第五話 孤独な少女と話し相手
「だっ、誰、ですか……?」
薄布の衣装の上に防寒用のケープを羽織ったアイシャは、困惑して周囲を見回しているようだった。
それはそうだろう。何しろ周りには人影がなく、ただ声だけが聞こえてきたのだから。
彼女が佇む砂の平地には、大小の赤い岩が点在している。
砂漠の夜に街灯はなく視界も悪い。
この岩のどれかに声の主は隠れていると、アイシェはそう判断してくれるだろう。
そしてそれは間違いではない。
もっとも岩の裏を覗き込んでも、砂から頭だけを出すサンドワームはそうそう見つけられないだろうが。
「砂漠の精だよ。……そういうことにしておこう。アンタの話を聞くのなら、名前なんてないほうがいい」
動揺するアイシャに、畳みかけるように続ける。
「なに、どうせ俺は雇われだ。誰にも告げ口なんてしないから心配すんな」
雇われ、というのはほとんどカマかけのようなものだった。
隊商であれ何であれ、砂漠越えなんてことをする時にはその旅限りの護衛を雇うものだ。俺がかつて大砂海を訪れた経験があるのも臨時の護衛依頼を請け負ったからである。
上手くいけば、お節介な傭兵が世話を焼きにきたのだと勘違いをしてくれるだろう。
とはいえ一団がよほどの富豪の庇護を受けているなら、全員が元から一団に属している可能性もあった。ただなんとなく、どちらにしてもアイシェはそこまで詳しいことを知らないような気もしたのだ。
周囲との微妙な距離感。
持ち上げられてはいるものの、どこか残るよそよそしさ。
役目が終われば話し相手すらいないというのは、彼女が余所者であるという証明に思えた。
「……えっと、その」
たおやかに白髪が揺れ、逡巡が金の瞳に現れる。
怪しんではいてもすぐに拒絶できなかったのは心の底では誰かを求めていたからか。
ならば年長者の役割として、さっさと会話を先導させてもらうことにする。
「それで? 今は何に悩んでるんだ?」
「っ!?」
驚いて目を見開くのは、相手の心情を言い当ててやった時におおかた共通する反応だ。
素直で純粋な若者なら、という条件がつくので同世代や散々やられ慣れている元パーティメンバーには通じないのだが。若いっていいな。
今回はそもそも昨日の呟きを盗み聞きしていたので間違える余地もない。
ただしそのくらいなら、アイシャの様子を見ていれば多少勘のいい者なら誰でも察せられただろう。
誰にでも気付けることを誰にも指摘してもらえない。
きっとそれが、彼女の一番の不幸だったのだ。
「なんで、それを……?」
「顔見りゃわかるよ。そらぁどうせ、あと二日の付き合いだけどな。だからこそ言えることってのもあるんじゃないか? ……全部とは言わない、話せることだけでいい。少しの間、愚痴ぐらいなら聞き役になるぞ。最高のダンスを見せてくれた礼だ」
あと二日、というのが何を意味しているのかはわからない。
だが恐らく、この砂海行に彼女の帰り道は用意されていない。そんな気がした。
風が吹き、星と遠くの燈火だけが光る夜の闇に、砂漠の砂が舞う。
「……わたしは、スラムの生まれなんです」
しばらくの間、悩み。それでも結局、彼女は口を開いた。
それはやはり、誰かに聞いて欲しかったからなのだろう。
彼女自身の思いを――人生を。
***
アイシャ・サティ・パールバティーが物心ついた頃、覚えていたのは自分の名前だけだった。
交易都市カルカジャ。
大砂海から馬車で半日ほどの距離にあるその街は、砂海と連邦国家イルスを繋ぐ交易の拠点として古くから繁栄を保ってきた。西方諸国との砂海交易を行う隊商や、イルス連邦内の行商、そして彼らの同行者たる護衛や冒険者。それらすべてをもてなして財を得る人々で賑わう街だ。
古くから繁栄し続けているということは、自然とその繁栄に加われなかった落伍者も吹き溜まる。
カルカジャの街と同じくらい古くから。貧民街はその街の影として共にあった。
アイシャはカルカジャの街のスラムに幼い頃に捨てられていたのだという。
記憶にある限りではずっと最初からスラムの孤児たちと一緒になって遊んでいたのだが、唯一記憶にある名前と、スラムには不釣り合いな容姿が皮肉にもそれを証明してしまっていた。
どこかの貴族と妾との間にできたいてもらっては不都合な子だったのだろう、とスラムの物知りな老婆は語っていた。そういうものなのか、というのがアイシャの素直な感想だった。
父も母も最初からいない。
いたのは、賑やかで元気なたくさんの友人たちだけである。
寂しいと思うことなど、まったく無かった。
成長するに従って、アイシャの美しさに目をつける者も現れ始めた。
同じスラムの無法者たちや、趣味の悪い貴族の子弟、西方から来た奴隷商人、などだ。
彼らが具体的に何を目的としているのかは知らない。
しかし捕まればろくなことにならないのだけは、肌で察することができた。
そんな中でも彼女がこの歳まで真っ当に生きてこられたのはひとえに友人たちのお陰だった。
中でも同年代の一人の少女は、類稀な知恵と腕っぷしの強さでいつもアイシャを守ってくれた。
スラムの無法者は叩きのめし、貴族の子弟は立場を脅かして追い払い、イシス連邦では非合法な奴隷商人は警吏に密告して縄にかける。
大人顔負けの大活躍をしてアイシャを助けてくれるそのルティナという名の大親友がいたからこそ、アイシャは生きてこられたのだ。
ある日、彼女はアイシャにこんなことを言った。
「アイシャはさ。この掃き溜めみたいなスラムでの、わたし達のたった一つの希望なんだよ。どんなに薄汚れても、悪い事に手を染めたとしても。アイシャを見ればここにはこんなに綺麗な、貴族や王女様にだって負けないお星様がいるんだぞって思えるから」
夕暮れの裏路地で。
見えない空の星に手を伸ばすように、ルティナは空に向かって手のひらを掲げていた。
けれどすぐに、彼女は空から手を下ろし、隣に座るアイシャに向けて微笑んだ。
それはきっと彼女にとっての本当のお星様に向けた、心からの笑顔で。
「だからわたし達は、こんな場所でも生きていける。人間未満のスラムのごろつきでも、人間らしく生きようって思えるんだ。……わたしなんかよりよっぽど凄いことをしてるんだよ、アイシャは」
そう、アイシャは愛されていた。
親友のルティナのように何もかもができるわけではない。
男のように体力があるわけでも、他の女たちほど器用というわけでもない。
それなのに。一部の無法者を除いてスラムの誰もが、アイシャを愛し、慈しんでくれていた。
だからアイシャは心に決めた。
いつか必ず、皆にこの恩返しをしようと。
愛してくれた皆のためなら、自分はどんなことでもしてみせよう、と。
――その決意に実現の機会が与えられたのは、それから何年かが過ぎてからのことだった。