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光のもとでⅠ 第十二章 自分のモノサシ  作者: 葉野りるは
本編
25/80

25話

 ぐちゃぐちゃな顔のまま「ごめんなさい」と口にしたら、栞さんに「顔を拭こう?」とホットタオルを手渡された。

 無言でそれを受け取り顔にあて、目にある余分な水分を吸い取ってから顔を離した。

 もう一度「ごめんなさい」を言おうとしたら、湊先生に両頬をつねられた。

 真正面から、「次はない」と射抜くような目で言われ、すぐに病室を出ていってしまう。

 蒼兄にはぎゅっと抱きしめられるだけで何も言われなかった。

 私は蒼兄の耳もとで何度か「ごめんなさい」と小さな声で謝った。

 改めて実感した。みんなが見守っていてくれたことを――。

「んじゃ、治療するから廊下に出てろ」

 昇さんの一言に、栞さん以外の人が病室を出ていった。

 出る間際、唯兄に声をかけられる。

「司くんには俺から連絡入れてもいい?」

「……お願いしてもいい?」

「もっちろん!」

 自分の声があまりにも聞き苦しい声だったから、唯兄にお願いしてしまった。

 泣いて叫ぶとこんな声になるんだ、と初めて知った。

 治療中は治療に関することしか話さず、淡々と時間が過ぎた。

 心にあった真っ黒な箱は空っぽになったけれど、不満をすべて口にしたからといって、それですっかり霧が晴れるわけではない。

 これからのことをあれこれ考えたいのに、何ひとつ筋道を立てて考えることができない。

 軸にすべきものまで心から失ってしまった気がした。

 大好きな人たちの顔と、「ありがとう」と「ごめんなさい」。

 それしかなくて、いつ治療が終わったのかもわからないような状態でぼーっと横になっていた。

 どのくらい経った頃か、蒼兄に「帰ろう」と声をかけられ身体を起こした。

 着替えを済ませて廊下に出ると、まだ先生たちがそこにいたからびっくりした。

「リィはあんちゃんの車で帰りな。俺は湊さんに車の運転付き合ってもらうから」

 コクリと頷くと、

「そうそう、起案書通ったってよ」

 あ――。

「そのあと、このシスコン二号は坊主をこれでもかってくらいいびってたぜ?」

「え……?」

「相馬先生、人聞き悪いこと言わないでくださいよ~。ちょっとお願いごとをしてただけじゃないですか」

 そう言った直後、唯兄は私を見てにこりと笑った。まるで、天使様みたいに。

「今日明日はベッドの上でゴロゴロしてろ」

 相馬先生は立ったままの状態で、何ヶ所かに置き鍼のパッチを貼ってくれた。

 口を開こうとしたら、

「今日はもういい。十分おまえの気持ちは聞かせてもらった。それ以上は感謝でも文句でも次に取っとけ」

 そう言われ、帰るように促された。


「……道が――」

 いつもなら駐車場を出て左折するのに、蒼兄は右折した。

 北側から藤山を回るみたい。

「今日は日曜日。市街へ抜ける道は混んでいそうだからこっちのルート」

 蒼兄の答えに納得し、そのままシートに身体を預けた。

 マンションに戻ってきてからは、ゲストルームに私と蒼兄、唯兄の三人だけ。

 ちょうどお昼時で唯兄がささっと煮込みうどんを作ってくれた。

 でも、私は少ししか食べられない……。

「リィ、麺処唯芹亭は乾麺使用なので、その都度一本から茹でられるって知ってる?」

 左のソファから唯兄に声をかけられた。

「……知らない」

「うん。まぁそういうことだから、スープは多めに作ってあるし、食べたくなったら食べられそうな分だけ茹でてあげるよ。食べられないときは回数重ねる努力をしよう? それから野菜のドロドロスープね」

「……うん。ありがとう」

「……それから、コレ」

 トン、と音を立ててテーブルに置かれたのはキッチンに置いてあった瓶。

「信じてないわけじゃないよ。でも、目には毒だと思う。だから、キッチンからは下げるね」

「はい。……ごめんなさい――」

 テーブルを前に、両脇のソファに座る兄ふたりに頭を下げた。

「翠葉……俺は同じことを繰り返さないでくれればそれでいい」

「はい……ごめんなさい」

 このまま延々と謝り続けそうな私を制したのは唯兄だった。顔を上げるよう促されて顔を上げると、

「麺類は伸びるとまずくなる」

 と、お碗を指差された。

 それにも「ごめんなさい」と答えると、

「『ごめんなさい』の効力が薄くなるからもう禁止!」

 蒼兄からは、

「そんなに申し訳ないと思うなら、これを全部飲んでもらおうかな?」

 ポカリスエットの大きなペットボトルをドン、とテーブルに置かれた。

「少しわかったんだ。翠葉を懲らしめる方法」

 蒼兄はにこりと笑みを深めた。


 お昼を食べたあとは言われたとおりベッドに横になっていた。

 ここのところはずっと身体が重だるかったこともあり、横になっているのは苦痛ではなかった。

 ぼーっとしていたのは病院にいたときだけで、帰り道、歩道を歩く見慣れた制服を着た人たちを見かけるたびに胸がきゅっ、と締めつけられた。

 今日明日はお休み。じゃぁ、そのあとは……? 紅葉祭まで二週間を切ったのに――。

 私はこのままどうなるのだろう。ここでリタイアなのかな……。そういうの、もう嫌なのに――仕方ないのかな……。

 がんばりどころを間違えるなって――なら、どこでどうがんばったら私はリタイアせずにいられるの?

 コンコンコン――ノックの音がして唯兄が顔を出した。

「あぁ、また泣いてるし……」

 唯兄はベッドまでやってくると、Tシャツの袖で涙を拭ってくれた。

「これ、湊さんから」

 差し出されたのは睡眠薬だった。

「とりあえず寝ろってことらしいよ」

 薬と一緒に二倍に希釈されたポカリを渡される。拒否権はない。

「俺はちょっとプレゼントを作りに出かけてくるから、帰ってくるまではいい子で寝てるんだよ?」

 そう言ってきれいにウィンクする。

 唯兄の手には黒い小さなノートパソコン。

 いつも愛用しているのはシルバーと白いパソコンだったはずだけど……。

「いい子にしてないとプレゼントあげないからね?」

 唯兄は念まで押して出ていった。

 唯兄……私が今欲しいものはね、鋼みたいな身体。でも、それは現実的じゃないから、柔軟な心が欲しい。どんなことにもしなやかに対応できる心が欲しい。

 たとえ途中で何かをやめなくちゃいけなくなったとしても、諦めなくちゃいけないことがあったとしても、それを受け入れられるだけのしなやかな心が欲しいよ。

 我慢する心じゃなくて、それを受け入れる心が――。

 携帯に手を伸ばし、もう見なくてもできる操作を繰り返す。

 携帯を耳にあて、低く落ち着いた声を聞きながら私は眠りに落ちる。

 今日は――今日だけは、何も考えない努力をしよう。あれこれ考えるのは明日にしよう。

 ひとりで答えが出せないのなら人に訊こう。空回りをする前に――。

 ツカサ――聞いてくれる……? 話を、聞いてくれる?

 バカって言われてもいいから、阿呆って言われてもいいから、学習能力がないって言われてもいいから――。

 あのね、私、そこにいたいの。せめて、紅葉祭が終わるまででいいから。そこに、いたいの……。

 どうしたらいいのかな……。どうしたら、そこにいられるのかな。

 ツカサ、話を聞いて――。

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