第4話
最近は『クロスに文字を教える』ということに執心している。クロスは中々物覚えのいい子である。しかもかなり努力家。チョークがすり減って使えなくなるほど何度も手元の黒板に反復練習をしている。
「お嬢様。セドリック殿下がお越しです。」
学習室でクロスに文字を教えていたら、エレンが声をかけてきた。
「あら?何の御用かしら?お父様に?」
「いえ、お嬢様に会いたいと。」
「まあ、本当に何の用かしら。お待たせするのも悪いわね。クロス、ちょっと行ってくるからいい子で待ってるのよ?」
「…うん。」
クロスは悲しそうな顔をした。そんな今生の別れみたいな顔しなくても。なんだかとっても出かけにくいです。とはいえまだ礼儀作法を教えていないクロスをセドリック殿下にご紹介するわけにいかないし。
「すぐ帰ってくるわ。」
「…うん。」
クロスを置いて応接室に入った。
中には柔和に微笑むセドリック様と、セドリック様と同年代の腰に剣を差した男の子がいた。
「お待たせしました。セドリック様。」
「いいえ。急に来てしまい、申し訳ございません。こちらは僕の護衛騎士のラナンです。ラナン、こちらがシェリル嬢だ。」
「お初にお目にかかります。シェリル・マルシェクスですわ。」
ご挨拶するとラナン様は頭を下げた。そして私を睨むようにじろじろ見てきた。なんか失礼な方ね。
私は殿下の向かいの席に腰を下ろした。
侍女がお茶を入れてくれる。私は侍女に微笑んだ。
ティーカップを傾けて一口。
「それで、今日は何の御用なのですか?」
「用が無くては来てはいけませんか?」
セドリック殿下が困ったように微笑んだ。
「正直なところ、あなたの顔を見に来たのです。最近王宮に訪れてくれないようなので。」
「あら。そうですの?申し訳ございません。何分多忙なもので。」
セドリック殿下、暇なん?
「若いツバメを囲ったとか。随分噂になっていますよ。」
「ほほほ。私って有閑マダムみたいですのね。間違ってるとも言い切れませんが、どなたがそういう情報を漏洩しているのかしら?」
後でお父様に調査していただかないと。家の内情をぺらぺら他言してしまうような使用人は要りませんし?10歳で若いツバメを囲っていると指摘されるとは思わなかった。
「間違っていないのですか。あなたはなんだか以前と変わられましたね。随分と僕に他人行儀だし、」
他人ですし?
「急に魅力的になってしまって…」
「はあ。」
魅力的?ああ、うん…前と比べればね。比較対象の方がちょっと悪すぎるんだと思うけど。まあ、私と一緒に殿下の寵を競い合っていたマルティナ様とベアトリクス様は以前の私と大差ないから、比べれば私の方が良く見えるんだと思うけど。
「私が思うに、セドリック殿下はもっといろんな女性を観察するべきですわ。私とマルティナ様とベアトリクス様だけの世界にいてはいけませんわ。世の中にはもっと酷い女性も、もっと素敵な女性もいらっしゃいますわ。」
「何故かな。以前のシェリル嬢なら『私より魅力的な女の子など居ない』と自信満々でしたのに。」
ちょっと。人の恥ずかしい過去をほじくり返すのは止めてくださいまし。
「成長したのですわ。」
「何があなたを成長させたのですか?」
「…………そうですね……悲しい夢ですわ。思い返しても苦しくなるような…」
言葉にできない不安感、悲しさ。親不孝な私と、優しいけれど私の理解者足りえなかった両親。少しだけ元気な時に働いた経験。自分への狂おしい殺意。
セドリック様は困った顔をした。
「どうしてでしょう。やはり魅力的に感じてしまうのです。なんと言うか、あなたには不安定な美しさがある。」
そんなこと言われてもね。私は『王妃』になどなれないし。なれるとは思わないし、なる為の努力をするつもりもない。もし私がセドリック様を熱愛するなら死ぬ気で努力もしたかもしれないけど、そこまで情熱的に愛してない。側にいると多少目が楽しいだけだ。
「あなたの若いツバメはどうやってあなたの心を掴んだのですか?」
「『恋』を盗られたのかと言う意味なら私のツバメは私の恋を啄んでいませんわ。お恥ずかしながら、私の初恋は殿下のものでしたわ。」
「今はもう僕に心を寄せていないのでしょう?」
「残念ながら。」
「口惜しい。あなたがこんなに素敵に『成長する』と知っていたら、さっさと唾をつけておいたのに。」
「ふふ。マルティナ様かベアトリクス様が素敵に成長される可能性もありますけれどね。とかく蛹が蝶になるのは早いものですから。」
「蝶かと期待したら蛾だったりしては堪りません。」
「それは孵化するまでわからないものですわ。早く幼虫博士になれると良いですわね。」
「僕は蝶になるか蛾になるかわからない幼虫よりも逃してしまった美しい蝶に興味があるのです。」
「ほほほ。頑張って捕まえる努力をなさってくださいまし。蝶は己を捕まえたい人間の心など気にしないものですわ。助言をするとするならば…蝶を捕まえたいのなら美しい花におなりなさい。いくら美しくても絵画の花には蝶は群がりませんのよ。」
あなたの見せかけだけの営業スマイルで私を捕まえるのは無理でしてよ。己から匂い立つような素敵な花が蜜を振りまくなら捕まるかもね。ただし蝶がわざわざ絵画の花が実体化するのを間近で待っててくれるわけはないですけれど。
セドリック様と謎かけのような会話を楽しむ。ラナン様がそれを一言一句聞き逃すまいと私を睨みつけている。
あの女には好きだったアーティストがいた。中々に言葉の上手な歌手だった。彼女の言葉は深みがあって、どんな生き方をしたらこんなシルエットになるんだろうと首を傾げたものだ。彼女の初期は随分と初々しい。そして年経ることに吐き出す言葉は技巧的になって彼女が持っていた本来のシルエットからは遠ざかった気がする。エンターテイナーとしては熟したけど、厚化粧になったと思った。人を見るとき、その人を形作る背景と化粧の厚みを探るようになった。殿下の化粧はまだ少しお粗末。そして形作るシルエットが偏っている。まだ私を魅了する絶妙な素肌も化粧も持ち得ていない。子供だ。見たままの子供。もう少し熟さないと食指が動かないなあ。それに私はズルい蝶だから同じくらい美味しそうな蜜を蓄えた花が複数あるのなら、安全で吸いやすい蜜に群がる。蝶の羽をもぐ茨で囲まれた薔薇は如何にも蜜を吸いにくい。軽やかに飛べなくなるのは御免だね。
殿下は我が家でお夕食まで食べていくつもりであるらしい。中々図々しいね!まあ、私も何度も王宮で食事を頂いてるから非難などできないけど。
食卓にはお父様とお母様が揃ったけど、クロスは来ていなかった。礼儀作法がまだだから別室でお食事なのかな?
「また美しい蝶の姿を見に来ますね。あなたは座して待つだけで手に入る存在ではなさそうだから。」
「次回以降蝶の観察は事前予約が必要でしてよ。」
「そうですね。すみません。ではまた。」
「ええ。おやすみなさい。良い夢を。ラナン様も。」
二人が乗った馬車を見送った。エレンが困った顔で近づいてきた。
「お嬢様…クロスを迎えに行ってくださいませんか?お嬢様と約束したから、とずっと『良い子で待ってる』んです。夕食も食べずに。」
「え!?」
慌てて学習室へ行った。クロスはランタンに火を灯してずっと黒板にチョークで書き取りしては消して、また書いてを繰り返している。
「クロス…」
「シェリル。お話終わった?」
クロスが顔を上げて微笑んだ。
「私を待っていたの…?」
「うん。だってシェリルが『すぐ帰る』って言ったから!僕『良い子で待ってた』よ!」
私は自分が何気なく吐いてしまった言葉の重さを知った。きっとクロスは『待て』と言われたら一生待つのだろう。言い訳も誤魔化しもない。純粋な『約束』。
「ごめんなさい、クロス。随分待ったでしょう?今度から遅くなるときはちゃんと伝言するわ。」
「わかった!」
「一緒にご飯を食べましょうね。」
「うん!」
夕食を食べるのは二度目だが、クロスに一人で寂しくご飯を食べさせるなど言語道断だと思った。お腹は苦しかったが、クロスと会話を楽しみながら食事をとった。クロスの幸せそうな顔を見ると、もう二度と約束を違えまい…と思った。




