第二話
ロラン家の領地、その外縁に広がる「静寂の森」。
この世界において、森とは恵みの場であると同時に、人知を超えた暴力――魔物が跋扈する禁域でもある。
だが、五歳になった俺、アレン・ロランにとって、ここは格好の「実験場」に過ぎなかった。
「……アレン、準備できたよ。いつでもいいよ」
背後から鈴を転がすような、けれど凛とした声が響く。
振り返れば、そこには五歳児とは思えないほど理知的な光を瞳に宿した少女、エリナが立っていた。 彼女の手には、俺が特注で村の鍛冶屋に作らせた、重心バランスを極限まで計算した特製の小剣が握られている。
「よし、エリナ。今日のメニューは、昨日の『マナの指向性移動』の応用だ。ただ魔力を体に巡らせるんじゃない。血管を流れる血液の流速に合わせて、層流を保ったままマナを加速させるんだ。乱流を起こすと、熱としてエネルギーが逃げるからな」
「うん、わかった。ええと……『レイノルズ数』を低く保てばいいんだよね?」
「その通りだ。飲み込みが早くて助かるよ」
俺は満足げに頷いた。
物理学の概念を、概念としてではなく「感覚」としてエリナに教え込んで二数年。
彼女は今や、この世界のどんな宮廷魔導師よりも正確に、効率的に、体内の魔力を制御する術を身につけつつある。
本来、この世界の戦士たちは「気合」や「根性」で魔力を爆発させる。
だが、それではエネルギーの変換効率は二十パーセントにも満たない。
エリナが俺の理論に従ってマナを「加速」させれば、その効率は八十パーセントを優に超える。
俺たちの前に、一頭の魔物が姿を現した。
この森の門番とも言える、ランクDの魔物「フォレスト・ウルフ」。
大人の猟師が数人がかりでようやく仕留められる凶暴な肉食獣だ。
「グルルッ……」
ウルフが低く唸り、地面を蹴った。
常人には一瞬の残像にしか見えないその突進。
だが、俺の視界には、ウルフの筋肉の収縮、マナの変動、そして空気の抵抗値までが可視化されたデータとして流れ込んでくる。
「エリナ。前方三メートル、仰角十五度。そこが、この獣の『慣性の特異点』だ」
「了解!」
エリナが踏み込んだ。
彼女の動きに無駄は一切ない。
マナを足裏に集約し、地面との摩擦係数を瞬間的に引き上げることで、物理法則を無視したような急加速を見せる。
すれ違いざま、彼女の小剣がウルフの首筋を撫でた。
キャンッ、という短い悲鳴。 首筋を正確に断たれたウルフは、勢いのまま地面に転がり、二度と動かなくなった。
返り血一つ浴びていないエリナは、静かに剣を納め、俺の元へ駆け寄ってくる。
「どうだった、アレン? 今のは層流を維持できてたかな?」
「完璧だ。運動エネルギーを百パーセントに近い形で衝撃力に変換できていたよ。これなら、次はもう一段階上の訓練に進めそうだ」
「本当!? やったぁ!」
エリナが嬉しそうに俺の両手を握る。
彼女の体温と、そこから伝わってくる濃密な魔力。
俺は、彼女のこの無垢な信頼を裏切るわけにはいかない。
彼女を世界で一番安全な場所に立たせるためにも、俺自身の「力」も完成させなければならない。
その時だった。
森の奥から、先ほどのウルフとは比較にならないほどの重厚な足音が響いてきた。
ズシン、ズシン、と大地を揺らす足音。
現れたのは、この森の主の一角、「グレート・ファング・ボア」だった。
体長は三メートルを超え、全身を硬質の毛と強固なマナの障壁で覆っている。
ランクで言えばCプラス。 正規の騎士団が小隊規模で対処するレベルの化け物だ。
「アレン、危ない! 私が前に――」
「いや、エリナ。下がっていてくれ。……ちょうどいい機会だ。俺の『新魔法』のデモンストレーションを見せてやる」
俺はエリナを制し、巨大な猪の前に歩み出た。
ボアは、小さな人間の子供を「ただの餌」と判断したらしい。
地面を猛烈な勢いで掘り返し、突進の構えを見せる。
周囲の空気が緊張で凍り付く。
だが、俺の意識はどこまでも冷静だった。
俺はこの世界に来てから、一度も「魔法」を使っていない。
一般的に言う、詠唱を行い、マナを火や水に変換する……という非効率なプロセスには興味がないからだ。
俺がやるのは、純粋な物理現象の再現。
(マナによる大気の捕獲。範囲、半径一メートル。形状、球体シェル)
俺は右手を突き出す。
ボアが咆哮と共に突進を開始した。
時速六十キロメートルを超える肉の塊。
(対象の進行方向に、超高密度の空気層を配置。……これより、ボイル・シャルルの法則に基づいた、断熱圧縮を開始する)
俺は、ボアの鼻先に展開した「空気の壁」を、魔力によって一気に圧縮した。
外部と熱のやり取りを行わないほどの超高速。 体積を急激に減少させれば、そこにある気体の温度は、物理法則に従い跳ね上がる。
――ドォォォォォンッ!
轟音。
それは魔法の爆発音ではない。
急激に圧縮され、数千度に達した空気が、断熱膨張によって周囲をなぎ倒した衝撃波だ。
突進していたボアは、自分が何にぶつかったのかさえ理解できなかっただろう。
鼻先の空気が太陽の表面のような熱源と化し、その衝撃が脳を直接揺さぶり、粉砕したのだ。
土煙が舞う中、巨大なボアが、糸の切れた人形のように俺の足元で倒れ伏していた。
焦げ茶色の毛は炭化し、周囲には焦げた匂いが漂っている。
「……アレン?」
エリナが呆然とした声を出す。
俺は、熱を持った右手を軽く振り、振り返って微笑んだ。
「ただの空気の圧縮だよ。別に、大したことじゃない」
「大したことじゃないわけないよ! 今、何も呪文を言わなかったよね? それに、火の魔法みたいな匂いもしなかった……」
「数式だよ、エリナ。世界は数式でできている。それを正しく運用すれば、詠唱なんていう時間の無駄は省けるんだ」
俺はエリナに歩み寄り、彼女の少し震える手を優しく握った。
彼女を驚かせてしまったかもしれない。だが、これが俺の選んだ道だ。
「エリナ。俺についてくれば、君もいつか今のを扱えるようになる。……いや、君なら、もっと凄いことができるようになるはずだ」
「私……アレンについていく。絶対についていくよ。私、アレンの力になりたいの」
エリナの瞳に、恐怖ではなく、より深い憧憬の光が宿った。
俺は彼女を抱き寄せたい衝動を抑え、その頭を優しく撫でた。
五歳にして、俺たちは既にこの地の生態系を凌駕してしまった。
だが、これはあくまで序章。
俺たちの目標は、この不条理な世界を支配する理そのものを、俺たちの知恵と力で上書きすることなのだから。
「さあ、帰ろう。このボアの肉は、きっと今夜のご馳走になる」
「うん! お父様たち、きっとびっくりするね!」
手を繋ぎ、夕暮れの森を歩く二人の影。
その背後で、焦げた森の主が横たわっている光景は、後に伝説となる「最強の二人」の物語の、象徴的な一ページとなった。




