一.赤毛の少女
はじめまして。
二ノ宮玲子と申します。
この話を書きたくて、書きたくて、
ここに辿り着きました。
物語を書く、ということには
ほんっとにシロートなわたくしですが、
この「マーイカ!」という物語は
12歳の時から温めてきた私の想いがこもっております。
どうかよろしゅう、
おねがいいたします。
二ノ宮玲子
一.赤毛の少女
まるで水の中に漂うように、たおやかに揺れる髪。色はよくわからない。が、その女はとても優しい目をしている。全てを許すように、また、何かに悲しんでいるようにも見える。じっとこちらを見据えて、鈴を転がしたかのような声で、歌うように、すべるように―…
獣を使うは清き者 汝を信じて生きゆくさだめ
花を使うは優しき者 汝を愛して生きゆくさだめ
刀を使うは強き者 汝を貫き生きゆくさだめ
奏でるは麗しき者 汝を嘆いて生きゆくさだめ
導くは賢き者 汝を敬い生きゆくさだめ
そこからは何も聞こえない。女はいつも、その言葉が終わると、悲しそうに口をつぐんで、こちらから目を逸らしてしまう。長い髪が、遠ざかってゆく。髪の色はわからない。
まるでセピア色になった古い写真のように。
1.
ベッドの上で寝返りを打つと、外には見慣れた景色が広がっている。マーイカが十余年あまり過ごした、この小さな村は、ここの大きな旧家からは十分過ぎるほどに見渡すことが出来る。彼女はその燃えるような真っ赤な髪が、自分の額にかかってゆっくりと揺れているのを見つめながら、もうすっかり見飽きた、いつもの景色を眺めていた。決して広くはない、自分の住む村。狭いなど、思ったこともない。生まれてこの方、村からは出たことがないからである。そんなことはここいらでは珍しくもないことだ。
ホットケーキ村は、長い歴史をそのまま閉じ込めたような、いい意味では伝統のある、悪い意味では封建的な村であった。人々は、代々受け継がれる「血筋」というものを重んじた。これは職業―ここでは家業と言った方が妥当かもしれない―に大きく影響されていて、例えば鍛冶屋の子供は鍛冶屋に、八百屋の子供は八百屋に、という風に、子供たちの将来は、この世におぎゃあと生れ落ちてきたときから、既に決まっているのであった。それに疑問を持つ者は居ない。ただ何も考えることはないのだ。自分は鍛冶屋の子供として生まれ、大人になれば鍛冶屋になって、子供を作り、またその子供に跡を継がせる―こうして、自分たちの人生は展開していくものだと思っていた。
また、この村の人々は非常に信心深かった。ホットケーキ村に住む者なら、誰しもがマリアのことを知っていた。―マリア、彼女について、私はあなた方読者に詳しく説明をしなければならない。
マーイカの住むホットケーキ村は、東の国と呼ばれる地方にあった。この世界には、東の国と、もう一つ、西の国と呼ばれる地方がある。東の国の民は、西の国にはどんな人間が住んでいるのかは全く知らない。ただただ、何千年という歴史の中で、自分たちが独自に発展させていった文化のみを守って暮らしていたのだ。もちろん文明は発達し、ここ何百年かで東の国も、随分と変わった―ということをマーイカは歴史の授業で習った記憶がある―東の国で、何十年か戦争が続いたこともあった。その時になんとかという英雄が登場して、東の国一帯を混乱から救った、とも言われている。東の国は幾つかの小国に分かれ、またその小国の中でも、街が生まれ、村が生まれ、人々はどんどん枝分かれしていったのだった。そんな
東の国の、小国のひとつに過ぎない国の、これまた村の一つに過ぎないホットケーキ村。そんな小さな世界の中で、人々はこじんまりと寄り添うように暮らす。封建的であるような村人の生活も、見方によっては文化の一つなのかも知れない。
そして、マーイカは当然のことながら、西の国の異人たちのことは何も知らなかった。マーイカだけでない。西の国のことは学校でも教えてくれなかった。そもそも、先生たちだって西の民のことを知っているのかはわからない。しかし、村の大人たちの間では、「西の民は自分たちが使えない、不思議な力を持っている」「西の民は獰猛で、人を喰らう」などどいう言い伝えがあった。どれも本当のことなのかは定かではないのだが、そういう当てにならない言い伝えの他には、何も手掛かりがなかったのである。しかし、西の国の人々について、疑問を持つ者は少なくはなかった。どこかの村の、なんとかという偉い学者様が、西の国へと乗り込んでいき、帰ってきてからは廃人というか、なんだか焦点の合わない目をして、しきりにおかしなことを言うようになったという。その学者が何を見たのかは何もわからないが、その精神状態は明らかに崩壊していて、最終的にはよほど恐ろしい目に遭ったのだろう、ということになったそうだ。何年か前の新聞に大きく取り上げていて、マーイカもそれはよく覚えていた。彼女はその時、随分と幼くて、新聞一面にぎっしりと書かれた難しい字は読めなかったが、眼鏡をかけてしかめっつらをしてた、いかにも堅実、といった中年の男性の顔写真が大きく写っていて、その隣に、右の写真のひとまわり小さいくらいの大きさで、両脇を二人の男に抱えられた、すっかりくたびれた顔をした神経質そうな男が映っていた。人々はしきりに「西の国」について噂をし、子供たちの間には、その恐ろしい噂が飛び交った。
「マーイカ?起きてるの?」
一階から、包丁で菜を刻む音とともに、優しそうな女の声が聞こえてきた。役所に勤めているダタン氏の妻、オーニャである。
「そろそろ朝ご飯ですよ、降りてきなさい」
トントン、トントン。マーイカはその一定のリズムが好きだ。スープの匂いは、優しい気持ちにさせてもくれる。今日の具はダタン氏の好きなほうれん草とベーコンかもしれない。
「はあい、今、行きます」
マーイカは返事をすると、赤毛を撫でつけながら一階へと急いだ。
マーイカは、自分がどこで生まれたのか知らない。まだほんの赤ん坊の頃、ホットケーキ村の門のふもとで泣いていたという。村一番の長寿のばあさんと暮らしていたが、その老婆も数年前に亡くなってしまった。以来マーイカは、ダタン氏の家にやっかいになっている。
「わ、おいしそう」
テーブルにきちんと並べられた朝食を見て、マーイカは深く息を吸い込んだ。オーニャはエプロンで手を拭いながら、彼女の声にぴったりと合った優しい笑顔を見せた。
「もう、マーイカったら」
向かい側から声がして、マーイカはそちらを見た。そこに座っているのは一人娘のロビン。マーイカの親友である。
「私、三回も起こしたのよ」
短く切り揃えられた黒い髪に、青い瞳。ロビンは村でも評判の天才少女だった。将来は医師になりたいのだという。親の職業を継ぐというこの村の伝統を、なんとか変えようと試みているのかもしれない。村の人々は、なにかとこのロビンの話をした。しかし、どの話にも悪いものはない。「ダタンさんとこのロビンちゃんを見習わなきゃ」とか、「うちの子にロビンちゃんの爪の垢を飲ませたい」だとか。
「あはは、ごめんごめん」
マーイカは、この眼鏡を掛けた親友が大好きであった。頼れる姉のように思っている。
「本当に悪いと思ってるの?」
「思ってまーす」
もう、と言ってロビンは再び朝食を食べだした。なかなか手厳しいが、それは彼女の優しさの照れ隠しだということをマーイカは知っているのだ。
マーイカはオーニャが焼いてくれるパンが大好きだ。毎日二枚は食べてしまう。そのパンにダタン氏が趣味で育てたイチゴで作ったジャムを塗るのも尚良い(ロビンは甘くて苦手だそうだが)。あまりたくさんは取り過ぎないで、少しだけ乗せて、まんべんなく伸ばしていくのがコツである。どこか一箇所に固まってしまうとあまり美味しくない。小鳥のさえずりを聴きながら、この三分間はある意味格闘の時間である。
「そういえばね」
洗い物を済ましたオーニャが、ロビンの隣に座った。
「マーイカ。あなた最近、どこか具合が悪いんじゃない?」
え、と驚いて、マーイカは目の前に居る中年女性を見た。特に自分では思い当たる節はない。ロビンにそっくりそのまま受け継がれた青色の目を見ながら、マーイカは答えた。
「いいえ、おばさん。元気です」
「そう?ならいいんだけど…」
「どうかしたの?」
いつもよりも神妙な母の口ぶりを気にして、ロビンが尋ねた。彼女はコーヒーを啜っている。十二歳とは思えぬほどの落ち着きぶりである。そんな娘の言葉を受けて、オーニャは、憂いを帯びた口調で言った。
「…夜中にあなたの部屋から声がするから、何事かと思って中を覗いたんだけど」
サク、とパンをかじる音。今日のジャム塗りは成功である。
「マーイカったら、しかめ面しながら、何か呻いていたのよ。まるでうなされてるみたいだったわ」
「大丈夫なの、あんた」
ロビンも思わず、マーイカの方を見た。二人に見つめられて、マーイカは仕方なくパンを置いた。
最近、立て続けに同じ夢ばかり見ている。しかもいつも同じところで終わってしまうのだ。長い髪の女の夢。とても優しい顔をしているが、どこか儚げで切ないのである。女はいつも、歌うように、何か呪文のような言葉を囁いた後、悲しそうな出で立ちで去っていってしまう。
「それで、まるで古い写真を見てるみたいに、私はその女の人を懐かしく感じるの。でも、私がいくら追いかけても、いつも同じところで終わってしまう…」
「まあまあ」
信心深いオーニャは、胸のところに手を当てて、すっかり聞き入ってしまっている。
「マーイカ。今度の日曜日に教会に行きましょうか。もしかしたら、その夢には何かあるのかも知れないわ」
「ただの夢じゃないの?」
合理主義、事実主義のロビンは、夢だとか物語とか、それに神の存在なんかにはあまり興味を示していないようである。その証拠に、天界歴史学の授業は唯一苦手だと言っていた。
「あら、そんなことはないわよ。」
対してオーニャは、天界歴史学に秀でた女性である。結婚前は教師だった彼女に、天界の歴史のことを語らせると、一時間やそこらでは聞き手を解放してくれない。
「夢、というのは、天界に最も古くから居る小鬼という種族が…」
「ごちそうさまー。マーイカ、行くわよ」
ロビンがマーイカに目配せする。その意味をきちんと理解したマーイカは、なくなくジャム付きパンと別れたのであった…。
「全く、ママの話に付き合ってたら、遅刻しちゃうわ」
ロビンは鞄を振りながら、困り果てたように行った。短く切り揃えられた黒髪が、肩のところで揺れている。マーイカの髪はいっこうにまとまらない。毎日通学途中に、こうやって必死に撫で付けているのである。
ところで、マーイカの赤毛というのは、この村ではちょっとした評判であった。何しろ、燃えるように」鮮やかな赤色なのだ。どんなに遠くに居ても、すぐにマーイカだとわかる。マーイカのことが話題に出るときは決まってみんな「あの赤毛の子」と言うのだ。―もっとも、マーイカはそんなに目立つような少女ではない。いつも、しっかり者のロビンの後ろについて回っている、どちらかと言えば目立たない方なのである。だからなおさら、その不必要なまでに真っ赤な髪ばかりが一人歩きしているのである。
「でも、おばさんの朝ご飯はおいしい」
マーイカはオーニャのことが大好きだった。本当の子供のように接してくれる。ダタン氏もそうだ。二人してなかなかのんびりとした、人の良い夫婦なのである。長寿婆さんの葬儀のとき、完全に身寄りをなくしてしまったマーイカのことを快く引き取ってくれた。マーイカは、二人には返しきれないほどの恩がある。
にこっと歯を剥き出して笑ったマーイカに、ロビンがちょっとだけ肩をすくめた。
「―でも、待ってるのよ。パパもママも」
「なにを?」
マーイカが尋ねると、ロビンの視線が、少しだけ落ちる。
「あんたが、「パパ」「ママ」って呼んでくれるのを」
「ああ…」
マーイカは未だに、二人のことをそうは呼べないのであった。一人娘のロビンに気兼ねしている訳でもない。本当の両親だと思ってもいいのなら、それは本当に嬉しいことなのだ。でも、自分とロビンは姉妹でもないし、やはりどこかで、「居候」という線引きをしてしまうのだ。何故だろう。
「私、おじさんやおばさんのこと、大好きなのよ」
マーイカは言った。
本当は、こんなに甘えてはいけないのかもしれない。自分は元々、この村の子供ではないのだから。勿論、自分が村に来る前にどんなところに居たのかなんて、覚えているはずもない。マーイカはホットケーキ村を誇りに思っているし、この村が自分の故郷だと思っている。このままこの村で一生を終えることが出来たら、どんなに幸せだろうか、とも思う。そしてきっとそれは難しくはない未来なのだ。
でも…マーイカは自分の髪を指先で弄んだ。この髪の色が、ホットケーキ村の子供ではない証だ。こんな髪色をした者は村中どこを探しても、マーイカ以外一人も居ないのだ。だから、この村の血は、自分の体の中には入っていないのだ…。
黙ってしまったマーイカに、ロビンは優しく語りかけた。
「それは伝わってるわよ。大丈夫」
「ありがとう…」
初夏の空は眩しいほど晴れ渡っている。その太陽の光が、茶や黄や橙の建築物に反射して、夕焼けの空のように見えて、時々、まるで違う世界のように見える。
学校に行くまでに、二人はホットケーキ村の大市場を通らなければならない。今日は朝っぱらから、なんとも言えない騒ぎである。人数の少ないホットケーキ村に、こんなに人が集まっているのは極めて珍しいことである。
「見て、何かしら」
その中にも一段と賑わっている群集を見つけて、マーイカはそちらを指差した。ロビンも振り返る。
「さあさあ、並んで並んで!」
輪の中心に居る二人の女が、大きな声を張り上げて叫んでいた。
「ま、何て格好」
その女たちの格好を見て、ロビンが顔をしかめる。それもそのはず、彼女らの出で立ちはなんとも不思議なものであったのだ。
一人の女は、サラサラと風になびくブロンドの髪。筋肉質なその体にまとうのは、鎖をじゃらじゃらとつけた重そうな洋服だった。襟のところがピンと立っている。褐色の目と鳶色の眉は、自信ありげに吊りあがっていた。
「順番に見て回りますから、押さないで」
もう一人は豊かな長い黒髪。掴めてしまいそうな細いウエストに、ぱっちりと開かれた人形のような目。あれはレースというのだろうか、何重にもそれがあしらわれたゆったりとした洋服を着ている。
どうやら人相占いでもしている様子である。
「朝っぱらからすごい人だかりね」
ロビンは呆れたようにそう言って、マーイカの方を見る―途端に、この利口な少女の顔色が変わった。
マーイカはいかにも、興味津々といった様子で、その群集の方を見つめている。駄目だ、マーイカのことだから、一度興味を持つと、てこでも動こうとしない。そうなる前に、ここから引き剥がさなくては。ロビンは慌てて、マーイカの手を引いた。
「何?どうしたの?」
呑気に問うマーイカに、ロビンは険しい顔をしながら答える。
「早くしないと遅刻するでしょうが」
ロビンの辞書に「遅刻する」という文字は存在しない―なるほどそうか、とマーイカは軽い気持ちで納得した。彼女の頭の中から、あの奇妙な二人の女の存在が薄れようとしていたとき―
「ちょっと、そこのアンタ」
目の前で声がした。マーイカがふと目線を上げると、いつのまにこちらに来たのだろうか、今しがた群集の中で叫んでいた、背の高いブロンドの髪をした女が、マーイカたちの前に立ちはだかっていた。
「え…」
驚いたのと、その女の髪があまりにも軽く、さらさらと美しい音を立ててなびく様に見惚れ、マーイカは瞬時、言葉を失った。その隣でロビンが、少し戸惑ったように女を威嚇した。
「―私たち―急いで、るんですけど」
だんだん語勢が尻すぼみになってゆく。そんなロビンには目もくれず、女はマーイカの燃えるような髪を見て、言った。
「綺麗な赤だね」
女にしては低音の、さざ波のような穏やかな声だった。その女は再び言った。
「生まれつき?」
マーイカの顔が、その髪と同じくらい真っ赤に染まった。―照れているのではなく、憤慨しているのだ。昔からこの赤い髪は、人々の話題の種だった。それがいいものでも悪いものでも、マーイカが村を歩けば、人々は皆、この赤毛に注目をした。それほどマーイカの髪は鮮やかな色をしている訳だが、マーイカだって、好きでこんな髪に生まれてきたわけではない。
「…はい、そうです」
膨れっ面のまま頷くと、女の目がきゅっと細くなった。―笑ったのだ、とマーイカにもわかった。女は即座に振り向いて、もう一人の女に叫ぶ。
「アーヤス、やっぱりこの子だよ!」
よく通る声だった。群集がマーイカの方を見て、にわかにざわめき立ち始めた。