第2話
「お嬢様、起きておられますか…?」
侍女のエレンが声をかけてきた。「寝てるのがわからないの?」と当たり散らしそうになる声を飲み込んだ。エレンは私が寝ていることなど百も承知だろう。ただ『お嬢様のお目覚め係』に任命されてしまったため、仕方なく声をかけているにすぎないのだ。
「ごめんなさい。寝ていたわ。寝坊したかしら?起こしてくれて有難う。」
『ごめんなさい』と『有難う』。私が全く使わなかった言葉。そしてこれから最も必要になる言葉。
エレンは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。普段の態度が態度だったから、急に改めたらそのうち「悪魔付き!」とか呼ばれるかもしれないわね。
「洗面器とタオルを持ってきてくれた?顔を洗いたいのだけど。」
「は、はい!」
私はぬるま湯の入った洗面器で顔を洗った。
「有難う。さっぱりしたわ。」
今日はどの服がいいかしら。今思えば使用人を待たせながら、服を選ぶのも時間を掛け過ぎだとは思うけれど、流石に私の楽しみを全部殺してまで使用人に尽くすつもりはない。楽しみ全部を潰して他人に譲るだけの『下僕』になりたいわけじゃないのよ。
じっくり衣装箪笥の中から服を吟味した。今日は少し寒いから、あんまり風通りの良い素材は遠慮したいわね。見た目も秋らしい装いで…色々鏡の前で吟味して臙脂のワンピースを選んだ。流れるような銀髪にアクアマリンのような瞳。肌は滑らかに白く、通った鼻筋に柔らかそうな赤い唇。今日も私は可愛いわ。目が少しつり上がり気味なのと唇が赤すぎるのが私のコンプレックス。なんだかちょっと意地悪そうに見えるのよね。服に合わせて髪に赤いリボンを結んでもらった。
食堂に降りて行って父と母に挨拶する。
「お父様、お母様、おはようございます。」
「おはよう、シェリル。僕の可愛い天使。」
「おはよう、シェリルちゃん。」
お父様は焦げ茶色の髪にアクアマリンの瞳の美丈夫。ヘルマンと言う名前。お母様は銀髪にサファイアブルーの瞳の美女。サラと言う名前。私はシェリル・マルシェクス。マルシェクス公爵家の令嬢である。
「シェリル。今日は王にお目通りが叶うから、王太子のセドリック様にもお会いできるぞ。朝食が終わったら着替えておいで。」
「わかりましたわ。」
セドリック様ね。
「なんだい?嬉しくないのかい?」
「いいえ。嬉しいですわ。」
セドリック様は麗しい人ですからね。黒髪碧眼で顔立ちは整っていらっしゃるわ。でも私の思い出の中のセドリック様って基本『営業スマイル』ってやつなのよね。私は全然気づいてなかったけど、昨日見た夢の女の世界で『感情労働』を強いられている人間が浮かべる笑顔。多分私のこと『迷惑な我儘令嬢』と思ってるんじゃないかしら?私に対して悪印象を持ってる方とお会いするのが楽しいかと聞かれれば否ですわね。でも殿下のお顔は鑑賞に堪えうるから見には行きましょう。美しいものを見るのは好きよ。遠くから見る分にはさほどご迷惑にはならないでしょう。
朝食をとった。私は普段お野菜を残してるのよね。嫌いと言うほど嫌いではないけれど、好きとも言い難くて。好きなものしか食べてなかったわ。食べてみると意外なことにほとんど美味しくいただけた。かなり食べやすく味付けを工夫してあるのね。
「ご馳走様。料理人に美味しかったと伝えてくださる?ただ、やっぱりニンジンのグラッセは好きになれないみたいなの。ニンジンを出すなら別の調理法を試していただけるようにお願いしておいてちょうだい。」
側に控えていた侍女のレナに伝えた。今までは嫌いなものを口に含んでしまうと「不味いのよ!」と当たり散らしていたけど、どこがどう口に合わなかったのかちゃんと説明しなきゃわからないわよね。エスパーじゃないんだから。
「は、はい。」
レナはキョドっていたが、頷いた。
歯を磨いてから、ドレス選び。今まで「セドリック様と結婚するのに私以上に相応しい令嬢はいないわ!」なんて自信満々だったけど、これが所謂お客様が抱きがちな「お客様は神様」と言う幻想かしら?セドリック様は多分私のことなんてこれっぽっちも好きじゃないわ。今まで『私が最高に可愛く見える衣装』を選んでいたけど、普通に考えて『TPOに沿った衣装』と言うのが求められている衣装なのじゃないかしら?王宮に訪れるに相応しい品を持ちながら、決して華美過ぎず、見る者に不快感を与えない、季節に合った色や素材のドレス。
……今度ちゃんとドレスを仕立て直しましょう。
思ったより華美に過ぎる衣装が多すぎて選択の幅が狭かった。今までどれだけ自己主張の激しいドレスばかり選んでいたのか…「毎日が晩餐会☆」みたいなドレスだった。客観的に見て痛々しい。公爵令嬢にして地味すぎるのもどうかと思うから加減は必要だけど。チャコールグレーで所々光る質感の素材を使った秋らしく、それでいて品の良いドレスを選んだ。髪飾りはボルドーのリボン。流石に全身地味コーデは渋すぎるから少し赤みがある色を選んだ。
お父様の元へ行くとお父様が「おや?」と言うような顔をした。
「今日は随分地味なドレスを選んだのだね。」
「今までが派手だったのですわ。年頃の令嬢がいつまでも子供ドレスを着ていないのと一緒ですわ。少し趣味が変わりましたの。お父様、少し落ち着いた感じのドレスも欲しいんですの。今度仕立ててくださらない?」
「勿論だよ。」
お父様と馬車に乗って王宮へ行った。マルシェクス公爵家の者だけでなく、エドラーフェ公爵家とトロイバルツ侯爵家の者が来ていた。それぞれ娘を連れて。
まずは臣下の礼を取って陛下にご挨拶する。陛下は子供同士で遊んでおいでと言っていたので、セドリック殿下とマルティナ・エドラーフェとベアトリクス・トロイバルツと一緒に応接間に通された。マルティナ様とベアトリクス様は殿下の寵を競い合っている。私は一人でお茶を頂きながら3人を見ていた。あの二人はまだ殿下の営業スマイルに気付いていないようだな。殿下は今日も穏やかそうな営業スマイルで2人をいなしてる。2人はメロメロベタベタだ。変わらぬ営業スマイルで表情変化はあまり楽しめないけど、ご容姿は鑑賞に値するな。お美しいこと。ことり、とティースプーンを落っことしてしまった。どうしよう…と思ったら侍女の一人が新しいスプーンと替えてくれた。
「有難う。」
「どういたしまして。」
お礼を言うとにっこり微笑まれたので微笑み返す。今朝はちゃんとお野菜も食べたので少しお腹はいっぱい。お茶菓子は美味しそうだけど、手が伸びないな。
「何をご覧になっているのですか?」
セドリック殿下がやってきて微笑んだ。
「セドリック殿下のお顔を拝見してましたわ。私、殿下のお顔がとても好きなので。」
あけすけなことを言ったので、殿下は驚いたようだ。
「顔だけしかお好きではない?」
「中身を好きかどうか語れるほど私は殿下のことを存じ上げませんわ。」
肩を竦めると殿下は意地悪そうな顔をした。
「迫っても僕が靡かないから、今度は謙虚に振舞う手?」
ちょっとカチンときた。昨日までの私は殿下にメロメロだったから、あながち自意識過剰とも罵れないけれど。
「そうですわ。謙虚に振舞われてよろめいたなら惚れてくれてもいいですわよ?告白されてもお断りしますけれど。」
殿下が吃驚した顔をした。
「断る…?」
「『王妃』は私には荷が重いんですの。適当な貴族家を立てて出直していらっしゃって?」
ますます驚いた顔をされた。
当り前じゃない。『王妃』よ?一挙一動を観察される立場よ?そんな「毎日採点」みたいな日常お断り。女性社会のリーダーシップ?冗談も休み休み仰いませ。私は私を知ってますわ。私にそんな器がないことを。王妃がふわふわ甘いだけの立場でないことは少し考えればわかることだったわ。コンビニのアルバイターが年収1千万のエリート営業マンになれないのと一緒。
「ああ。でも、殿下の驚いた顔は中々可愛くてよ。たまには新鮮でいいですわ。」
殿下は困ったように微笑んだ。あらあら、上手な営業スマイルになってませんわよ。逆に私が営業スマイルで返した。
ええ。お顔は好きですのよ?
殿下は少し私に話しかけたそうにしていたがマルティナ様とベアトリクス様に引っ張られていった。
お父様達は別に陛下と昼食をとるそうなので、私達は殿下とランチを頂いた。王宮での食事は品数が多い。いつもは好きそうな物しか食べなかったが、今日は全種類少しずつ頂いた。口に合うものも合わないものもあった。美味しいものは、今までスルーしていてちょっと損した気分だ。みんな良家の子女なので、恥ずかしいテーブルマナーの子はいない。
食事を下げる使用人さんに「美味しかったわ。」とお礼を述べておいた。
午後も2人に纏わりつかれる殿下を鑑賞して、お父様が迎えに来たのでお暇を告げて帰った。
「楽しかったかい?シェリル。」
「ええ。」
「シェリルは、セドリック殿下が好きかい?」
「いいえ。」
お顔はかなり好きだけどね。お父様の質問は多分「恋愛的に好きか?」ってことだから、答えはNOだな。婚約とかさせられたら泣いちゃう。
「そうかい…」
お父様は私の頭を撫でた。