プロローグその2
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「《魔男》よ。《黒曜姫》の名において命じる。《純潔の乙女》がおもらしをして汚れた床を掃除するのだ」
「だが断る」
水の入った桶と乾いた布きれ三枚を手に戻ってきた栗栖は、魔王の勅命をばっさりと切って捨てた。
「自分の部屋ぐらい自分で掃除してください。つうか、変態淑女であらせられる魔王様におかれましては、喜び勇んで自分の手を汚しつつ美少女のおしっこを掃除すると思いましたが」
いかにも投げやりな態度を隠そうともせず、適当な敬語で心の裡を吐露する。
「おもらしとかおしっことか言うなバカァ!」
「なら他に何て言えばいいんだよ?」
栗栖は返事など期待せず、手にした布きれの一枚をコロナに差し出す。
「ふざけないで! あたしに掃除させる気? どれだけ辱めれば気が済むっていうのよ!?」
羞恥より怒りの感情が上回ったコロナは縛られたままの両腕を振りまわし、栗栖の手から布きれを叩き落とした。
「いや、そうじゃなくてだな。その……おまえの大事なところは自分で拭いてもらおうと思ったんだが。いつまでも濡らしたままだといやだろうし、俺や魔王様には触られたくないだろ?」
栗栖が手渡そうとした布きれは、他の二枚と違い、上質で純白の絹布だった。
「あ……ご、ごめん」
コロナは居心地が悪そうにしながらも謝罪の言葉を口にし、絹布を拾い上げる。
「ほら、魔王様も体を拭くコロナをガン見してないで、床掃除をしますよ」
栗栖は手中に残っていた二枚の薄汚れた布きれのうち、一枚をカルナックに放り投げる。
「《魔男》よ。すまぬがこれを渡されても、余は使うことができぬ」
カルナックは掌に闇を造り出すと、布きれを包みこんで消滅させた。
「失礼しました。つまりこう言いたいのですね? 『《純潔の乙女》のおしっこを雑巾に吸わせるなど勿体なくてできぬ。余が床にはいつくばってすべて舐めとろう』と。さすが魔王様、そこに痺れますが全然憧れません。それと、消した布きれの代金は魔王様のお小遣いから天引きしておきますのでご了承ください」
栗栖は顔に笑みを張り付けたまま、左手でカルナックの後頭部を抑えて床へ押し倒そうとする。
その言葉を耳にしたコロナは内容に不満を覚え、股間を拭う手を止めて口を開こうとするものの、栗栖の瞳孔が開いた笑みを目の当たりにして言葉を飲み込んだ。
「ま、待つのだ《魔男》よ。そなたは勘違いをしておる。たしかに余は美少女勇者のおしっこを舐めとることに異存はない。むしろ《純潔の乙女》の股間に顔をうずめて、啜って綺麗にしてやりたいとも思っておる」
コロナは狂気を孕んだカルナックの主張に、先ほど大鎌を突き付けられたとき以上に怯えて震えだした。
「だが、血液をはじめとした勇者の体液は、魔に属する者にとっては猛毒となるのだ」
勇者の体液は人間である栗栖にはなんの脅威でもない。それ故、カルナックは床掃除を彼に一任しようとしていた。
「そう言えばそんな設定がありましたね。すっかり忘れてましたよ」
「分かったら余の後頭部を抑えつけている手をどかすがよい。それとも、余の言うことが信じられぬと申すのか?」
「いえ、信じていますよ。信じているからこそ、魔王様の顔面を床に押し付けようと思いましてね」
栗栖は瞳孔をさらに広げ、カルナックの頭を抑えた左手にいっそう力を込めた。
「そ、そなた! 言動と行動が矛盾しておるぞ!?」
「いえ。後学のために、勇者の体液が魔族にとってどれほど脅威となるか調べる必要があると思いまして。なに、魔王様は最強クラスの魔族であるため、死にはしないでしょう」
「馬鹿者、逆だ! 魔族として高位の存在であればあるほど、勇者の体液はより効果を発揮するのだぞ!」
整った容貌を見る影もないほどに歪めて、必死に抵抗するカルナック。
栗栖は自らの主を大理石の床とを接吻させるため、とうとう両手を使いだして全力で押し倒そうとする。
「プッ……クスクス……あははは」
フリアード大陸に存在する全魔族十万ほどの頂点に立つ魔王と、それに次ぐ立場である栗栖の道化じみた行為を目の当たりにし、コロナは思わず噴き出してしまった。
ようやく落ち着きを取り戻したか。
栗栖はコロナの纏う空気が弛緩したことを確認すると、カルナックの頭から手を離した。
「さて、改めてコロナの処遇について話し合いをしましょう。委任状の内容では、俺に一任が一票、魔王様への反対票が一票、無効票が一票」
栗栖は真顔になると、淡々と話を進め始める。
「むう、この時点で《魔男》が一票、余がマイナス一票……結果が決まってしまったではないか。仕方がない。こうなったら魔王らしく力づくで意見を押し通すとしよう」
カルナックは口を尖らせ、床に落とした大鎌を拾い上げようと屈みこむ。
そのとき、遠くで何かが壊れる音が響き、轟という突風が室内に吹き荒れた。
その風の凄まじさたるや、目が開けていられないほどだ。
「うっ……一体なにが……って、ド、ドラゴン!?」
コロナの悲鳴に栗栖は瞼をあける。
目に飛び込んできたものは、二階建て民家ほどの大きさをもった暗緑色の物体だった。
触れるすべてを羊皮紙のごとく引き裂く鉤爪、剣や槍を撥ねかえす堅牢な鱗、集落ごと粉砕する紫電の息吹を放つ口。
並の人間であればその異形を目の当たりにしただけで、ある者は怯え、ある者は腰を抜かし、またある者は失神してしまうだろう。
しかし、栗栖は突然の闖入者に対して平然を装ったままだ。
「遅れて悪りぃ。魔王軍四天王がひとり《龍皇》のミル、到着したぜ!」
「姐さん、最前線で戦争中じゃなかったんですか?」
ドラゴン――ミルが発した、思わず耳を塞ぎたくなるような大音量にも怯むことなく話しかける。
「評議会に参加するために速攻ケリをつけてきたぜ。敵の処遇は信頼できる連中に任せてきたから、虐殺に走る心配もねえぞ」
「御苦労さまです」
四天王の一員として唯一まっとうに働いている龍の皇女を、栗栖はねぎらう。
「ところで、今日の議題である勇者はどこにいるんだ? こないだはマトモに戦えなかったし、今度こそ手合わせしてえんだよ」
「ああ、コロナなら……」
栗栖は視線を走らせ、
「……姐さんの姿を見てビビって失禁し、腰を抜かしてへたり込んで、泡をふいて気絶してます」
二回目の粗相をしたコロナを、いたたまれない表情で指さした。
「あー。怖がらせちまったか。悪いことしたな。人型に変身してから登場すりゃよかったなあ」
ミルは評議会に駆けつけるため、龍の姿のまま空を飛び、壁を突き破って終焉の間に飛び込んできた不明を詫びた。
「そういえば、姐さんの人型はまだ見たことありませんでしたね。どんな容姿なんですか?」
「あ、あー、そういえば、他の連中はどうした?」
ミルはあからさまに話題を逸らし、固い鱗に覆われた首を左右に動かす。
「クソネコとボケババアは欠席。変態魔王は姐さんの足元で床掃除中です」
「く……苦しい……でも感じてしまう……」
ビクンビクンとうつ伏せの体勢で小刻みに痙攣するカルナック。
彼女はミルがこの場に姿を現したときに踏み倒され、床にまき散っていたコロナの黄金水に顔面を押し当てられていた。
黄金水と接触している顔面から白煙を漂わせるカルナック。顔を上げようと試みるも、未だミルの前脚に踏みつぶされているためにままならない。
「本当に勇者の体液って魔族に効果あるんだな」
恍惚によるものか苦痛によるものか、判別のつかないうめき声をあげるカルナック。
栗栖はその生物を生温かい目で見降ろしながら、新しい水桶と布きれをとりに行こうと決意した。