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俺と姉さんの裏のカオ

作者: 緑茶わいん

 俺は姉さんが苦手だ。

 わりと美人で、優しくて、学校の成績も良い。共働きで帰りの遅い両親の代わりに俺の世話を焼いてくれたりもする。友人達は「あんなお姉さんがいて羨ましい」「甘えたい」「むしろ甘やかされたい」などと言われるが、でもそういうのは勝手な言い分だと思う。

 何故なら、姉さんには「裏の顔」があるからだ。

 皆は、本当の姉さんを知らないからそう言えるだけなのだ。


「ただいま」


 その日も、俺が帰宅したのは夕方になってからだった。

 俺はいつも放課後、寄り道してから家に帰る。友人を誘うこともあれば一人の事もあるし、行き先もゲーセンだったり本屋だったり映画館だったりする。夕飯の事を考えて買い食いはあまりしないが……とにかく直帰だけはしない。

 早く帰ると、それだけ長く姉さんと顔を合わせることになるから。

 ぎりぎりまで帰るのを遅らせれば姉さんと二人きりの時間を減らせるし、父さんか母さんが早く帰ってくるかもしれない。それを期待しての行動だった。


 けれど今日はまだ二人とも帰宅してはいなかった。

 ということは。


「お帰りなさい、ゆーくん」


 やっぱり。俺が靴を脱ぎ下駄箱にしまったところで、エプロン姿の姉さんが台所から顔を出した。にっこりと笑顔を浮かべ、ほわほわした声を上げながら足早に玄関まで歩いてくる。

 何もかもがいつも通り。ここで素直に姉さんを待っていたら「大変なこと」になるのもきっと同じ。

 俺はごくりと喉を鳴らすと、姉さんに笑顔を返しつつさりげなく衝突コースからの回避を試みる。別に、もうただいまは言ったのだから、出迎えられるのを待っている必要もないだろう。

 しかし、やはり姉さんは見逃してくれなかった。

 彼女はおもむろに腕を伸ばすと俺の身体を引き寄せ、豊かな胸へと押し付ける。柔らかな双丘に顔が埋もれ、口を封じられる。さらに逃げられないよう上からしっかりホールドされた。

 こうなると一瞬で何がなんだかわからなくなる。

 なんとか状況を脱しようとほとんど反射的に呼吸をすれば――。


 ふわりと、ほんのり甘い姉さんの匂いが鼻腔を通り抜けていく。


 あ、駄目だ。

 思った直後、霞がかかったように意識がぼやける。全身から力が抜け、姉さんの腕に支えられる。

 この匂いは駄目だ。嗅ぐと、むかし姉さんに抱かれて眠った記憶が蘇り、抵抗力を奪われてしまう。

 考えないと。少しでも意識を保たないと。そう思いながら俺は無意識に呼吸を続け、姉さんの匂いを肺に、全身に満たしていた。

 一分ほど、たっぷり匂いを吸いこんだところでようやく解放される。


「ね、姉さん」


 もう逃げられないのを覚悟しながら、俺はそれでも思考を保とうとする。

 すると、姉さんはにっこり笑って俺の耳に囁くのだ。

 

「お姉ちゃん、でしょ? ゆーくん」


 俺から、小さいころと同じように呼ばれるのを姉さんは好む。ただし最低限の配慮はしてくれていて、父さんたちも含め他に誰もいない時限定だけど。

 それでも、何だか気恥ずかしいのは変わらない。


「い、いや、そうじゃなくて。俺――」

「ゆーくん?」


 姉さんの吐息が耳の辺りをくすぐり、ぞくりとする。


「また間違えてるよ。俺、じゃないよね?」


 姉さんの表情は変わらない。声も、目も優しいままだ。

 なのに逆らえない。生まれてから今までの無数の記憶が、俺に服従を選ばせる。

 お姉ちゃん、とは別の、もうひとつの約束事を俺に指示する。


「二人きりの時は、何て言うんだっけ?」

「……お姉ちゃん」

「うん、なあに?」


 甘い、とろけるような幸福が俺を縛る。言わなければ。あの言葉を言わなければ。

 ――言ったらまた、堕ちてしまうのに。


、お姉ちゃんのことが大好き」


 ああ、言ってしまった。

 自意識が上書きされ、俺たちは思春期の姉弟から小さい頃の関係に戻る。

 何の気兼ねもなく『お姉ちゃん』に甘えていた『僕』に戻ってしまう。


「うん。ゆーくんはいい子だね」


 満足そうに呟いたお姉ちゃんが、僕の頭を優しく撫でた。


 *   *   *


 ……そう。これが本当の姉さん。

 弟想いとか、優しいとか、世話焼きとかそんなレベルじゃない。誰かに見られたら自殺するしかないレベルで俺を甘やかす、度が過ぎたブラコン。それが姉さんなんだ!


 でも。『僕』は『お姉ちゃん』に逆らえない。


 *   *   *


「ゆーくん、お風呂沸いてるから入ってきたら?」

「うん」


 仲良く寄り添ってリビングに移動した後、お姉ちゃんが蕩けるような甘い声で僕に言った。僕は素直に頷いて、着替えを取りに自室へ向かった。

 ドアを開けた正面に張られた「施錠厳守!」の紙――何だっけこれ――をスルーし、鞄を置いて制服を脱ぐ。それをきちんとハンガーにかけて吊るしたら、いったん部屋着を纏った。どうせすぐに脱ぐのだけれど、身だしなみをルーズにするのはお姉ちゃんが嫌いなのだ。


『いつも格好いいゆーくんでいてくれなきゃ嫌だよ?』


 入浴の際もこれは同じだ。肌を傷つけないために髪や身体を洗うのは手で、でも汚れが落ちるようくまなく洗う。また、ボディソープやシャンプー、リンスはお姉ちゃんと同じものを使う。

 だから、ソープの香りを嗅いでいると余計に意識が蕩けてしまう。

 思わずそのまま眠ってしまいそうになって、僕は慌てて首を振った。


 いけない。前にお風呂で寝てしまった時はいつにも増して過保護な扱いを……じゃない、お姉ちゃんに迷惑をかけてしまったから、繰り返さないようにしないと。

 ……あのときのお姉ちゃんの膝枕はとっても気持ちよかったけど。


 僕は身体を綺麗に流すと、じっくり湯船に浸かってからお風呂を出た。


「上がったよ、お姉ちゃん」

「お帰りなさい。ちょうどご飯できたから一緒に食べよ」

「うん」


 僕たちは向かい合って席に着き「いただきます」を言った。

 お姉ちゃんはたいてい食事にお風呂へ入る。お湯が冷めちゃうから先に入ってきたら、と言うといつも「ゆーくんのお世話が最優先だから」と返される。実際、お代わりなんかは全部お姉ちゃんがやってくれる。


「父さんたちは?」

「今日は二人ともお仕事で遅くなるって。だから、今日は二人きりでゆっくりできるね」

「う、うん。そうだね」


 お姉ちゃんの笑顔が眩しくて、僕は少しだけどきどきしながら料理を口に運ぶ。

 ……美味しい。


 うちの食事は父さんたちが家にいるときも全部お姉ちゃんが作ってくれている。お姉ちゃんのレパートリーはすごく豊富で、和洋中、色んな料理が飛び出してくるので全然飽きない。

 そのうえ、毎日お弁当まで作ってくれているのだからお姉ちゃんはすごい。


「あ、そういえばお弁当箱」

「大丈夫。鞄から出して洗っておいたから」

「ありがとう、お姉ちゃん」


 本当に、お姉ちゃんはすごい。


「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした。じゃあゆーくん、今のうちに宿題しちゃいなさい」

「はーい」


 食後、お姉ちゃんは洗い物に立ち、僕は部屋に戻って宿題をする。本当は後片付けくらい手伝いたいけど、申し出ると絶対断られるのだ。

 集中して宿題を片づけ終えると、しばらくしてお風呂上がりのお姉ちゃんがやってくる。


「それじゃあ寝よっか、ゆーくん」

「うん」


 揃ってお姉ちゃんの部屋に向かう。出来るだけ一緒に寝るのが僕たちのルールだ。

 半ば抱きしめられた状態で廊下を歩き、お姉ちゃんの部屋に着く。ベッドに腰かけると、部屋中を満たすお姉ちゃんの匂いにくらくらした。

 くすりと笑ったお姉ちゃんが頭を撫でてくれる。それに逆らわず、僕は身体を預けてしまう。


「ゆーくんはいい子だねー」

「えへへ」


 嬉しい。気持ちいい。幸せ。

 どんどん思考が蕩けていって、何もかもがどうでもよくなる。

 お姉ちゃんがいればそれでいいんだって思えてくる。


「じゃあゆーくん、今日あったこと、お姉ちゃんに聞かせて」


 そして、僕はお姉ちゃんに今日あったことを話して聞かせる。

 二歳歳の離れた僕たちは、学校では離れ離れになることが多い。だから僕は毎日、お姉ちゃんにその日の出来事を報告するのだ。

 授業のこと、休み時間のこと、昼休みのこと――聞いた噂や、会った人、話した内容などを詳しく。

 だいたいいつも三十分もせずに話し終わる。そうしたらお姉ちゃんは「ありがとう」と言って抱きしめてくれるのだけれど。


「ゆーくん、お姉ちゃんに隠していることない?」

「え……?」


 この日は放課後の出来事までを話し終えたのに、お姉ちゃんは不思議そうに首を傾げた。

 どうして? 隠していること、って?

 全部話したつもりだったけれど、言われた僕は胸の内をもう一度探ってみる。


 ……そうしたら、見つけた。

 さっきは無意識に避けた、今日の出来事。どうしてだろう、とても大事なことなのに。

 お姉ちゃんに隠し事なんてしちゃいけないのに。

 何故かざわざわする気持ちを抑えながら、僕はお姉ちゃんにそれを告げた。


「……真奈に好きだ、って言われた」


 今日の昼休み。幼馴染の女の子から告白された。ずっと好きだった。付き合ってほしい、って。

 嬉しかった。嬉しかったけど、どうしていいかわからなかった。


「それで?」

「考えさせて欲しいって答えた」


 そう答えると、お姉ちゃんは「そう」と頷いた。

 怒られるだろうか。そう思ってお姉ちゃんの顔を窺うと、彼女はにっこり笑って僕を抱きしめた。そのまま押し倒され、二人でベッドに倒れこむ。


「大丈夫、怒ってないよ」

「本当?」

「もちろん」


 ……そっか。なんだかほっとした。

 何故だか、お姉ちゃんは怒るんじゃないかと思ったから。もしかしたら、だから言えなかったのかもしれないけれど。


「でもね、ゆーくん。何かあったら、お姉ちゃんに必ず相談してね」

「相談?」

「そう。誰かと付き合うとか彼女さんにお弁当を作ってもらうとか、手をつなぐとか、キスするとか」


 そういうときは必ず相談すること。

 お姉ちゃんの囁き声が胸に染み込んでいく。心の奥底、深いところに刻まれる。


「できるよね、ゆーくん?」

「うん」


 それくらい簡単なことだ。僕が頷いてみせると、お姉ちゃんが嬉しそうに笑った。


「良かった。ゆーくんがいい子で嬉しいな」


 それから、僕たちは二人で布団をかぶり、抱きしめあったまま目を閉じた。

 お姉ちゃんの匂いに包まれながら幸せな微睡へと落ちていく。


 ………。

 ……。

 …。


 皆は本当のお姉ちゃんを知らないからあんなことが言えるんだ。

 お姉ちゃんは僕だけのもの、僕はお姉ちゃんだけのものなのに。

 綺麗で、とっても優しくて、学校の成績も良くて。父さんたち代わりに俺の世話を焼いてくれる自慢のお姉ちゃん。

 僕は、そんなお姉ちゃんが大好きだ。


「ゆーくん、ゆーくんはいつまでもお姉ちゃんのものだよ」

「もちろん、お姉ちゃんもずっとゆーくんのもの」

「だからずっと一緒だよ?」

翌朝めちゃくちゃ後悔した。

そんなゆーくんの日常の一コマ。

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