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光のもとでⅠ 第十二章 自分のモノサシ  作者: 葉野りるは
本編
24/80

24話

「わかるか?」

 先生は俺の目を見ろ、と言わんばかりに視線を合わせてくる。

 涙は、目の表面張力なんて関係ないみたいにボロボロ零れるから、視界は意外とクリアだった。

「周りの人間は、おまえがつらそうにしているのを見たくないから、おまえが倒れるのを見たくないから止めるんだ。おまえが大切だから止めるんだ」

 そんなこと、わかってる――。

「先生……私、この身体と十七年の付き合いなのよ? ……少しつらいくらいじゃ顔になんて出さない」

「くっそ――全然わかってねぇなぁっ。じゃぁ、顔に出るとき、仕草に出るときはどんだけつらいんだって話だろうがっ。がんばり方間違えてんじゃねぇっっっ」

「っ……わかってる、わかってるけどっっっ――」

 先生、倒れなくても心がつらい。すごくつらい……。

 行動をセーブすると、必然的に感情にもリミッターがかかる。

「ほら、最後まで残さず吐け」

「どっちもつらいの、わかる? ……身体が平気でも、心がつらい。私のやり場のない気持ちは溜まる一方で、全然昇華なんてされない。それを私は――どこまで溜めればいいの? ……この心は、いつまでもつの?」

 しゃっくりに邪魔されながらも、「最後」を伝える。

 もう、これ以上のものなどこの心にはない。

「わかってる……。だから、全部を取り上げるつもりはない。……いいか? 俺様の言うことをしっかり聞けよ?」

 そう言うと、先生が左隣に座り、私の身体をぎゅっと抱きしめた。

 隣に座っているけれど、ほぼ正面から抱きしめられている。

 先生の心音は規則正しく、力強くトクントクンと左耳から、左半身から伝わってくる。

 それと同時に身体の中から響く声と、頭上に降ってくる声が話を始めた。

「たまにならいいんだ。どうしても動きたい衝動を抑えられないとき、何か予定があってその日だけっていうなら。そういうときになら滋養強壮剤を許可する。だが、連日は許可できない」

 先生が息を吸い込む音まで聞こえた。

「前後のスケジュールをしっかり管理して、的を絞った部分に使うのならかまわない。もし、突発的に使うことになったのなら、そのあとには必ず休息を取ることが前提だ」

「そんなの、今と変わらない。何も、変わらない……」

 顔を上げ、真上にある先生の目を見る。

「今のままじゃ何も変わらない。……周りが変わるんじゃない。おまえが変われ」

 私が、変わる……?

「おまえの意識を少しずつ変えるんだ。最初に言ったろ? ひとつ何かを得たならそれに満足しろって。十分すぎるほど満足して堪能しろ。時間をかけて、なるべく長い時間そのことに満足できるようになれ。その時間が休息になる」

「でも、ひとつ得たらもうひとつ欲しくなる」

「あぁ、それが人間の欲であり、探究心、好奇心、向上心だったりするからな。それをやめろとは言わない。ただ、短期間で得ようとするな。そう言ってる」

「…………」

「人と比べることは一生やめられないだろ。『差』なんてものはそこかしこに転がってる。スイハは意外と頭がいいんだろ? おまえが人の体力を羨んだり健康を羨んだりするのと同じように、どこかで誰かがおまえの成績ってものやテストの点数を羨んでる。自分は自分、と自分の中にあるモノサシだけで生きているやつなんてそうそういやしねぇ。とくに学校社会なんてところは、他人との差を当たり前に感じるようにできてんだ。それを教える場所でもある。スイハ、どんな人間だって何かしら葛藤を繰り返して生きてんだよ」

「……大人になっても?」

「変わんねぇよ。大人になると――そうだな、学校の代わりに会社、職場ってところにそれが移る。そこでは自分がした仕事内容が出世に響く。同期で入った人間がどんどん出世していき、周りの人間もそれなり。その中で自分だけが平社員のままなら劣等感を抱いたっておかしくねぇだろ? 主婦だって同じだ。子どものいるなしで悩む人間もいれば、子供が幼稚園に上がってよその家と自分の家の金銭的余裕を目の当たりにしたり――大人になったってすべての葛藤がなくなるわけじゃない」

「……その葛藤を……みんなどう片付けるの? どう対処するの?」

「それはケースバイケース。ものによりけり、人によりけり、だ。……が、今のおまえには助言してやれるぜ?」

 助言……?

「おまえが考える人の体力のマックスが十なら、おまえは五とする」

 すでに差がありすぎて、心が痛いと叫ぶ。

「ここに一メートルのモノサシがあるとしよう。これは他人の十だ。おまえの五をこの一メートルに置き換えるとしたらどうなる? 体力とかそういうこと考えんな。ただの算数だ。数と長さだけを考えろ」

 数と長さ……。

「単純に考えるなら一メートルは百……百が十で五十が五になるなら、十が五になったときには――」

 細かい目盛りはたくさんある。けれど、区切りとして大きな印が付けられているのは十センチ単位。だとしたら――。

「数と数の間の幅が十のモノサシの二倍になる」

 十は五の二倍もあるのだから、その間隔は二十センチになる。

「二十センチの間にもう一本線を引いてみろ」

 頭の中でそれを想像する。と、数字的にはとても中途半端だけれど、長さ的には十センチ刻みのモノサシになった。

「そのモノサシの隣に十のモノサシを置いてみろや。何か違うか?」

「……大きな区切りの目盛りの場所が同じ」

「そういうこった。五を十に見せるマジック」

 そう言って口端を上げてみせる。

「でも先生、数字的に無理がある。十は十で五は五だもの」

「だったら数字も忘れちまえ。長さだけ見てろ」

「……難しい」

「すぐになんでも完璧にできるわけじゃないだろ。少しずつ慣れろ」

 難しいよ、先生……。

 だって、私は十あるモノサシが欲しいのに、やっぱりどうしたって五なのでしょう?

 こんなふうにモノサシを使って錯覚を起こさせる方法しかないなんて……。やっぱり行動を制限することに慣れなくちゃいけないのね。

「どうしてもこれだけはやりたい、ってものはやっていい。これはそのために付けてるんだろ?」

 先生は制服の袖で見えないバングルを指差した。

「あれもだめこれもだめ――そういう制限を外すために付けたものなんだろ? 今回みたいにおまえが無茶したときに止めるためにある装置なんだろ? それなら、全部がだめなんて言わねぇ。おまえを見張るための装置じゃないからな。おまえが少しでも自由に動けるために付けられた装置だ。そこを間違えるな。おまえが自分のことを大切にできるようになったら、これはいつでも外せる。そういうものだ」

「――先生……私、またひどいこと言っちゃった」

 止りかけていた涙がまた溢れ出す。

「坊ちゃんに対してか?」

 先生が言う「坊ちゃん」は秋斗さん。

 そう――私がひどいことを言ったのは秋斗さんだ。

 私のために作ってくれたのに、こんなものいらないと言ってしまった。それから――。

「秋斗さんだけじゃない。……みんな、先生たちやお父さんたち、蒼兄に唯兄も……」

「あぁ、それな。みんなはみんなだろうけれど、今回は坊ちゃんに感謝するんだな」

「え……?」

「おまえのバイタルがそんなだったらシスコン兄貴たちが黙ってると思うか?」

 ……思わない。

「水曜日、御園生夫妻に連絡してすぐに了承を得た。そのあと、医療従事者側の人間には俺が話をした。ほか、おまえのシスコン兄貴を止めたのは坊ちゃんだ。もう少し待つように――みんなが待ってたんだ。おまえが何かを得るのを。俺が止めるのを。……俺はひとつでもおまえが達成感を感じられるものを手にできればいいと思ってた。それまで待とうとは思っていたが、さすがに水曜日から飲み始めて今日も飲ませたら五日連続だからな。俺も待つのはやめて手を打たなくちゃいけない状況まできていた。そこへ昨日の夕方、坊ちゃんから連絡があった。ひとつ、仕事らしい仕事を任されたらしいってな」

 ……もしかして、私が寝ているときに電話してくれたの?

「だから、俺も躊躇せずに今日おまえを呼び出せた」

 私はまた知らないところで守られていた。今度は心と身体と両方……。

 どうして私は気づけないのかな。どうしていつも自分のことでいっぱいいっぱいなんだろう。

「先生……先生、ごめんなさい。――ごめんなさい……」

「……おまえの気持ちの代理はしてやれねぇし、その身体の代わりにもなってやれない。だから、おまえにはおまえを大事にしてもらいたい。その術を身につけてほしい。治療のほかに俺はそんな手伝いしかしてやれねぇ」

 頭をワシワシとされ、白衣の袖でぐい、と涙を拭われた。

「おら、そこにいるバカ二号、とっとと入ってきやがれ」

 先生が少し大きな声で入り口へ向かって声を発すると、足音も立てずに唯兄が入ってきた。

「立ち聞きばれてました? あ、でも、ちゃんとお行儀良くソファに座って聞いてたんですけどね?」

「……唯兄」

 唯兄は苦笑交じりの笑顔で私の隣に座った。

「ごめんね、キッチンにあんなもの置いてて。あれさえ見つけなければこんなことにはならなかったもんね」

「違うっ――私が勝手に手にしただけ」

 秋斗さんが言っていた意味がわかってしまった。

 ――「あのさ、ふたりともどう思う? できることをやらないでいるのと、上限以上のことを無理してがんばりすぎちゃうの。……俺はどっちにも色々問題があると思うんだけど」。

「無理」は薬を使うことで、「問題があると思う」と言ったのは、私がこの薬に頼る行為のことだったんだ。

 間接的だけど、それでもちゃんと注意を促してくれていた。

「涙がたくさん出るね」

 唯兄が笑う。

「スイハ、つらいかもしれないけど少し休め。このままは良くない。痛みだって薬で抑えてんだろ?」

 もう、隠し事はできなかった。

「あと十分もしたら昇が来る。そしたら施術してもらえ。今日明日はゆっくり自宅で休むこと」

「っ――」

 心は全力で「嫌だ」と叫んでいるけれど、理性がそれを止める。もう、それを嫌だと言える状況にはない。

 心と同じように、この身体がもう限界だと悲鳴をあげていたから。

 言える状況ではないけれど、歌の合わせや色んなことが気になって、どうしたらいいのかがわからなくて涙が出る。身動きが取れない自分に涙が出る。

 すべて吐き出すことで「理性」は戻ってきたけれど、それはすべてを納得しているわけではない私にとっては「枷」でしかなく、「リミッター」でしかない。

 わかった――誰に腹を立てているわけでも、誰に不満があるわけでもない。私は自分に不満があるのだ。

 自分の身体にも、自分の心にも。自分が今の自分をどうにもできないことに不満がある。

 これは人にどうにかしてもらうものではなく、私がどうにかしなくてはいけないもの。

 先生が言うように、私の意識が変わればこんな思いを抱かなくて済むのだろうか。

「スイハ、ひとりで抱えんな。つらかったらつらいで周りの人間に吐け。俺でもいいから」

「そうそう、泣き言言っちゃいなよ。俺なんて毎日のように言ってるよ。秋斗さん、ほんっと人遣い荒いんだから。あ、それからオーナーもね」

「くっ、バカ二号は頭のつくりがいいみてぇだな? 説明だって一から十までしなくとも察することができんだろ? そういうやつが部下にいると楽なんだ」

 先生はケケケ、といつものように笑った。

「俺、何気に顔も頭もいいんですよねぇ……。それを買われちゃって困るのなんのって」

 唯兄はげんなりとした声を発しつつも、いつもの調子で返す。

 そこに、コンコンコン――。

 ドアをノックする音が聞こえ、「入るぞー」と昇さんがカートを押して入ってきた。その後ろから栞さんと湊先生、蒼兄も。

「おら、言うことがあんなら一気に済ませろや」

 そう言ったのはもちろん相馬先生だった。

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