませんが、取り敢えずもう少し、待ってみましょう」
そう言う俺も内心で、不安感が募っていた。
結局、十一時まで待ってみたが、涼子が現れることはなかった。
十一時を示す掛け時計を目にして、俺は細く息を吐きながら、腕を組んだ。
約束の時刻から、すでに一時間が経過していた。
今まで涼子と関わってきて、彼女が遅刻したことは一度たりともない。
それ故に、俺の内心は不安と焦燥で満ち満ちていた。
どうして来ない。
来る途中で事故にでも巻き込まれたのか。それともただ単純に寝坊しているだけなのか。
そこまで考えて、昨日の出来事がまた思考をかすめる。
あの男のことについて、意識的に思索から追い出している自分がいた。
そのことを考えると、どうしても不快感に駆られるというのもあるが、
それ以上に、あの男が、俺にとって福音になるとは考えられなかった。
むしろ、俺と涼子の関係を終わらせてしまうような、
そんな負の予感が、脳裏を闊歩していた。
「涼子、来ないわね」
気が付くと、世都子さんが俺の座るテーブルのところまで来ていた。
全然気が付かなかった。
それほどまで深く、俺は思考の海に沈んでいたらしい。
世都子さんは、先ほど以上に心配そうな表情で、俺の前に立っている。
「今、あいつの家に行こうか悩んでます」
涼子の自宅を訪れることは、決して正しい選択肢とは思えない。
だけど、彼女の安否を確かめるうえでは、最上の方法ではある。
俺の発言を聞いた世都子さんは、どう返したらいいか悩んでいる風だった。
そして、
「あんまり、行かない方が良いと思うけど......」
そう、小声で言った。
俺は、無言を返事にした。
涼子の家に行かないことで、何か重大な真実を知らずに済む気がした。
だが、このまま放っておいたら、二度と涼子と会えない気もするーー
「......行ってみます、あいつの家に」
それを聞いた世都子は、黙り込んだ。
しばらくの沈黙の後、
「わかったわ。いってらっしゃい」
それを聞いた俺は、お代をテーブルに置いて立ち上がる。
そのまま無言で店先まで出たが、
「新くん」
世都子さんが声をかけてきた。
「どうかしましたか?」
振り返って、続きの言葉を待つ。
「何があっても、ここにはいつでも来て良いんだからね」
そう言って、世都子は笑顔を見せた。
その言葉は、世都子さんにとっての、最大限の優しさに思えた。
俺はうなずき返して、店を後にした。
涼子の家は、前来た時と同様に、静謐な空気を纏っていた。
大仰な門構えは、俺の心象のせいか、以前よりもっと大きく見える。
門の端に設置されているインターホンに近づく。
軽く深呼吸して、心を落ち着ける。
そして、一思いにインターホンを押した。
軽快なサウンドが、周囲に響く。
「どなたですか?」
インターホンから声が聞こえた。涼子ではない。恐らく彼女の母親だろう。
「広瀬新です。涼子さんの友人の」
涼子の母親はインターホン越しに、明らかに態度を急変させた。
「涼子は今、用事があって出られません」
ぴしゃりと、そう拒絶される。
「そうですか。昨日約束をしたんですが、急用ですか?」
あくまで冷静を保って、静かに尋ねる。
「約束とは、なんのことですか?」
どう答えようか迷ったが、
「遊ぶ約束のことです」
正直に用件を伝えた。
それを聞いて、母親はあからさまなため息を吐く。
「広瀬さん。お帰り下さい。涼子はあなたに会いたくないのですよ。わからないのですか?」
予想外の言葉だった。
「会いたくない?涼子さんがですか?」
涼子が会いたくないなんて言うだろうか。
「そうです。こんな大事な時期に男と遊んでいたことを反省して、もう外に出ないと誓ったのです」
「ーーそうですか」
嘘だ。そう思った。
涼子の母親は、俺に嘘を吐いている。そういった確信があった。
涼子がそんな理由で俺と会いたくないなんて、言うはずがない。
俺はこのふざけた母親を、どうやって論破してやろうか思考を巡らす。
涼子を出汁にとった嘘に、俺は自分が考えている以上に苛ついていた。
取り敢えず嘘を吐くなと言ってやろうとした瞬間だった。
「涼子!お待ちなさい!」
慌ただしい物音が、インターホン越しに聞こえて来る。
母親の言葉から、涼子だということがわかった。
そして、すぐに門が開いた。
「新!」
涼子だった。走ってきたようで、荒く呼吸を乱している。
「涼子!どうしたんだ?」
涼子はこちらを見ると、駆け寄ろうと前傾姿勢になったが、
後ろから、何者かに腕を掴まれた。
「待ちなさい」
目の前に、壮年の男が現れる。年齢的にも、涼子の父親だろう。
「お父さん!」
涼子は抵抗するが、父親の腕を振り払うことはできない。
「母さん、涼子を。それと、ミサキくんを呼んでくれるか」
そう言って、父親は涼子を後から追いついた母親に受け渡した。
母親は涼子を家の中へ連れて帰る。
去り際に、涼子が絶望に満ちたような目でこちらを見た。
そうして、俺は父親と二人残された。
この男から、ものすごい重圧を感じる。その場にいるだけで、冷や汗が出そうだ。
だけど、委縮することはない。俺も冷静さを見失わずに、父親と向き合った。
「きみが、広瀬くんだね?」
父親が口を開いた。威圧するような、そんな声色。
「ーーはい」
明らかにこちらを圧迫してきている。いかにも大人らしい態度に、俺は不快感を覚えた。
父親は眉間に皺を寄せた。
「はっきり言って、こちらとしては迷惑なんだよね。きみがいることは」
迷惑と言いやがった。勝手に涼子を巫女に選んでおいて、どの口が言うんだ。
「それは、巫女の練習ができない、という意味ででしょうか?」
嫌味のつもりで、そう返した。
だけど、彼の返答は、予想だにしないものだった。
「それだけじゃない。ーーやはり、聞いていないのか」
父親は溜息を吐いた。
聞いていないのか。
その言葉が、背筋を冷たく撫でる。非常に嫌な予感がした。
そうすると、俺たちの前に昨日見た若い男が現れた。
心臓が、早鐘を打つ。
この場にはいてはいけない。そう感じた。
知ってはいけない決定的な事実を、知ってしまう気がした。
父親が口を開く。どうしようもなく耳を塞ぎたい気分だった。
「涼子はね、夏祭りの儀式で、このミサキくんと結婚するんだよ」
一瞬、世界が完全に静止した気がした。
空を漂う白い雲も、騒がしく泣き続けるセミも、吹き抜ける野暮ったい風も、すべてがこの瞬間だけは、止まったように思えた。
「もともと、ここの夏祭りは縁結びの意味があってな。毎年巫女に選ばれる娘は、伝統的に結婚を前提にしてのことなんだ」
父親が何か言っていたが、その言葉は、耳元を虚しく通り抜けていった。
「だから、結婚前の娘が、他の男と遊ぶのはおかしいだろう?」
絶望。
その一言が、これ以上似合う状況は、これまでも、これからも、一切ないだろう。それほどまでに、俺は打ちのめされていた。
涼子が、どうして自殺しようとしていたのか。その理由が、ようやくわかった気がした。
子どもでいたいという本当の意味も、
この夏までしか子どもでいられないという、本当の理由も、
この瞬間、初めて理解できた。
「そういうことだ。もう涼子には近付かないでくれ」
そう言って、父親はミサキと呼ばれた結婚相手の男を連れて、門を閉じた。
俺は呆然としたまま、その場に立ち尽くすしかなかった。
「ただいま」
失意の中、俺はとぼとぼと家に帰ってきた。
俺の帰宅を知って、祖父が顔を出す。
「おかえりーーなんか、元気ないな?」
見るからに元気がなかったらしい。そこまで調子悪そうに見えるだろうか。
「そんなことないよ」
だけど、俺の返答は、自分でもわかるくらい声が小さかった。
「何かあったのか?」
その質問には答えず、俺は数日前の祖父とのやり取りを思い出しながら、
「ねぇ、夏祭りの巫女に選ばれることって、誰かと結婚するってことなの?」
祖父はそれを聞いて、驚いたようだった。
「まさか、知らずに水野の子と遊んでたのか?」
なるほど、下手に手を出すなとは、こういうことか。
その意味を知って、さらに沈んだ心持ちになる。
祖父はこちらに、同情するような視線を向けてきた。
「そうか......」
なにか励ますでもなく、そう一言だけつぶやいた。
それが、今はどうしてもありがたい。
祖父の横を通り抜けて、俺は自室に戻ることにした。
俺は自室の床に布団を敷いて、何時間も横になっていた。
外はもう夕暮れになっていて、橙色の空が儚げに見える。
涼子が死のうとした理由。
それは、青い目も理由としてはあるが、直接的な原因ではなかった。
この町の風習である、巫女の儀式。
それは縁結びの意味があり、演舞を行う巫女は、結婚を控えている娘の中から選ばれる。
涼子の言う、子どもでいたいという意味。
それは、ミサキとの結婚を示唆していた。
涼子は、まだ結婚などしたくないのだろう。だから、結婚が正式に成立する儀式が行われるより前に、自殺しようとしていた。
そこで俺は、彼女の自殺を阻止してしまった。
当時はそれが正しいことだと思えたが、今は違う。
俺は、彼女の自由を奪ってしまった。
死の救い、という言葉がある。涼子は自分の生きる世界に絶望し、自らの生命を絶つことで自由になろうとした。
それが、涼子にとっての、唯一の救いだったから。
俺は、それを止めてしまった。無責任にも、彼女にとって過酷な世界で、まだ生きろと残酷な運命を突きつけてしまった。
俺は、正しくなんてなかった。生き続けることが正しいなんて、そんなこと、偽善者の戯言だ。死ぬことで救われることだって、この世にはあるんだ。
子どもは、大人に勝てない。大人に、従い続けるしかない。
そう言ったのは涼子だ。その呪縛から逃れるには、死ぬしかない。
だけど、俺が助けてしまった。だからもう死ぬことができないと悟った涼子は、結婚までの間だけでも、子どもでいたいと願った。
それがたとえ儚い願いだとしても、
彼女にとっては、一生分の祈りを込めたものだった。
俺は、涼子と過ごした日々に、自分には有り余るほどの意味が込められていたことを知った。
俺は彼女に、なにかしてあげられただろうか。
俺は彼女と触れ合って、自分の意思で生きる意味を知った。自分の想いというのが、生きていくうえで一番大事なものだと知れた。
だけど、涼子は俺との関わりで、なにか得られただろうか。
わからない。
わからないけど。
彼女との約束、夏の間だけは、子どもでいるという約束。
それがもう果たせないことは、明らかだった。
俺は思った。
この世界は、
どうして、こんなにもうまくいかないんだろう。
溢れだす後悔の波に呑まれていると、
じりじりと、下の階で音が鳴った。
電話の音だ。
バタバタと、祖父か祖母のどちらかが、電話に駆けつける音が響く。
そして、静寂。
「新ー!」
祖父の声だ。だけれど、起き上がる気力はなかった。
また、どうせ母だろう。この前の喧嘩の続きをするつもりか。
「どうしたの」
めんどくさい気持ちに駆られながらも、小さく返した。
「水野さん家からだ」
世界の時間が、再び動き出した気がした。
布団から飛び上がり、階段を駆け下りる。
涼子だ。
その確信があった。
電話機の目の前まで来ると、俺は祖父から受話器をひったくる。
「涼子か!」
受話器の先で息を呑む声が聞こえる。
それで、やっぱり涼子だということがわかった。
「大丈夫か?心配したよ」
安堵で、胸をなでおろす。なによりも、彼女ともう一度話せるのが、とても嬉しい。
「うん......」
涼子は意気消沈しているようだった。声に張りがない。
無理もないだろう。結婚の件は、俺に隠していたみたいだし、その後も、親と喧嘩したんだろう。
俺は何を話せばいいか迷ったが、
「そのさ、結婚の件だけど」
率直に、目下の大問題について、尋ねることにした。
涼子はそれを聞いて、
「ごめんね......ずっと、黙ってて......」
そうとぎれとぎれで謝った。
涼子は、泣いているようだった。
「泣かないでよ」
こっちまで、泣きそうになってくる。
「ごめんね......新」
何を返せばいいか、俺にはわからなかった。
「電話したのはね......今から少し会って話したいからなの」
ドクンと、心臓が跳ねた。
「会えるのか?」
「夜になれば、お父さんとお母さん寝ちゃうから......その間なら」
「わかった」
即答する。
「何時ごろ?」
「十時過ぎに......美瑛高校で」
「わかった。待ってるから、泣かないで」
「ごめんね......私、新を騙してた......」
「騙してなんかない。とにかく、また後で」
涼子が返事をしたのを聞いて、受話器を置いた。
なんとか、会って話ができることに安堵する。
「なんだったの?」
祖父が恐る恐るといった感じで聞いてきた。
「いや、大したことじゃない。――今までありがとうって」
「そうか......」
祖父はそれだけ言って、リビングに消えていった。
俺はこの夏で、だいぶ嘘を吐けるようになっていた。これが、子どもらしいか大人らしいかは、よくわからないが。
でも、俺の内心では、青い炎が燃え上がっていた。
このままでは終わらせない、できる限りのことはしよう。俺にできることはすべて。
そう思った。
夕食を食べて、風呂に入り、寝るフリをした俺は、祖父母が寝に入ったのを見計らって、外に出た。
昼間とは違ってかなり肌寒い。
しかし、上着を取りに帰っている時間はないので、そのまま美瑛高校を目指すことにした。
夜十時前。
美瑛高校に着くまでの間、心の中は焦燥感に包まれていた。
早く涼子に会って話をしたいという思いが、自分を焦らせている、それだけはわかった。
しばらくして、美瑛高校が見えてきた。
暗がりで見えにくいが、校門の前に、女性らしき姿が見受けられた。
「遅い」
涼子はいつもの調子で、校門に背を預けていた。
「約束の時間より五分は早いけど」
そう言うと、涼子は微笑んで、
「私より後に来たんだから遅いのよ」
目の辺りが若干腫れているようだったが、それ以外はいつもと同じに思えた。
多少だが安心する。
「少し落ち着いた?」
「うん。さっきはごめんね」
「今日は謝ってばっかりだね」
「そうかも」
涼子はそう言うと、空を見上げた。
俺もそれに倣って、顔を上げる。
夜空には、満天の星々が煌めいていた。田舎なので、電灯などによる妨害がないため、かなり綺麗に見える。
星たちは、俺たちの状況などお構いなしに、皮肉っぽく輝いている。
「私ね、結婚するの」
涼子が切り出した。
「うん」
「相手はね、ちょっと有名な商社の息子さんなの」
あの男、確かに育ちだけは良さそうだった。
「そっか」
「私ねーー」
涼子がこちらに顔を向ける。
「まだ、結婚なんてしたくないの」
その顔を、涙で汚しながら。
「私はね、結婚なんて、もっと色々なものを見て、自分を広げて、その後に好きな人ができてから、考えたかったの」
「ーーうん」
「それとね、私、ミサキさんに嫌われてるの」
「どういうこと?」
「あの人はね、私の目が嫌いなの。初めて私と会った時、私の目を見て顔をしかめたわ。あ、この人も、私のこと嫌いなんだって」
悲痛な叫びだった。
「涼子......」
「おかしいよね、私は結婚したくなくて、相手も私が嫌いで。そんなんで結婚して、何になるっていうのよ」
俺は涙を流す涼子を、ただ辛い気持ちで見つめているしかなかった。
「私の家はね、地元では結構力のある地主なのよ。でも一人娘が忌子だったから、さっさと結婚させて、手放したいのよね」
もう何も言えなかった。娘の結婚も、親の都合のためだったようだ。
怒りより、悲しみが胸を埋めていた。
「だからね、私は死のうと思ったの。こんな世界で汚い大人になるくらいだったら、死んでやろうって思ったの」
「涼子ーー」
「でも、死ななくて良かったって、今は思ってる」
「どうして?」
涼子は悲しげな笑顔を見せると、
「あなたと過ごす夏休み、本当に楽しかったから。私の目を褒めてくれたの、新が初めてなの。――だからね、この夏が、今までで一番楽しかった。私にも幸せがあるんだって、そう思えたから」
涼子は頭を下げた。
「だから、ありがとう。本当にありがとう。あなたのおかげよ。……これだけは伝えたかったの。あなたが、私に生きる希望を与えてくれたのよ」
その先に、絶望しか待っていなくとも。
涼子は、この世界で生きるしかない。
「そんな希望......」
俺はそんな世界、認めたくなかった。
「間違ってるよ。この世界は!」
俺は吠えた。
「俺だって、親の言いなりだったんだ。ずっと勉強して、それだけをやってきた。だけど、そんなの間違ってた。親に従い続けるなんて、ただの奴隷じゃないか!」
涼子は悲痛そうな笑顔を浮かべて
「子どもはね、大人と違って無力なのよ」
涼子と二度目に会った時と同じ言葉。
「三日後の夏祭りで演舞をするから、良かったら見に来てね」
「涼子ーー」
「今までありがとう。これで、さよならね」
涼子は背を向けた。
「ーーごめんね、新」
そう言うと、涼子はこちらに振り返ることなく、走り去っていった。
追おうと思って、身体を動かそうとしたが、うまく足が動かない。
涼子の背中が遠くなっていく。
それでも俺は、絶望に打ちひしがれて、動くことができなかった。
7
あの夜、涼子と言葉を交わしてから、俺はわずかな希望を持って、世都子さんのカフェに通い詰めるようになった。
涼子の絶望。それは俺の想像をはるかに超えるもので、自分の無力さを痛感した。
彼女の言う通り、子どもは無力だ。大人と対等に渡り合おうなど、夢のまた夢。子どもはただ、大人に従い続けるしかない。そういった諦念が、俺の胸を埋めていた。
あの、青い瞳。彼女の持つ唯一性が、悲劇を招いている。目が青いことで、彼女はこの土地で忌子扱いされ、若いうちに厄介払いのごとく嫁に出される。彼女の運命は、どうしたって灰色だった。
涼子を待ち始めて二日が経過した。
だけど結局、彼女は一度も世都子さんのカフェに顔を出さなかった。
来ないんじゃなく、来れない。
そんな風に感じた。あの夜のやり取りで、俺たちの関係は、どこか途切れてしまったのかもしれない。涼子はもう諦めて、大人しく親の決めた結婚に従うつもりなのか。もう、俺たちはすれ違ったまま、それで終わりなのか。
抹茶ラテに口をつける。これも涼子のお気に入りだった。この店には、彼女との思い出が多すぎる。その事実が、俺の胸の内をさらに締めつけた。
抹茶ラテは、味がしなかった。抹茶ラテだけではない。俺はここ数日、飲食に関して味を感じなくなっていた。恐らく涼子の件に関するストレスだろうが、ものの味がしなくなるのは人生で初めてだった。
「新くん、大丈夫?」
顔を持ち上げると、世都子さんが不安そうにこちらの顔をのぞき込んでいた。傍から見ても、芳しくない状態らしい。あまりそういった自分の状況は悟られたくない性分だったが、今回ばかりは隠す気力も湧かなかった。
「涼子、来ないわね」
「――そうですね」
世都子さんは涼子が来ていないか確かめるように、窓の外を眺めていた。
そういえば、涼子と世都子さんは仲が良かったはずだ。なら、涼子の結婚の件についても、知っていて当然に思えた。
黙っていたのは、俺にだけみたいだし。
「世都子さんは知ってますよね、結婚のこと」
世都子さんはハッとしたように、こちらを見た。
「ーー黙ってて、ごめんなさい」
世都子さんは深々と頭を下げた。
「良いですよ、気にしないでください」
世都子さん自身も、涼子の事情を知っていて、俺たちの関係性を黙認していたんだろう。世都子さん自身に責めるべき落ち度はない。むしろ、これまで俺たちを見守ってくれていたんだ。大人といっても、どちらかと言えば俺たちに近い人だった。
「いつ知ったの?」
涼子の結婚についてだろう。
「ちょっと前です」
「そうーー」
世都子さんはそう言うと、いつも涼子が座っている席にーー俺の向かい側の席に座った。
「なら、あの子が結婚したくないことも知ってるわね?」
「......はい」
「あの子、結婚が決まった時、ここに来て泣いてたのよ。私、まだ結婚なんてしたくないって。もう私、どうしたら良いかわからなくて」
その風景を想像して、胸が締めつけられる。
「でもね、ご家族が決めたことに、部外者の私がどうこう言うわけにもいかないじゃない?」
「まぁ、そうですね」
子どもじゃなく大人の世都子さんでも、どうすることもできない。
ならなおさら、俺になんて何もできない。
「涼子が言ってました。子どもは大人には勝てないって。従うしかないんだって」
「そうね、子どもは確かに大人に比べて色々な力が足りない。社会的立場だったりね。だけどーー」
世都子さんはこちらを見据えた。
「子どもにしかできないことも、あると思うのよね」
子どもにしかできないこと。
「どういうことですか?」
世都子さんは俺の問いかけに応えず、ただ微笑んだ。
「ここからは、新くん一人で考えるのよ。大丈夫、きっとわかるわ」
そう言うと、世都子は席を立った。
残された俺は、釈然としなかったが、この事態を解決するに足るヒントを得られたような、そんな気がした。
それから、俺は世都子さんの言葉の意味について考えた。
子どもにしかできないこと。
大人にはできないこと。
普段勉強している以上に頭を振り絞って考えてみたが、答えはわからなかった。
こういう時、なんで肝心な時に、鍛えてきた頭が働かないのか。
自分の無力を呪いながら、それでも考えた。
だけど、答えが出る前に、夏祭りの当日を迎えることになってしまった。
夏祭りの当日まで、涼子に出会うことはなかった。
祖父に聞く話、毎年巫女に選ばれた女性は、夏祭りの直前になると神社で演舞や儀式の練習をするらしい。だから涼子も例にもれず、神社で練習しているんだろう。
だけど、俺に会いに行く勇気はなかった。情けないと言われればそれまでだが、今の段階で涼子にあっても、事態を解決することは不可能だろう。涼子のためにできること。それがわかるまで、俺は考え続けていた。世都子さんのヒントを、どうしても解き明かしたかった。
だから、夏祭りの当日になっても、涼子の演舞や儀式が始まるまでは、自室で頭をひねっていた。
ふと、部屋のドアがノックされる。
「新。俺たちは挨拶もあるから、先に祭りに行くけど、どうする?」
まだ祭りに行くには早い。一人で祭りを楽しむことなどできるはずもないので、俺は断ることにした。
「後から行くよ」
「わかった。来るとき気を付けてな」
祖父が階段を降りる音が聞こえた。
その後も世都子さんに言われた言葉の意味を考えたが、俺にはどうしてもわからなかった。
そうしているうちに、窓の外が夕暮れに包まれていった。
疲れた頭で、掛け時計を目にする。
午後六時。
確か涼子の演舞は七時からなので、そろそろ家を出なければ間に合わない。
結局、世都子さんの言葉の意味はわからなかった。
このままではいけない気もしたが、涼子に言われたから演舞だけは見たい。
そう思って、俺は部屋を出た。
太陽が西に沈み始めている。
そんな中、俺は一人月の瀬にある神社を目指した。
歩いている間、雪の下では誰とも遭遇しなかったが、大橋を渡って月の瀬に入った途端、観光客らしき姿が散見された。数はそこまで多くはないが、賑わいを見せている。
俺もその列に加わって、神社を目指した。
神社は人でごった返していた。
暖色に明りを灯す提灯たちが、浴衣を着込んだ人影を照らしている。
そのぼんやりとした明りのせいで、俺は現実感を失っていた。
地に足のついていない浮遊感に包まれながら、俺は群衆の中を行く。
どうやら家族連れが多いみたいだが、縁結び目当てか、若い男女もよく見受けられた。そのせいで若干憂鬱な気分になる。
何を思うでもなく屋台を眺めながら歩いていると、その中に世都子さんを見かけた。
「あ、新くん!」
世都子さんもこちらに気が付いたようで、手を振ってきた。
「世都子さん、これは?」
世都子さんは屋台の中にいた。
「稼ぎ時だからね。住吉さん出張店舗よ」
商品を見た限り、軽食と飲料の販売を行っているらしい。
「何か買ってく?」
別に飲んだり食べたりする気分じゃなかったが、世都子さんにはお世話になってるし、何か頼むことにした。
掲示されているメニュー表を見て、俺はあの名前を見つける。
「抹茶ラテで」
俺の注文を聞いた世都子さんは、少し目を細めて、寂しそうな顔をした。
「ーー抹茶ラテね、ちょっと待ってて」
待つまでもなく、すぐに抹茶ラテが出てきた。
「百円よ」
「いつもより安いですね」
「夏祭り特別価格。いっぱい買ってもらえるようにね」
世都子さんは笑顔に戻っていた。
俺は曖昧に笑みを返した。
「涼子の演舞は、七時からよ。ーーそれと」
世都子は言いにくそうに、
「儀式は、八時からね」
心臓の鼓動が高鳴った。
「ーーはい、ありがとうございます」
あくまでそれを悟られないように、俺は感謝を伝えて、世都子さんの店を後にした。
しばらく屋台を回っていたが、人混みが苦手なのもあって、すぐに疲れてしまった。それで休憩がてら会場端の石段に腰掛けていると、神社の奥の方に人が集まり始める。
腕時計を見た。
午後七時。
涼子の、演舞の時間だった。
神社の境内の中心には、大きな壇上が設けられていた。
そこは装飾が施されており、荘厳な雰囲気を醸し出している。
俺は人混みの後ろの方から、一人でそれを見ていた。
演舞を待っているのは、どちらかと言うと年を召された方が多かった。
伝統の演舞だとされているし、老人の方が関心を持っているのかもしれない。
すると、太鼓の音と共に、檀上の中に設けられていた和楽器が奏でられる。
それと合わせるように、白い巫女服に身を包んだ女性が、壇上に登った。
涼子だ。
彼女は、鈴のような道具を持って、ゆっくりと壇上の中心に向かっていく。
そして、彼女は中心に辿り着くと、スッと鈴を持つ腕を上げた。
その手を、サッと振り下ろす。
演舞の始まりだった。
涼子は、太鼓の音に合わせて、鈴を振っていく。
太鼓の音と、鈴の音が、どこか眠りに誘うようだった。
演舞自体は、派手すぎず、地味すぎず、非常に奥ゆかしいものだ。
涼子は、練習時間が足りていないだろうにも関わらず、見る人に完璧を思わせる演舞を行っていた。
彼女の演舞にボーっと見とれていると、ふと音が止んだ。
演舞の終わりのようだった。
周囲から、静かめな拍手が響く。俺も慌てて、手を叩いた。
涼子は俺たちの方に一礼すると、背を向ける。
その瞬間。
俺は涼子と目が合った。
勘違いではない。涼子は、確実にこちらに視線を送っていた。
何を伝えようとしているかはわからなかったが、涼子は覚悟を決めたような、そんな目をしていた。
その後まもなく、檀上は係員によって改修され、儀式の準備が整った。
観衆には、老人たちは引き続き、それに加えて若い男女、カップルと思しき人々が多く現れた。
俺は、儀式自体は見るつもりがなかった。いや、違う。見る勇気がなかった。
結婚の契りを結ぶ涼子を、じっと見ていられる自信がなかったから。俺は演舞が終わったら、そのまま帰ろうかと思っていた。
しかし、演舞が終わった後、その場を離れようとしたら、人が後ろから絶え間なく現れたため、脱出することができなかったのだ。
半ば強制的に、儀式を観覧することになってしまった。
目を背けていたい気持ちで胸が押しつぶされそうだ。涼子の、子どもとしての終わりを見届けなければならないのは、むしろ約束を交わした身としては当然の義務かも知れないが、それでも俺は、この先の涼子の人生を鑑みると、どうしても見ていられない。
涼子の結婚。望まない結婚。
それをどうにかしてあげることのできない、子どもとしての無力感が、唇を強く噛ませた。
ふと、ざわついていた観衆が、口をつぐんだ。
俺はハッとして、壇上の方を見上げる。
司会役の男性(あれはこの前会った神主さんだ)が、壇上に上がって来ていた。
「これより、婚約の儀を開始いたします」
そう言って、一礼した。
婚約という言葉が、脳内に反響する。
現実は、いつだって無情だった。
多くの人々が見守る中、儀式は滞りなく進行していった。
途中、静かに現れた涼子は、白無垢と巫女服を合わせたような服装に身を包んでいた。化粧もしているようで、いつにも増して、綺麗に見えた。
その綺麗さが、胸を容赦なく突く。
あんなに美しく着飾っているのに、涼子は、とても悲しげに見える。
心の底では、望まない結婚という現状に満足していないように。
そういった雰囲気が、俺には感じ取れた。
儀式の様式的には、伝統ある行事と言うより、ただの結婚式を思わせた。
自分は結婚式に出席したことないから確かなことではないが、それでも儀式の様相は、日本式の結婚を想起させた。
段々と辛くなってきたところ、結婚式で言うところの、誓いの言葉の段階まで来てしまった。
「私は、これからの人生、隣にいる涼子のために、誠心誠意尽くすことをここに誓います」
涼子の隣に立つミサキが誓いを述べた。涼子の目に偏見を持っているくせに、よく言えたもんだ。
そして、今度は涼子がそれに応える番だった。
俺は、もう見ていられなくて、目を背けようと顔を伏せる。
結局、俺は何もできなかった。
彼女に幸せをもらってばかりで、何も返すことができなかった。
その後悔の念で、唇を血がにじむほど噛む。
世都子さんのヒントも、解き明かすことができず終いだった。
ごめんよ、涼子。
俺はきみのために、何もしてあげられなかったーー
そんなことを考えていたが、そこで俺は違和感に気が付いた。
恐る恐る顔を上げる。
壇上でこちらに背を向ける涼子は、ミサキの誓いの言葉から時間が経っているにも関わらず、ずっと黙ったままだった。
最初は、セリフを忘れたのかと思った。
だけど、次第にその沈黙は、意図的、もしくは偶発的なものだと感じ取れた。
見守っていた観衆が、ざわつき始める。司会の神主さんも、涼子の隣にいるミサキも、どこか焦っているようだった。
そこで、ふと、何かの音が聞こえた。
小さな、消え入りそうな音。だけどそれは、確かな存在感を示している。
俺は涼子の方を見る。
彼女の方が、小刻みに揺れていた。
そこで、俺は音の正体に感づく。
その音は、
涼子の泣き声だった。
会場にひしめく観衆たちの声が、どよめきに変わる。
神主さんとミサキが、目に見えてわかる形で慌て始めた。
完全に予想外の展開なんだろう。
この場に集った者たちすべてが、涼子の行動に心を乱している。
そこで、不意に涼子が背筋を伸ばした。その仕草に視線を縫いつけられる。
そして、彼女は大きく息を吸い込んだ。
「私は、この土地では忌子と呼ばれています」
凛とした声が、会場を貫いた。
涼子はこちらに背を向けていたが、その声は心の隙間に入り込んで、感情という塊を揺さぶっているようだった。
「ここ、美瑛では、目が青く生まれた赤子は、乳母湯に漬ける前に絞め殺すことが伝統だそうです」
会場がどよめく。
俺は、涼子をただ見つめていた。
「私は運悪く、殺されずに済みました。しかし、その先に待っていたのは、生き地獄でした」
会場の端で、誰かがもがいているのが見えた。
涼子の父親だ。
彼は顔を真っ赤に染めながら、観衆を強引に掻きわけ、壇上を目指しているようだった。
「家族にも地元の方にも、忌み嫌われ、迫害と言っても差し支えないほどの扱いを受けました」
涼子の暗い過去。それを彼女は、ただ率直に打ち明けている。
「この結婚も、私が望んだものではなく、両親が私を混じえず一方的に決めたことです」
気が付くと、涼子の父親は、壇上に辿り着いていた。
「涼子!」
そう言って、涼子の父親は涼子の肩を力強く掴んだ。
しかしそれでも、涼子は涙を流しながら、それに抵抗して、叫んだ。
「目の色が青いからなんですか?結婚は親が決めることですか?私は子どもだからわかりません」
目の色が違うこと。
それが彼女の悲劇の始まりだった。
ただ目が青いだけで、彼女の人生は狂いだした。
たったそれだけの違いで、涼子は死ぬことを選択した。
「涼子!」
涼子の父親は、強引に涼子を黙らせようと乱暴に肩をゆする。
それに抵抗した涼子と父親は、半ばもみ合いのような状況になった。
もう、会場は阿鼻叫喚の様相だった。
それでも、もみ合いながら、涼子はなおも叫んだ。
「私は、まだ子どもです。だから、親に打ち勝つことはできません。子どもは、大人には敵わないんです。でもーー私は大人にはなりたくありません。でも、まだ、私はーーっ」
涼子は叫んだ。
精一杯の感情を振り絞って、誰かに伝えるように、
「子どものままでいたい!」
静止した世界が、一気に動き出した気がした。
涼子の叫びは、俺の内に眠る最後の勇気を奮い立たせた。
子どもでいたいという望み。彼女の最後の願い。
それを果たそうと約束したのは、どこの誰だったか。
涼子はまだ、諦めていなかった。大人になれない子どもらしく、最後の瞬間まで抵抗を続けて、自分の意思を貫こうと必死にもがいている。
その姿は、傍から見たら、醜く、子どものわがままのように映るだろう。
だけど俺には、凛として輝く、常闇に咲く一輪の花のように見えた。
世都子さんの言葉の意味が、ようやく分かった。
子どもにしかできないこと。大人にはできないこと。
それを今から、俺は涼子と一緒に、体現するんだ。
見せつけてやれ、大人たちに。
この美しい世界を、醜く汚した大人たちに。
子どもだけの最後の抵抗を、叩きつけてやれ。
俺は、重心を下げて、走り出す準備を整えた。
呼吸を止めて、一点を見据える。
そして、全速力で、壇上目指して走り出した。
立ちはだかる観衆たちを、お構いなしに跳ねのけていく。
観衆の顔が驚きに染まるが、そんなことに構ってられない。
一瞬で、檀上までたどり着いた。
速度を落とさないまま、パルクールの要領で、壇上の敷居を跳び越える。
壇上には、突如として襲来した俺に、呆気に取られているようだった。
その中で、涼子だけは顔を輝かせている。
「新!」
涼子のところまで駆け寄る。
そこには、憤怒の形相でこちらを睨みつける彼女の父親もいた。
「貴様!涼子に何を吹き込んだ!」
彼は涼子から手を放し、こちらに掴みかかってきた。
しかし俺は低姿勢から放つ突進で、それを吹き飛ばした。
「少し、お借りします」
体当たりをお見舞いした無礼などなかったように涼やかにそう告げて、涼子の手を取った。
涼子は、俺の手をしっかりと握り返してきた。
そのまま涼子の手を引いて、檀上から飛び降りる。
そして俺は、観客たちを押しのけて、神社の境内を、涼子の手を引きながら走った。
怒声と、驚嘆の声を背後にして。
俺と涼子は神社を出た。
神社から逃げ出して闇雲に走っている間、涼子はずっと笑っていた。
悪夢から目覚めて、それに安堵して笑う子どものように、
心の底から、笑い声を上げているようだった。
月の瀬には、人の気配がない。基本的にみんな夏祭りに顔を出しているからだろう。でも、今はそれがありがたかった。白無垢を着込んだ娘が男に連れてられて走っているなんて、奇想天外な光景だろうから。
走り疲れて、呼吸を整えるために一度立ち止まった時、
「ねぇ、行きたいところがあるんだけど」
涼子が俺の前に立った。全力で走ってきたから、涼子も息が上がっていたが、それでも笑顔を浮かべている。
「どこ?」
「あっち」
涼子が指をさしたのは、神社のある山の方だった。
「あそこに戻るの?」
今戻ったら、あの親父に捕まるだけだと思うが。
「違う違う。とっておきの場所があるの」
そう言って涼子はウィンクをした。
詳細はよくわからなかったが、断る理由もない。
そして、俺たちは神社のある山の方に戻っていった。
涼子が向かったのは、神社に続く石段とはまったく逆の獣道だった。
周囲はもう夜の帳が下りており、明りも大してないから、かなりの暗闇に包まれている。
この獣道を進んでいくらしいが、涼子は今白無垢を着ている。このままでは登ることは難しいだろう。
同じ思考をしていたのか、涼子が白無垢の袖を掴んだ。
「脱ごっかな」
「え?でもーー」
着替えなんて持って来ていない。
「大丈夫よ、少し軽くするだけだから」
そう言って、涼子は何を思ったのか、俺の目の前で白無垢を脱ぎだした。
慌てて、パッと後ろを向く。
すると、涼子がクスクスと声を抑えて笑い始めた。
「すけべ」
「違うよ!」
俺は涼子が着替え終わるのを待った。
そして、暗闇の中ではぐれないように俺たちは手を繋いで、獣道を登った。
涼子は白無垢の大部分を剥ぎ、ふもとに棄てておいた。結構高価なものだと思ったが、背に腹は変えられない。
周りが暗闇に包まれているのもあるが、木々のせいでさらに視界も悪い。手を繋いでいないと、本当にはぐれてしまいそうだ。
「ねぇ、どこに行くの?」
少しだけ不安に思って尋ねる。
「着いてからのお楽しみ」
そう言って笑う涼子。
それ以降会話はなかったが、俺は涼子が隣にいてくれるだけで、どんな困難でも打ち勝てる気がした。
この暗闇の中でも、二人でなら、迷わずに歩ける気がする。
しばらく歩いていたが、少し傾斜がなだらかになったところで、急に木々が途切れて、視界が開けた。
そこは、山の頂上のようだったが、それ以上に目を惹くのは、
眼前に広がる、広い湖面だった。
山頂湖というものだろうか。左右に広がった湖面は、月明りを受けて涼やかに輝いていた。
その風景はとても幻想的で、
「綺麗だ......」
思わず声が漏れてしまった。
「でしょ?ここ、秘密の場所なのよ、私の。――辛いとき、よくここに来たの」
秘密の場所。辛いとき、来ていた場所。涼子には、どれほどの苦難があったんあろう。そのたびに、何度、ここを訪れていたんだろう。
「誰かを連れて来たのは初めて」
こちらに顔を向けてえくぼを見せる。
「そうなんだ」
しばらく、二人で湖面を見つめる。確かに、この景観を眺めていたら、さざ波立った心が落ち着いていくようだった。先ほどの大盤振る舞いの熱も、少しずつ冷めていく。
そんな風にボーっとしていると、
「ね、ちょっと踊らない?」
涼子が突然言い出した。
「踊るって?」
「そのまんまの意味よ。ダンスダンス」
涼子はそういうと、こちらに手を差し伸べた。
「俺、踊りなんてできないよ」
フォークダンスなどの経験もない。しかも涼子と踊るとなると、緊張が先走る。
「私だってできないわ。見様見真似で良いのよ」
なおも譲らない涼子に、俺は諦めて付き合うことにした。
涼子の手を取る。
そして、俺たちは月が照らす湖面の前で、ぎこちなくだが踊り始めた。
傍から見たら、ヘンテコな踊りだっただろう。だけど踊っている間、涼子はずっと笑っていたし、俺自身も、とても楽しかった。
現実味のない時間。
だけど、俺たちは確かに生きている。握りしめた手のぬくもりを、しっかりと感じられている。だから俺たちは、きっと大丈夫。これからも、どんな苦難が待ち構えていようとも、二人なら、生きていけるはずだ。
涼子の笑い声が、湖に響き渡る。
俺たちは疲れ果てるまで、ずっと踊り続けた。
満天の星空が、視界を埋めていた。
あれは、確か学校で習った。夏の大三角だ。
都会では味わえない、自然の美しさ。
俺たちは踊り疲れて、湖の手前にあった芝生に横たわった。そして、見上げるままに夜空を眺めている。
お互いに、無言だった。
むしろ、言葉なんていらないのかもしれない。俺たちは今、心の底で繋がっている気がした。だから、言葉なんてなくたって、お互いを分かり合えるように思えた。
「どうして、こんなにもうまくいかないのかしら」
涼子がポツリとつぶやいた。
「まだ十八年しか生きてないけど、それでも世界は残酷で、生きていくのがとっても辛いーー私なんて、生まれて来なければ良かった」
涼子の世界。それは今まできっと灰色で、生きていて楽しいことなんて、決して多くはなかっただろう。
「でも俺は、涼子がいることで、救われたよ」
自分の意思で生きること。自分の思ったように、行動すること。それが、どれほど大事で、尊いものか、知ることができた。それは、間違いなく涼子のおかげだ。
「親に抵抗しても良いんだって、そう思えたんだ。俺たちはまだ子どもで、大人に勝つことはできないけど、それでも、子どもらしくわがままを押し通そうとすれば良いんだーーそれが大人にはない、子どもの特権だ」
大人にはない、子どもの力。
子どもらしさそのものが、俺たちの力だった。
涼子はそれを聞いて、ゆっくりうなずいた。
「だから、結婚なんてしたくないって言えばいい。納得してもらえなくても、しつこくても良いから、言い続けるんだ」
涼子はそれを聞いて、もう一度天に顔を向けた。
満天の星空が、俺たちを見下ろしている。
「新」
「何?」
「ありがとう。あなたのおかげで、私は死なずに済んだし、子どもで居続けることができた。あなたがいなければ、私はこんなに楽しい夏休みを知らなかった」
涼子はそう言うと、こちらに向き直った。
「だからね、さっきのは、私最後のわがまま。自分の気持ちを偽らずに叫んだ。大人になりきれないままの私の、最後の思い」
「涼子?」
「だからね、私はーー」
涼子が、ゆっくりと告げた。
「もう、大人になります」
そう言って、涼子は涙を流した。
一瞬、意味がわからなかった。
「この青い目のことで、忌子扱いされても、文句を言わずに我慢します。お互い望まない結婚でも、私はあの人のために尽くします」
何を言っているんだ。
「もう、子どもではいられないから。私は、大人になります」
涼子が、大人になってしまう。子どもから、大人になってしまう。
「だめだよーー」
俺は、叫んでいた。
「だめだよ、大人になんかなっちゃ!涼子はまだ子どものままで良いんだよ!目のことでいじめを受けたら抵抗して良い!無理矢理決められた結婚なんてしなくて良いんだ!そんなの、間違ってる!」
自分でも、何を言っているのかわからなかった。それでも、俺は叫び続けた。
「涼子は俺に、自分の意思ってものを教えてくれたんだ!自分の意思で自分を決めることが正しいんだって、そう教えてくれたじゃないか!いつまでも子どもで居続けて良いんだって!なんで、それを教えてくれた涼子が大人になっちゃうんだよ!涼子は大人になんかならないでよ!いつまでも、子供でいてよ......」
頬を、熱い涙が伝った。
涼子は俺の頬に手を伸ばして、涙を拭ってくれた。
「本当に、ありがとう。私のわがままを聞いてくれて。子どもでいたいっていう願いを叶えてくれて。でもね、もう良いの。私はもう十分幸せだったから。この夏が、私にとっての一生分だから。だからね、もういいの。約束は、ここまでで良いから」
涼子が、笑顔を浮かべる。涼子が遠い。遠く、なってしまう。
「だからね、新は私の分まで、自由に生きてね。自分の意思で、自分の道を決めるの。そうすれば、これからだって幸せだよ?」
でも涼子は?涼子はどうなんだよ。俺が幸せになったとしても、涼子が大人になっちゃ、それじゃ意味ないんだ。
「違う、違うんだよ……涼子が、涼子が幸せにならなきゃ、意味ないんだよ......俺じゃなくて、涼子が......」
どうして、世界はこんなにも、うまくいかないんだろう。
こんなにも健気で、優しい女の子が、目の色が他と違うだけで、迫害されて、無理矢理結婚させられなきゃいけないんだ。
そんな世界、間違ってる。絶対に間違ってる。
涼子こそ、幸せにならなきゃいけないんだ。これまで辛かった分、これからの人生は楽しくなきゃおかしいんだ。
だから、なんで、
そんな、笑顔をするんだよ。
泣き続ける俺を、涼子が優しく抱きしめた。
それは、泣く子どもをあやす母親のような。
そんな、決して交わらない俺たちの、最後の会話だった。
8
その後、神社に戻った俺たちは、関係者から尋常じゃないほどのお叱りを受けた。
それも当然と言えよう。だって、何十年単位で続いている伝統ある儀式を、初めてぶち壊した張本人たちなのだから。
特に、涼子の父親の俺に対する怒り方と言ったら形容しがたいものがあった。何度殴られたかわかったもんじゃなかったが、涼子が父親を必死に止めて、何とかその場は(顔中あざだらけになったが)収まった。
それは、涼子自身が、結婚を認めたからというのもある。彼女は両親、ミサキに丁寧に謝罪すると、もう自分に結婚に対して抵抗する意思がないことを伝えた。それは彼らにとって、とても都合のいいものだった。結局、涼子は夏が終わるとミサキの実家に嫁入りすることが正式に決定した。
まぁ、涼子がこの町を去るよりも、俺がいなくなる方が先だったが。
俺はその後、祖父母の家で過ごした。
涼子に言われた通り、自分だけは子どもでいたいと思って、勉強は引き続き一切しなかった。自宅に帰ってから、何を言われたものかわかったもんじゃないが、そんなこともうどうでもよかった。
ただボーっと部屋でくつろぎ、時間が過ぎるのを待った。
そうしているうちに、東京へ帰る日になった。
部屋の整理がようやく終わり、一息つく。
二週間ちょっと世話になったこの部屋にも、これでおさらばだ。
ボストンバッグを持って、下の階に降りると、祖父母が待っていた。
「準備できた?」
祖父が尋ねてきた。
「うん」
「寂しくなるね」
祖母は本当に寂しそうだった。
「また来るよ、きっと」
そう言って、俺たち三人は美瑛駅を目指した。
外は、清々しい晴天だった。
この田んぼ畑も、ようやく見慣れ始めたと思った時にさよならだ。
少し寂しい気もしたが、逆に東京に戻れば、そちらの方が自然に感じるかもしれない。
そんなことを思いながら、駅を目指した。
駅の改札口の前で、俺は祖父母に頭を下げる。
「短い間だったけど、お世話になりました。それと、ご迷惑をおかけしました」
夏祭りの事件については、祖父母にも迷惑をかけてしまった。
「良いんだよ。すごく驚いたけどね。俺も、少し考えさせられたよ」
祖父がそう困ったように笑った。
事件を起こしたことで、涼子の美瑛内での扱いは少しだけど変化していた。彼女の発言を受けて、今までのように目の色が違うだけで差別をするのはやめようという風潮が生まれたらしい。
俺は、その変化がとても嬉しかった。少しでも、涼子の扱いが変わればいいなと、そう思った。
「それじゃ、さよなら」
祖父母に見送られながら、俺は改札をくぐった。
ホームで待つまでもなく、電車はすぐに来た。
がら空きの電車も、これで見納めだった。
俺はボーっとしながら、電車の端の席に腰掛ける。
「扉、閉まります」
アナウンスが聞こえる。この間延びしたアナウンスも、意外と悪くなかった。
そんな風に思った時だった。
珍しく、ホームを走る人影が見えた。こんな田舎でも、電車に乗り遅れそうだと走るのか、なんて思った。
だけど、俺はそこで気が付いた。
走っているのは、涼子だった。
なんで涼子がーーと思って動けずにいると、涼子がこちらに気が付いたようだ。
彼女はこちらを見ると、
つぅっと涙を流し始めた。
俺はハッとして、ホームに出ようと駆けだした。
だけど、無情にも電車の扉が閉まってしまう。
扉に阻まれて、俺はただ立ち尽くすしかなかった。
電車が静かに発車する。
涼子は何かを叫びながら走って来ていたが、扉のせいで聞き取ることができなかった。
涼子は過ぎ去る電車を追いかけて走ってくる。
俺も、ボストンバッグを置いて、列車の最後尾に向けて走った。
涼子が何を言っているか聞こえなかったが、それでも彼女が何を言っているかわかった気がした。
涼子はまだ、子どもでいたいんだ。
大人になんて、なりたくなかったんだーー!
「いいんだよ、子どものままで!大人になんて、ならなくていいんだ!」
俺の声は、多分涼子には届いていないだろう。だけど、俺は叫び続けた。
電車は加速していく。
俺たちの距離を、着実に離していく。
涼子がホームの端まで到達し、進入禁止用のフェンスに阻まれる。
俺も、列車の最後尾まで来てしまっていた。
涼子は、子どものままでいい。子どもでいたいなら、そうすればいいんだ。結婚なんてやめて、自分の好きなように生きればいいんだ。
「逃げ出したって良いんだよ!わがまま言ったって良いんだよ!子どもなんだから、子どもらしくて当然なんだ!」
どうにか涼子にこの声を届かせたくて、
俺は絶叫した。
「大人になんか、ならなくていいんだ!」
ホームが遠のいていく。
涼子のシルエットが、次第に小さくなっていく。
でも最後に、太陽の明かりに照らされて、あの青い光が、あの青い瞳が、確かに俺を見つめていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
いかがでしたでしょうか?
このエンディングは、救いがないと思われる方も多いと思います。
ただ、二人はただ黙って大人になるのではなく、それに抵抗して、子どもとして生き続ける道を選びました。
今、このような社会で、我々はいつまでも子どもでい続けることは、不可能に近いと思っています。
だからこそ、この二人には小説の中で、瑞々しい子どものままで生きていて欲しい。そういう祈りを込めて書きました。
よければ、ご感想など評価、お待ちしています。