たそがれ・あこがれ・こいこがれ
この作品には、人の死や暴力などの不快表現や不条理な表現が多数含まれています。ご注意ください。
図書館で読んだ童話に、夢を馳せていました。
白雪姫、眠り姫、髪長姫……。いつか白馬に乗った王子様が囚われの私を救い出してお嫁さんにしてくれる。そんな夢を見ていました。
目を覚ますと、私は見慣れぬ部屋のベッドの上で寝ていました。部屋には消毒液の臭いが立ち込め、ベッドのすぐ両脇には薄い白のカーテンが張られ、学校の保健室みたいだと思いました。外からカーテンを染める橙の光が美しく、そちらにしばらく見惚れていました。
「ゆり子、目が覚めたか」
反対側から声がしたので首を返すと、カーテンを開けた先生が私を見下ろしていました。
「先生」
憧れのひとを瞳に入れた私は、体を起こそうとして、そこで全身を激しい痛みに襲われ呻いてしまいます。先生は屈んで私を押し留め、再び布団の上に寝かせました。
「無理をするな。まだ寝ていろ。ここは病院。もう安心だ。何も心配しなくていいんだよ」
そう言われて、私は眠る前――ではなく気絶する前のことを思い出しました。
『やめて下さい、八千星さん!』
聞こえるはずのない声が聞こえ、私は幻覚に襲われたのではないかと思いました。
『貴様、どこから入ってきた!』
『貴方は自分のしていることをわかっているのですか!』
『これは我が家の躾だ、余計な口出しはするな!』
『これは躾の範疇を逸脱した虐待です! 見過ごすわけにはいきません!』
『うぐっ、貴様何をする!』
そしてドタバタと物がぶつかり合う音。
お祖父ちゃんに木刀で何度もぶたれて、腫れた瞼が右目の、割れた額から入った血が左目の視界を遮り、私はその姿をよく見ることが出来ませんでしたが、その声は確かに先生のものでした。
『大丈夫か、ゆり子?』
その声と共に、私を縛っていた針金が緩んでいくのを感じました。
『済まなかった。先生がもっと早く動いていれば、ゆり子をこんな酷い目に遭わせずに済んだのに』
私を抱きかかえる温かい手。優しい手。本物の先生の手。
嬉しくて。嬉しくて嬉しくて嬉しすぎて。溢れる涙のせいで私は完全に何も見えなくなってしまいました。でも、触れている手の温もりは、私が気を失うまでしっかりと感じておこうと思いました。夢見てた、白馬の王子様。
前の担任の先生が行方不明になってしまったために、急遽代わりとしてやってきたのが先生でした。私はクラスの中で腫れ物扱いをされていたけれど、先生はそんな私に分け隔てなく接触してきてくれました。それは私の事を良く知らないからというだけだったかもしれなかったのですが、それでも私は嬉しかったのです。
いつしか私は、先生に向ける感情が「恋愛」であることを知りました。本で読んだり、テレビで見たりしていた「恋愛」にはずっと憧れていたのです。愛する人の為に自分を犠牲にする行動に出る人や、愛する人を失って自らも命を絶ってしまう人に、震えるような感情の昂ぶりを覚えました。
「先生」
私は、らくのみから水を飲ませてもらうと、蒲団から手を出して先生の指を掴みました。
「ん、どうした?」
「私の話、聞いてくれますか。私の家族の話です。家族のみんなからはずっと口止めされていたけれど、今なら話せます。先生になら話せます」
「……ああ、聞くよ。胸のつかえを全部取り払ってしまえばいい」
目の端に映るカーテンが兎の肉色の光を透かしていました。
先生は私が掴まなかった方の手も、私の手に添え、優しく握ってくれました。
「ゆり子、お前、指環してるのか」
「あっ」
先生の指摘に、私は悪戯を見咎められたように頬に血が上っていくのを感じました。
「これ、実はお祖母ちゃんの指環なんです。ブカブカだけど綺麗だから勝手にはめちゃってそのままで……」
そして、いつか好きな人との結婚指環にしたいと思ったんです、とは口に出せませんでした。
私の家は私が生まれた時から貧乏でした。その頃の家族は、お母さんとお父さんとお祖母ちゃんとお祖父ちゃんと私の5人でした。
物心ついた頃から私は毎日のように家族にぶたれていました。当時はそれが普通の事だと思っていたのですが、幼稚園や小学校に通ううちに、段々うちが他と比べて少し違うことがわかってきました。きっと私は誰からも愛されていなかったのだと思います。一日に私をぶつ回数の順に家族を並べると、お祖父ちゃん、お母さん、お父さん、となります。だから私は家族の中でお父さんが一番好きでした。
家族から嫌われていた筈の私が家を追い出されなかったのは、たぶん、私にお父さんの面倒を見る役目が与えられていたからだと思います。私は一生懸命お父さんの面倒を見ましたが、4年前に亡くなってしまいました。お父さんは私が生まれる2年前に仕事先で事故にあって下半身が麻痺し、それ以来寝たきりになってしまったそうなのです。うちは貧しくて入院費が払えないので、お父さんは家の奥の部屋の蒲団に寝ていました。私は力が弱かったので、重たくてお父さんの体を動かすことが出来ず、必然お風呂に入れることができませんでした。なので、いつもお父さんからは、置き忘れたカップラーメンの食べ残しの様な臭いが立ち込めていました。お父さんは、具合が悪い日には優しい声を出して私に食べ物をねだり、具合がいい日には、介護に愛情が足りない、と私をぶつので、その日の調子がすぐに判ったものです。
「退院したら、先生のうちに行こう。そこで生活するんだ」
「え、いいの? 私、先生のうちに行っていいの? うちには戻らなくていいの?」
「ああ、もう何も畏れなくていいんだ」
「先生……!」
握る手に力を込めて。そしてそれを挟む手の力が優しくて。
先生が私に向けてくれている愛情は、一生徒に対してのものでしかないのかもしれないけれど。私が感激しているのは、苦痛から解放されたからだと思われているのかもしれないけれど。私は、先生と一つ屋根の下にいられることが嬉しい。
そのまま先生のうちに住んで、何年か経てば、私も結婚出来る年齢になります。その時には先生のお嫁さんになりたい、です。
ある日、お父さんに朝ごはんを食べさせていると、お父さんの左手の小指が無くなっていることに気づきました。後でお母さんにその事を告げると、病気が悪くなると、体の一部が減っていくのだよ、と教えられました。その日から、お父さんの体は毎日少しずつ無くなっていきました。小指、薬指、中指、人差し指、親指、手首、肘……。人が死ぬことを、なくなるというのは、こういうことなんだと理解しました。前に、私と同じクラスにいた桑田くんも、長い間の入院生活から戻ってきたときには随分と痩せていて、なくなりかけていたんだな、と納得したんです。
あっ、先生。もちろん今ではそれが間違いだということは判っていますよ。バカな子だなんて思わないでください。エヘヘ。
お父さんが死んだときには、両脚も両腕も根元から無くなって、左目や左耳も無くなっていたので、私の力でもお父さんを運ぶことができました。お葬式の時、以前から頼んでおいた棺桶にお父さんを入れると随分と隙間ができてしまったことを覚えています。
「どうしたんですか、先生?」
「……いや、なんでもない」
先生が何か言いたげな顔をしたのですが、結局何も言わず、私に話を続けるように促すような仕草をしました。
私が生まれて初めてのときめきを覚えたのは、火葬場でした。お父さんと一緒の棺桶に入って火に焼かれるお母さんの悲鳴を聞いていると、胸の奥にキュンと音が聞こえそうな心地よい痛みが走ったのです。横で一緒に聞いていたお祖父ちゃんは、これが愛のなせる業だ、と言いました。愛する人の後を追う、という話は、フィクションの世界ではよくありますが、実際に目の当たりにした人は少ないと思います。そして私は幸いなことにその少ない中の一人になれました。私自身は愛されることはなかったのですが、誰かが誰かを愛する姿を見るだけでも、愛の素晴らしさを感じることが出来るのだと知りました。
実は、私のお父さんとお母さんの結婚は、おじいさんとおばあさんから激しく反対されたそうです。あ、おじいさん、おばあさん、というのはお父さんの両親のことです。さっきまでお祖父ちゃん、お祖母ちゃんと言っていたのはお母さんの両親のことです。でも私はおじいさんとおばあさんと直に会ったことはありません。
先生は「幸福丸事件」を知っていますか? ああ、知っているんですね。私が生まれる前の話なので、私は人から伝え聞いただけなんですけれど、大規模な船舶沈没事故だったらしいですね。実は結婚前のお父さんの家族と、お母さんはその船に乗っていたのです。沈没する船の中、お父さんはすがりつく妹を払いのけ、代わりにお母さんを助けたんです。たった一人の妹を失ったお父さんはどんなに悲しみに暮れたことでしょうか。だけど、自分の心を犠牲にしてまでもお母さんを助けたということは、それだけ二人が深い愛情で結ばれていたということですね。
お父さんの妹が死んだので、お父さんはその事件で多額の賠償金を手に入れ、その当時借金のあったお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに渡して結婚を申し出、快く了承を得られたそうです。でも、そのせいでお父さんは勘当されてしまったそうなのです。けれど、お父さんとお母さん、二人の愛はそんなことにめげることはなく、結婚するんだという意志を曲げませんでした。
でもおじいさんはどうしても結婚に反対したかったので、結婚式の日、おばあさんに頼んで、自分の首を切ってそれを披露宴のウェディングケーキの中に入れてもらい、ケーキカットのときに、駄目だよ、というメッセージを送ったのですが、それでも二人はそのまま結婚式を敢行したのです。その時の写真は今でもうちのアルバムに大切に保存されています。
『愛には障害が付き物である。だが、それを乗り越えてこそ至高の愛に近づく』
そんな祝電が送られてきていたそうです。言葉だけなら陳腐かも知れませんがそれを実現したとき、幸福への花道が拓けるのでしょう。そんな二人の愛から生まれてきたから、私はこんなにも愛を求めてしまうのかもしれません。
「……先生、痛いです」
「あ、ああ、すまない」
温かかった筈の先生の手が、いつの間にか冷たくなっていることに気づいたのはそのときでした。冷たい手。湿った手。そして私の手を痛いくらいに握ってしまったその力が少し怖くて。
……先生の手じゃ、ない!?
そんな馬鹿なことを一瞬でも考えてしまった私はバカな子。そんなことが何度も起こる筈がないのに。
ほら、先生は先生だ。私はその顔を確認して安堵の息を吐き、微笑みました。
「それからですね、先生……」
私は話を続けます。全てを話して楽になりたい、好きな人に全てを知ってもらいたい、その想いが堰を切っていたので、私はそのまま言葉を口から流し続けました。
先生の表情は、前の担任の先生が行方不明になる直前、最後に私に見せたそれにそっくりでした。
でも一つだけ、先生に言えないことがあります。
私の嵌めている指輪、さっきは適当にごまかしましたが、実はこれ、箪笥の一番下の抽斗にしまってあるお祖母ちゃんの指から勝手に抜き取ったものなんです。私は泥棒なんです。だからお祖父ちゃんにぶたれたんです。でも、先生。愛ゆえの行為ならば、ちょっとぐらいのこと、許してもらえるでしょう?
カーテン越しの光は血のように赤黒く染まり、私を興奮させました。




