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光のもとでⅠ 第十二章 自分のモノサシ  作者: 葉野りるは
本編
44/80

44話

 病院から帰ると、栞さんが出迎えてくれた。

「おかえりなさい」

「ただいま」

「栞ちゃん、今日は夕飯任せっきりでごめんなさいね?」

 顔の前で両手を合わせ謝るお母さんに、

「何言ってるんですか」

 栞さんはにこりと笑顔を返した。

 お母さんは今の今まで私の病院に付き添っていたから、今日の夕飯は栞さんがひとりで作ってくれたのだろう。

 私は手洗いうがいを済ませ、ルームウェアに着替えるとピアノの前に立った。

 いつもならベッドに横になる時間だけれど、今夜だけは集計作業をお休みしていいとツカサに言われたため、夕飯の前に休む必要はない。

「翠葉、ピアノはあとにして先にご飯にしましょ」

「はい」

「じゃ、お箸出して」

「うん」

 もう七時になるというのに、今日は唯兄も蒼兄も帰ってきておらず、私とお母さんと栞さんでの夕飯。

「唯兄は?」

「秋斗くんのところで仕事の打ち合わせって言ってたわ」

「蒼兄は?」

「……さぁ、なんだったかしら?」

 聞いていたけど忘れてしまったのか、もとから聞いていないのか。宙を見て首を傾げているお母さんからは情報を得られそうにない。栞さんの顔を見てみるも、

「私も今日はとくに何も聞いてないわ」

「珍しいね? 蒼兄が連絡もしないなんて」

「そう言われてみればそうね?」

 首を傾げるお母さんに、栞さんはにこりと笑って答えた。

「でも、今までもそうだったけど、夕飯がいらないときはきちんと事前に連絡してくれるから、帰りが遅くても夕飯は食べるんじゃないかしら?」

 その一言に、私もお母さんも納得した。

 いつもの団らんからふたり欠けただけなのに、なんとなく寂しい。

 もし、蒼兄がうちではない建築会社に就職したら?

 もし、蒼兄が結婚したら?

 もし、唯兄がホテルに戻ってしまったら?

 もし、唯兄が結婚したら?

 この空席の状態が「日常」になるのだろう。

 今はゲストルームにいるから栞さんと一緒にご飯を食べることができるけど、幸倉に戻ったら――。

 高校を卒業したらこの生活は終わる。

 二年後、家族にはどんな変化が起きて、私はどんな道を歩いているだろう。

「翠葉、お箸も口も止っているわよ?」

 お母さんに指摘され、慌ててご飯に意識を戻す。

「どうかした? なんかしんみりとした顔をしてるけど」

 栞さんに言われて苦笑を返す。

「……ふたりがいないとなんだか寂しいなって思っただけです」

 考えていた一端を話す。でも、この先は訊かれたくないし話したくない。

 今はまだ、この先のことを深く考えたくなかった。

「翠葉、こんな日もあるわ。でも、家族は離れていても家族なのよ」

 何もかも見透かしたような目で、お母さんが口にした。

「家族」というだけで、無条件で近しい関係でいられることを幸せだと思う。でも、すぐ近くにいた人たちだからこそ、ライフスタイルの変化で距離が生まれることに抵抗がある。

 私、いつになったら「ひとり」を受け入れられるようになるんだろう……。


 食後、私は少し休むとピアノの前にいた。

 栞さんは食後のティータイムのあと十階へ戻り、今は私とお母さんのみがこのゲストルームにいる。

「お母さん、ピアノ弾いてもいい?」

「いいわよ。電話をかけるときは翠葉の部屋に移動するから、気にせず弾きなさい」

 お母さんは仕事のファイルとノートパソコンを広げた。

 ピアノを弾くといっても、弾くのはツカサの伴奏のみ。

 歌の練習をしようと思っていたわけではなかった。

 何度か伴奏をさらうと、今度は同じファイルに入っている自分が歌う歌詞に目を通す。

 それらの曲は無意識に口ずさめるくらいには、私の身体にも頭にも馴染んでいた。

 なのに、今日、図書室でした会話がどうにもしっくりこない。

「ガーネット」と「小さな星」は恋愛の歌であるとわかる。それは歌詞の中に「恋」という言葉が入っていたり、「好き」は「好き」でも、家族や友達を思うものではないんだろうな、と思えたから。

 ほかの曲は何度読み返しても、何度口ずさんでも、どうしても恋愛の歌には思うことができなかった。

「なぁに? 明日は紅葉祭なのに、こーんなに眉根寄せちゃって」

 気づけば、お母さんの人差し指が私の眉間をつついていた。

 自分の手で、そのしわを伸ばすようにさすりつつ訊いてみる。

「今日ね、私が歌うものは恋愛の歌が多いよね、って話になったのだけれど、私、言われるまで全く気づかなくて……」

 それどころか、言われた今ですら、そう解釈することができずにいる。

 お母さんはパラパラとファイルをめくって、

「いいんじゃない?」

 カラっとした声で言う。

「翠葉が感じたことを表現すればいいんじゃない? 大切なのは伝えたいという気持ちでしょう?」

 その言葉に茜先輩の言葉が重なった。

「……うん、それでいいことにする」

 ストン、と胸に落ちた言葉に、私はピアノの蓋を閉め、ゆっくりと椅子から立ち上がる。

「久しぶりなんだから、ゆっくりお風呂に入ってきたら?」

「うん、そうする」

 長く浸かれる気はしないけど、時間を気にせずにお風呂に入れるのは嬉しい。


 ファイルを手にいそいそと自室へ戻り、お風呂の支度をしてバスルームに向かった。

 相馬先生に、身体のバランスが少しずつもとに戻りつつある、と今日言われた。

 緊張からなのか、ストレスの脈は依然として強いと言われているけれど、そのほかの内臓は滋養強壮剤を使う前の状態近くまで回復していると言われた。

 洗面所の引き出しを開け、精油の小瓶を三本チョイス。

 今日はサイプレス、カモミール、グレープフルーツ。サイプレスは二滴、カモミールは一滴、グレープフルーツは三滴。

 今日はほんの少しのんびり入れるから、ベースノートからミドルノートの役割を果たすサイプレスを選んだ。それから、あと数日で生理がくるから、ということも考慮してのチョイス。

 身体を温めるために天然塩も大さじ二杯追加した。

 目的は緊張をほぐすことと、前向きな気持ちになること。そして、身体を温めること。

 ミュージックプレーヤーを持って入ったものの、結局湯船に浸かれたのは十分もなかった。

 それでも久しぶりに湯船に浸かり、ゆったりとした時間を過ごしたと思う。


 お風呂から上がると、蒼兄も唯兄も帰ってきていた。

「おかえりなさい」だけを伝え、私は自室で髪の毛を乾かしていた。

 その途中、携帯がオルゴールの曲を奏でだす。

 曲が「いつか王子様が」だからツカサ。

 ツカサの着信は、メールも電話着信もこの曲にしてある。

「はい」

『何かしてた?』

「髪の毛乾かしてた」

『そう』

「ツカサは? 会計の話? それとも別の連絡網?」

 何か変更があれば、私にはツカサから連絡が入ることになっている。

『いや――ただ、緊張して眠れないことになってるんじゃないかと思って』

「…………」

『…………』

「……え? それだけ?」

『…………』

 沈黙が「悪いか」というツカサの心情を代弁し、さらには表情を連想させる。

「全然悪くないよっ!? むしろ、嬉しいっ!」

 それが正直な感想。

「ツカサの声が聞けたから少し落ち着いた。お風呂でもリラックスできるような精油をチョイスしたにも関わらず、緊張はとけなかったから」

『緊張して眠れなかったとか、洒落にならないから。とっとと睡眠導入剤でも使って寝ろ』

 その一言に思わず吹き出してしまう。

『何……』

「ううん。今日、同じことを相馬先生に言われてきたの」

『あっそ……。じゃ、早く休むように』

「ありがとう。おやすみなさい」

 そう言って通話を切ったのは十時半だった。

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