深夜の待ち合わせ
「ここ、で間違いない、よ、な?」
鉄と生活臭の坩堝から時折鼻を掠める熟れた果実香と青々しい自然の香りに変わり、木々の香りが列車の中に充ちて居着いた頃。
目的地への到着を告げる朴訥で控えめな放送が乗客ただ一人のワンマン列車に広がった。
玉枝は無人の駅を見回した。その価値も無いほど人の気配は全く無い。
あるのは虫の羽音と草を搔き分ける動物であろう生き物の音、ーーそして静寂。
香久山駅は、田舎駅の矜持とばかりトタンの屋根の雨除けと木製の台に備え付けられた一辺が六寸程の正方形の箱があるだけの駅だった。
箱の中には乗車駅証明券がやや整合成を乱して置かれている。
隣の<もとは証明権を置いてある空間と同じ大きさであったろう>隙間には使用済の乗車券を入れろ、ということだろうか。
空の隙間は必要とされるものが入れられた形跡が無かった。
日が沈む前に車掌が回収したのか。今日一日この駅を必要とした者がいなかったのか。それとも、、
「う"〜ぶっ」
あたりの暗闇と相まって薄ら寒さを感じる。
季節は初夏。怪談話ならともかく肌寒さを感じるにはまだ早い。
不規則に灯る三つの小さな灯りの側の外は幽幽冥冥、目を凝らせば薄ぼんやりと木々や道路に沿った看板であろう輪郭が見えるくらいだ。
それにしても迎えの人はまだだろうか。
時間も時間であるし、指定の時間は列車の到着時間。
駅で待ってくれていると勝手に思っていた。
もし来なかったらーーー鞄の中身を思起こしながらこめかみをさすった。
「まるで狸にでも化かされたみたいだ、、」
「誰が狸かね?」
突然耳元に響いた重低音に身体中の筋という筋が硬直した。
かろうじて動く眼球で声のした方を見る。
視界の端には初老の男性が一人。
灰色の髪に整えられたあご髭。闇に溶けそうな黒燕尾服を身にまとった感じの良い男性だった。
気配もなく現れたりしなければ、だけれども。
「クラモチタマエくんだね?」
「はい。この度は採用していただいてありがとうございます。よろしくお願いします!」
未だピリピリとした痺れが全身に残っていたが、無理やり顔の筋肉を動かした。
「…ああ、そういう設定だったな。私は真希子様の便利な荷物持ちジヨッコである。以後よろしく」
「せってぃ?マ、キコ、さま??」
「さ、もう夜も更けている。君たちはもう休む時間なのだろう?行こうか」
「この暗闇をですか?」
この初老の男性<ジヨッコと自己紹介をされたが、何せ一般的な名前でない上に漢字も分からない>は灯り一つ持たず玉枝の元に立っていたのだ。
玉枝の返事も聞かず彼は踵を返して歩き出した。競歩に近い速さだった。
一寸先は闇を体現した様な視界で障害物など無いように一定の速さで歩き続ける。
スッと伸びた姿勢に服の効果もあってか長い足が軽快に跳ねている。
慌てて追いかける。逸れたら闇夜に野宿だ。
「痛ってッ」
ずっと同じ速さで彼の真後をついていくことができるわけも無く。
方向の調整に失敗して躓いても彼は振り向くことなく進むのだ。
足のもつれが酷くなるのに比例して、距離がどんどん離れていく。
「ハァッ、ハッ、ちょっと、待ってください」
息が上がって蚊の鳴くような声を絞り出した時には彼の姿は白い手袋が微かに見える程だった。
「すまない。人間の体力が今ひとつ分からなくてね」
「わーっ!!」
またしても耳元に突然重低音が響いた。
「ううう慣れないぃ…」
怖さと疲れが合間って半べそをかいてしまった。
それを感情の読み取れない表情で見下ろすジヨッコ。
置いていかれそうになった怒りよりも情けなさが先に立つ玉枝だった。
ガッ、と両肩を掴まれた。
覗き込んで来たジヨッコの表情は歪んでいて、泣きそうに見えた。
嫌悪、というよりは戸惑い。といった感じだろうか。
「人間を領域に通すのは初めてなのだ。姫サンが選んだ君ならば私も受け入れよう」
ーただし耐えられるかは君次第だが。
ジョッコが言い終えるや否や 「「 ぐわん 」」 と。
脳の内側から響いた音と共に爺の姿が前後左右捻る様に歪んだ。
いや、視界が歪んだのか。
なんだこの重力を無視したような感覚。
聴覚まで狂った頭にジヨッコの声が歪んで届く。
「トォリャンせトォリャンせココはドォコの...」
三半規管が悲鳴を上げて、僕は意識を失った。