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ブーリン家の姉妹

作者: 唐橋史

 私はその日、枕元に置いてあった携帯電話のアラームの音で目を覚ました。瞼が重い。首を起こすと、濃い紫色のカーテンの隙間から薄曇りの空が見えた。窓ガラスは外気に結露して、そこに赤紫色のレースのカーテンがべっとりと張り付いて、まるで青あざのような色をしていた。

「いいでしょ、そのカーテン。お気に入りなの」

 声のほうに目をやると、姉はクローゼットの前で着替えをしていた。背筋を伸ばして、黒いレースのついた赤いブラジャーを付ける。姉は胸のつんとあがったその先を、鏡に向かって何度か確認すると、鏡の中の自分に笑いかけた。黒いワンピースを頭からかぶり、金のピアスをつける。赤く染めた巻き毛に絡まるのが厄介なのか、何度かやり直した。

 私はそれを、顎の先まで布団をかぶったまま、薄目でじっと見る。

「なあに、気持ち悪い」

 姉はそう言うと、鏡台に座って化粧を始めた。姉は化粧道具をすべてインテリアのように鏡の前に一列に並べている。殊にマニキュアのコレクションは秀逸で、真紅や紫、目をそむけたくなるようなピンクの小瓶が薬品のようにずらりと並ぶ。姉は鏡を食い入るように見つめる。ファンデーションを塗りたくり、次はアイライナー、マスカラ、そして最後は、真っ赤な口紅を、刷毛で塗り込むかのように豪快な一筋で、唇に書いた。

「今日は遅くなるから、一日留守番おねがいね」

 姉がそう言ったので、私はようやく体を起こした。私はお腹までめくれあがったパジャマをズボンに押し込む。「えっ」と返したら、姉は露骨に嫌な顔をした。

「アパートを追い出された人間に断る権利あるの?」

 姉はそう言った。私を刺すような視線でじっと見る。私は何も答えられなかった。頭痛がひどかった。姉の声が、頭の鉢に響く。

 姉は毛皮のコートを着ると、再び私を見下ろした。私は姉の顔を見ることができない。姉はチェーンストラップのシャネルの黒いバッグを手に取ると、「勝手な真似しないでよね、気楽な学生さん」と、呟いて、部屋を出て行った。玄関のドアが、大きな音をたてて閉まった。

 しばらくして、私はベッドを這い出した。姉のベッドは薔薇の香水の匂いがする。カーテンは開けなかった。

 鏡台の鏡の中に、私がいた。

 実家から持ってきた高校時代の青いジャージがパジャマだ。胸のゼッケンが取れかけている。

 寝癖がひどい。目やにもひどい。何より、頬が水を含んだように、青白くむくんでいた。

 私は姉の鏡台に腰掛けた。じっと鏡の中を見やる。

 そのとき、電話が鳴った。鏡台の下のゴミ箱の横に無造作に置かれたFAX付きの固定電話だ。私は受話器を取った。

 受話器の向こうは男性の声だ。私は思わず息をのんだ。男性は構わず話し続けている。内容は頭に入ってこなかった。

 野太く、それでいて落ち着いた、水のような声に、私は聞き覚えがあった。鳥肌が立った。

 彼は私を姉だと思ったまま、上機嫌に話し続ける。穏やかな声が時々、上気する。恋人の、それだ。

「まだ部屋にいるの?」「待ち合わせには少し遅れるよ」「あとでメールするからね」

 そんな言葉の繰り返しに私は聞き入った。気付くと、涙がこぼれていた。

「杏奈?聞いてるか?」

 怪訝そうな言葉が繰り返される。私はようやく声を発した。

「私――」

 途端、受話器の向こうの声は、震えたような声で私の名前を呼んだ。

「真理?」

 それが最後だった。受話器を乱暴に置く音で、電話は切れた。

 私は全身が汗ばんでいるのを感じた。下着が濡れて、背中に張り付いているのがわかる。

 鏡の中をのぞき込む。青白くむくんだ顔は、にきびだらけだ。このところ特に酷くなった。過食気味なのだ。

 私は鏡台の上に置かれた姉の口紅に手を伸ばした。

 ジヴァンシィの紅い口紅だ。おそるおそる繰り出してみる。先端には姉の唇の皺の跡が残っていた。

 私はそれをじっと見つめる。

 そして、思い切り、自分の唇に押し当てた。ごりごりと、鈍い音を立てながら滑らせる。削れた口紅の滓が、細い糸のように丸まって、端から徐々に落ちていく。そして私の唇から大きくはみ出した。でも、私は手を止めない。

 鏡の中の私は、姉には似ていない。にきびだらけの顔は、姉のブランド物の化粧品を受け付けない。でも、唇だけは、姉と同じ紅い色だ。ぬらぬらとした光沢を放って、薔薇の香りをまき散らす。私は力をこめて、右から左に、左から右に、口紅を動かし続ける。

 幼い頃から私は姉と比べられてきた。学校の成績も、見た目も、センスも、何から何まで比べられた。終いには、恋人まで、姉を見るや、私が姉とまったく似ていないのを残念だと言った。

 そのとき、不意に吐き気が襲ってきた。私は口紅を鏡台の上に放り出すと、トイレに駆け込んだ。便器に顔を突っ込んで、指を口に入れようとしたとき、乱暴に玄関の扉が開く音がした。激しい足音を立ててトイレに飛び込んできたのは姉だった。彼女は私の髪の毛をわしづかみにすると、便器から引き離し、廊下へと私を叩きつけた。そして、その私の上に、自分の真っ赤な携帯電話を投げつけた。

「また吐いたの?」

 姉はそう言った。そして、私の右手首を掴みあげると、指にできた吐きダコを、思い切りつねった。

「こういうことばかり繰り返すからアパートまで追い出されるのよ!」

 姉はバッグを放り出すと、鏡台の下から固定電話を引っ張り出して、それを無造作にベッドの上に投げ出し、受話器を取った。数コールのうちに相手が出た。姉は恋人と簡単な挨拶を交わして、今日の予定であるとか、食事の用意だとか、そんなことを他愛もなく話した。そして、ふと、一瞬だけ、黙ったその数秒のあと、言った。

「わかってるでしょ。さっきのは、妹」

 私はようやく起き上がると、姉に締め上げられた右手首をさすりながら、姉の背後に立った。姉は私のほうを顧みて、私の手の上に、手を重ねた。姉の手首の半分もなく、針金のような私の右手首を、彼女は何度も撫でた。

「バカね。私はあなたが好きよ。例え妹があなたをどう想っていても」

 姉はそう言って、受話器を置いた。そして、実は忘れ物があって戻ったのだと言って、クローゼットを開けて、黒いマフラーを取り出した。そして、それを首にしっかりと巻き付けると、再びバッグを取って、黒いピンヒールのパンプスを履いて玄関を出ようとした。私がそれについて行くと、

「何よ?」

 と、彼女は振り返った。

「もうやめてよ」

 私は、振り絞る思いでそう言った。パジャマの袖口で口紅を拭う。手首から荒れた指先まで真っ赤になった。吐きダコまで真っ赤に染まった。瘡蓋がはがれて、そこに口紅の滓がめりこんだ。

 姉は私の肩に手を置くと、溜息をついた。彼女は言った。

「大丈夫。アンタをこんなふうにしたあの男を、私が地獄に堕としてやるわ」

 

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