白い結婚が明日で終わります ~無関心だった公爵様が急に溺愛してきました~
はじめまして、こんにちは。
すれ違い夫婦の、甘くて幸せなお話です。
後半はたっぷり甘々&ハッピーエンドなので、安心してお楽しみください。
少しでも、きゅんとしてもらえたら嬉しいです。
三年間――。
それが、私がこの公爵邸で「妻」として過ごしてきた時間だった。
けれど、その三年間に、私は一度も――
夫に、抱きしめられたことがない。
触れられたことも。
名前を、優しく呼ばれたことも。
……一度も。
「おはようございます、公爵様」
朝食の席で、私はいつものように頭を下げた。
長いテーブルの向こう側に座るのは、夫であるレオンハルト・ヴァルツ公爵。
整った銀髪に、冷たい青い瞳。
社交界では“氷の公爵”と呼ばれる人だ。
「……ああ」
返ってきたのは、それだけ。
視線すら、こちらには向けられない。
彼は静かに紅茶を口にし、書類に目を落としたまま、私の存在など最初からなかったかのように振る舞う。
――いつものことだ。
今さら、傷つくこともない。
……そう、思っていたはずなのに。
胸の奥が、きゅっと締めつけられるのを、私はどうしても止められなかった。
◇
食事を終えたあと、私は一人、自室へ戻った。
広くて、豪華で、完璧に整えられた部屋。
けれどここは、私の居場所ではない。
壁に飾られた肖像画も、高価な調度品も、すべて「公爵夫人」という肩書きのために用意されたものだ。
私自身のためのものは、ひとつもない。
「……今日は、私の誕生日なのに」
ぽつりと、独り言がこぼれた。
二十歳の誕生日。
本来なら、家族に祝われ、恋人に抱きしめられて――
そんな未来を、昔は夢見ていた。
でも、今は。
誰も、覚えていない。
夫も。
使用人たちも。
きっと、誰も。
「……馬鹿みたい」
期待する方が、間違っているのに。
私は鏡に映る自分を見つめた。
淡い金髪に、控えめな顔立ち。
特別美しいわけでもなく、特別優秀なわけでもない。
こんな私が、公爵様に愛されるわけがない。
最初から、わかっていたことだ。
◇
午後、侍女のマリアが、紅茶を運んできてくれた。
彼女だけは、この屋敷で唯一、私に優しくしてくれる存在だった。
「奥様……少し、お話が」
「どうしたの?」
珍しく、彼女は困ったように視線を伏せた。
しばらく迷ったあと、小さな声で言う。
「……あの。例の“契約”の件ですが」
心臓が、どくんと跳ねた。
「契約……?」
「はい。ご結婚の際に交わされた、期間付きの婚姻契約です」
――期間付き。
そんな言葉、初めて聞いた。
「それが……明日で、期限を迎えるそうで……」
「……え?」
頭が、真っ白になった。
明日で。
終わる?
「つまり……その……」
マリアは言いづらそうに続ける。
「……白い結婚の契約が、終了する、という意味で……」
私は、しばらく言葉を失ったまま、立ち尽くしていた。
白い結婚。
触れられないままの、形だけの夫婦。
それが――明日で終わる。
ということは。
(……離縁、されるのね)
胸の奥が、静かに、崩れていった。
やっぱり。
私は、必要なかった。
三年間の結婚生活は、ただの「期限付きの役目」だったのだ。
「……ありがとうございます、マリア」
私は、精一杯、微笑んだ。
「もう……大丈夫よ」
そう言った声は、ひどく震えていたけれど。
マリアが部屋を出たあと、私は静かにベッドに腰を下ろした。
窓から差し込む夕陽が、床を赤く染めている。
「……明日で、終わるんだ」
三年間、耐えてきた日々。
期待しないようにしてきた心。
全部が、無意味だったみたいで。
私は、そっと胸に手を当てた。
――痛い。
こんなにも、痛いなんて。
「……さようなら、私の初恋」
誰にも届かない言葉を、静かに呟きながら。
私は、明日を迎える覚悟を、決めた。
---
その夜、私は、ほとんど眠れなかった。
柔らかな天蓋付きのベッドに横になっても、まぶたを閉じるたびに、胸の奥がざわめいて落ち着かない。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、静かな部屋を淡く照らしている。
けれど、その光さえ、今の私には冷たく感じられた。
――明日で、期限を迎えるそうで。
何度も、何度も。
頭の中で、その言葉が繰り返される。
「……終わるのね」
小さく呟いた声は、広い寝室に吸い込まれて消えた。
返事をしてくれる人は、誰もいない。
三年間。
公爵夫人として過ごした時間。
豪華な屋敷。
華やかな社交界。
誰もが羨む立場。
それなのに――
私は、ずっと独りだった。
◇
……私が、彼を好きになったのは。
きっと、結婚するより、ずっと前のこと。
まだ、ただの伯爵令嬢だった頃だ。
あの日、私は、親しい友人と連れ立って、王都で流行しているというカフェを訪れていた。
白い石造りの建物に、淡い水色の看板。
窓辺には花が飾られ、甘い焼き菓子の香りが通りまで漂っていた。
「ねえエリシア、ここ、すごく可愛いでしょう?」
「本当……まるで絵本みたい」
窓から差し込む陽光に、紅茶の水面がきらきらと揺れていた。
私は、そんな穏やかな午後の時間が、好きだった。
店を出たあと、私たちは人で賑わう通りを歩いていた。
ドレスの裾がすれ合い、馬車の音や人々の笑い声が混ざり合う、活気ある王都。
そのときだった。
背後から誰かにぶつかられ、私はよろめいた。
「きゃ……!」
足元がもつれ、転びそうになった瞬間――
「――危ない」
低く、落ち着いた声とともに、誰かの腕が私を支えた。
強くもなく、弱くもない。
けれど、確かな力。
顔を上げた先にいたのは、銀色の髪を揺らす青年だった。
陽の光を受けて、まるで宝石のように輝く髪。
澄んだ青い瞳が、驚いたように、そして真剣に、私を映していた。
『怪我はないか』
その一言だけで。
胸が、どくん、と跳ねた。
鼓動が、耳の奥まで響く。
「……だ、大丈夫です」
声が震えてしまい、自分でも驚いた。
彼は一瞬、私をじっと見つめたあと、静かに手を離した。
『そうか』
それだけ言って、踵を返す。
名乗ることもなく、振り返ることもなく。
雑踏の中に、溶けるように消えていった。
名前も知らない。
身分も知らない。
けれど――
あの背中だけは。
なぜか、いつまでも目に焼きついて離れなかった。
その日から私は、無意識のうちに、銀髪の男性を探すようになった。
……まさか、その人が。
未来の夫になるなんて、夢にも思わなかった。
◇
翌朝。
眠れぬまま迎えた朝は、ひどく眩しかった。
私は身支度を整えると、誰にも告げず、書庫へ向かった。
長い廊下を歩く足音が、やけに大きく響く。
(……確か、この奥)
重厚な扉を開くと、紙と革の匂いが鼻をくすぐった。
並ぶ書棚の間を進み、一冊の帳簿を引き抜く。
『婚姻契約書控え』
指先が、かすかに震える。
嫌な予感が、確信に変わるのを、私はどこかで理解していた。
ページをめくる音が、やけに大きく感じられた。
『期間三年』
『身体的関係を持たないこと』
『期間満了後、双方の合意により解消可能』
文字が、視界の中で歪む。
「……やっぱり」
思わず、笑ってしまいそうになった。
私は最初から、“期限付きの存在”だった。
愛されるための結婚じゃない。
守られるための結婚でもない。
ただの、契約。
◇
書庫を出たあと、私は中庭へ向かった。
噴水の水音が、静かに響く。
春の花々が風に揺れ、甘い香りを運んでくる。
それでも、胸は空っぽだった。
「……初夜も、そうだったわね」
三年前の夜が、鮮明によみがえる。
純白のドレス。
揺れる燭台の灯り。
緊張で強張る指先。
扉が開き、彼が現れた瞬間。
胸が、張り裂けそうだった。
『……今日は、休め』
彼はそう言って、私から距離を取り、ソファに腰を下ろした。
『無理をする必要はない』
優しさなのか、拒絶なのか。
当時の私には、わからなかった。
ただ――
期待していた自分が、惨めだった。
◇
昼過ぎ、廊下で彼とすれ違った。
革靴の音。
翻る黒い艶やかなマント。
「……あ」
声をかけようとして、やめた。
彼は私を見ることなく、通り過ぎていく。
まるで、そこに私は存在していないかのように。
(……もうすぐ、終わるから)
そう思えば、少しだけ、楽になれた。
◇
夜。
私は部屋で、静かにトランクを開いた。
中には、わずかな私物。
母の形見。
読み古した本。
古いリボン。
三年間の人生とは思えないほど、少ない。
「……私、本当に、何も残せなかったんだ」
公爵夫人としても。
妻としても。
一人の女性としても。
私は、指輪をそっと外し、掌に載せた。
冷たい金属の感触。
愛の証ではなく、契約の印。
「……ここを出よう」
小さく、でも確かに、呟く。
「明日、誰にも迷惑をかけずに。
静かに、出ていこう……」
最後くらい、綺麗に終わりたかった。
私は、トランクの蓋を閉じた。
それは――
過去と決別する、ささやかな音だった。
その夜、屋敷は静かだった。
廊下の燭台が、ぽうっと橙色の光を落とし、絨毯の赤を柔らかく染めている。
遠くで時計が時を刻む音が聞こえるたび、胸の奥が小さく震えた。
私は自室の机に向かい、真っ白な便箋を前に、ペンを握ったまま動けずにいた。
書くべきことは決まっている。
――三年間ありがとうございました。
――どうか、どうかお幸せに。
それだけでいい。
そう思っているのに、指先が言うことをきかない。
インク壺の縁に触れたペン先が、かすかに震えた。
(……こんなにも、苦しいのに)
涙がこぼれてしまいそうで、私は唇を噛んだ。
ここまで耐えたのだ。
最後くらい、静かに終わりたい。
騒ぎを起こして、誰かに迷惑をかけるような真似はしたくない。
――でも。
胸の奥に、どうしようもなく幼い気持ちが顔を出す。
(本当は、引き止めてほしい)
扉が開いて、あの人が入ってきて。
冷たい声でもいい、短い言葉でもいい。
「行くな」と言ってくれたら。
そんな願いが浮かんでしまう自分が、情けなかった。
私は深く息を吸い、ペンを走らせた。
『レオンハルト様
三年間、お世話になりました。
公爵夫人として至らぬ点ばかりで、申し訳ございません。
明日で契約が満了するとのこと、承知しております。
私がここにいることで、あなたのご負担になるのなら、身を引くのが最善だと思いました。
どうか、どうかお幸せに。
エリシア』
――書けた。
たった数行。
こんなにも短いのに、胸が張り裂けそうだった。
私は便箋を折り、封筒に入れる。
封をするための蝋を溶かす手が、やっぱり少し震えていた。
赤い蝋が固まり、私の印が押される。
これで――終わり。
私は立ち上がり、ドレッサーの前に座った。
鏡の中の自分は、思っていたより顔色が悪い。
目の下にうっすら影があり、唇の色も淡い。
「……公爵夫人としては、失格ね」
小さく笑ってみせたけれど、声が掠れた。
左手の薬指に視線を落とす。
そこにある指輪は、いつもと変わらず静かに光っていた。
豪奢で、美しくて。
でも――私の心を温めたことは、一度もない。
私は指輪をそっと外した。
肌に残った輪の跡が、妙に生々しい。
机の上に指輪を置き、手紙の隣に並べる。
その瞬間、胸の奥で何かが「きゅ」と鳴った。
(……これで、本当に終わる)
私はトランクを引き寄せた。
中には、少しずつ詰めておいた私物。
母の形見のブローチ。
読み古した本。
質素なドレス。
この三年間で増えたのは、ほんのわずかな衣類だけ。
まるで、私は最初からこの屋敷に“いなかった”みたいだ。
蓋を閉じ、鍵をかける。
それは、覚悟を確かめる仕草だった。
◇
夜明け前。
屋敷が最も静かな時間。
窓の外はまだ群青で、遠くの空がほんの少しだけ白み始めている。
私は外套を羽織り、トランクの取っ手を握った。
扉の前で一度だけ、振り返る。
豪華な寝室。
絹のカーテン。
花の香りのする石鹸。
静かな燭台。
この部屋で私は、何度も泣いた。
泣いてはいけないと思いながら、泣いた。
「……さようなら」
小さく呟いて、扉を開けた。
廊下は薄暗く、燭台の火だけが頼りない。
足音が響かないよう、私は靴を手に持って歩いた。
冷たい石の床が、靴下越しにひやりとする。
その冷たさが、妙に現実的で――胸が痛む。
(見つかったら、どうしよう)
公爵様が起きてしまったら。
誰かに呼び止められたら。
――でも、誰も来ない。
当然だ。
私は、誰にも必要とされていないのだから。
使用人用の出入口まで辿り着き、扉に手をかけたとき、ふと、背後の気配に息が止まった。
……誰かいる?
心臓が跳ねる。
けれど、次の瞬間、聞こえたのは巡回の衛兵の足音だけだった。
私はそっと息を吐き、扉を開ける。
朝の空気が、冷たく頬を撫でた。
鳥が一羽、庭木の枝でさえずっている。
空はまだ薄暗いのに、世界だけは何事もないように動き始めていた。
私はトランクを引き、屋敷から離れる。
背後で扉が閉まる音がした。
――あの音は、まるで。
私の三年間に、鍵をかける音みたいだった。
◇
一方、その頃。
公爵邸の執務室では、夜通し灯りが落ちていなかった。
レオンハルト・ヴァルツ公爵は机に肘をつき、部下の報告書に目を通していた。
「……これで、最後だな」
低い声が、静かに響く。
机の上には、封印の施された書類が積まれている。
王宮の紋章。
諜報部の印。
そして、長く続いた“脅威”の終結を示す証拠。
部下が一歩下がった場所で頭を下げる。
「はい。標的を追っていた者たちの動きは完全に止まりました。
これで――奥様に危険が及ぶことはありません」
レオンハルトは、ほんのわずかに目を細めた。
その表情は、いつもの冷たさとは違っていた。
深い疲労の奥に、押し殺した安堵がある。
「……明日になれば、もう隠す必要もない」
ぽつりと、独り言のように呟く。
そして、誰にも聞かせない声で続けた。
「迎えに行く。……ようやく、俺の妻を」
◇
朝。
レオンハルトが自室へ向かったのは、日が完全に昇った頃だった。
扉を開ける。
薄いカーテンが揺れ、室内には穏やかな光が差し込んでいた。
「……エリシア」
呼んでも、返事はない。
ベッドは整えられている。
人の温もりが、どこにも残っていない。
机の上に、封筒が一通。
そして、その隣に――指輪。
レオンハルトの足が、止まった。
「……?」
ゆっくりと封筒を手に取り、封を切る。
数行を読み終えた瞬間。
彼の顔から、血の気が引いた。
――そして、初めて。
この男の表情が、崩れた。
「……いない?」
手紙を読み終えたあとも、レオンハルトは、しばらく動けずにいた。
指先に残る紙の感触だけが、やけに現実的だった。
三年間。
どんな戦場に立っても、どんな陰謀に巻き込まれても、冷静さを失ったことはない。
――その自負が、今、音を立てて崩れていく。
「……馬鹿な」
低く呟いた声は、かすれていた。
机の上には、指輪と手紙。
整然と並べられたそれは、まるで“別れの儀式”のようだった。
彼女は、最初から、去るつもりだったのか。
いや――違う。
震える指で、手紙を握りしめる。
「……違うだろ」
彼女は、そんな女じゃない。
誰よりも優しくて、誰よりも自分を後回しにする女性だ。
だからこそ――
(俺が、追い詰めた)
喉の奥が、焼けるように痛んだ。
「ギルバート!」
執務室の扉が、勢いよく開く。
レオンハルトは、珍しく声を荒げていた。
「今すぐ、妻の行き先を探れ」
呼ばれた側近は、一瞬目を見開いた。
「……奥様が?」
「いなくなった」
短く、だが重い言葉。
「屋敷中を当たれ。街道、宿、港――すべてだ」
「はっ」
即座に動き出す部下たち。
その背を見送りながら、レオンハルトは壁に拳を打ちつけた。
鈍い音が響く。
「……くそ」
初めてだった。
自分の無力さを、これほど痛感したのは。
――三年前。
政略結婚の話が持ち込まれたとき、彼は即座に断るつもりだった。
しかし、提示された相手の名を見て、息を呑んだ。
「……エリシア?」
あの日。
王都の通りで転びそうになっていた少女。
助けたあとも、なぜか忘れられなかった、あの瞳。
まさか、同一人物だとは。
調査報告書を読み進めるほどに、胸が締めつけられた。
継母からの冷遇。
利用され続けた生家。
政略の駒。
(……守らなければ)
その想いは、瞬時に確信へ変わった。
だが同時に、彼は“現実”も知っていた。
自分は、命を狙われている。
王弟派残党。
地下組織。
国外の密偵。
標的は、常に“最も大切なもの”だ。
――つまり、妻になる女性。
だからこそ、彼は決めた。
近づかない。
触れない。
愛していると悟らせない。
冷たくあれ。
嫌われろ。
そうすれば、彼女は狙われない。
「……初夜も、そうだ」
あの夜。
純白のドレスに身を包んだ彼女は、緊張で指先を強張らせていた。
本当は、抱きしめたかった。
震える肩を包んで、「大丈夫だ」と囁きたかった。
だが、それは許されない。
『……今日は、休め』
あれは、拒絶ではない。
必死な、自制だった。
彼は、何度も夜中に彼女の部屋の前まで行っては、引き返していた。
中から聞こえる、微かな寝息を確認して、ようやく安心して戻る。
そんな夜を、数えきれないほど繰り返した。
三年間で、暗殺未遂は七回。
毒殺未遂は二回。
誘拐計画は、未遂の段階で潰した。
そのすべてを、彼女に悟らせずに。
裏で血を流しながら、表では無関心を装った。
「……全部、終わったのに」
昨日。
最後の組織を壊滅させた。
ようやく、安全が確保された。
だから今日、伝えるつもりだった。
――もう、隠さなくていい。
――君を愛している。
そう言うつもりだったのだ。
◇
レオンハルトは、額に手を当てた。
息が、うまくできない。
「……俺は、なんて愚かなんだ」
守ったつもりで、傷つけていた。
愛したつもりで、突き放していた。
彼女の心が折れるまで。
その事実が、胸を抉る。
扉が叩かれた。
「閣下!」
ギルバートが駆け込んできた。
「街道沿いの宿で、奥様らしき方を見たとの情報が」
「……どこだ」
「東門から二里ほどの《白梟亭》です」
レオンハルトは、即座に外套を掴んだ。
迷いはない。
「馬を出せ」
低い声に、鋼の意志が宿る。
「今すぐ行く」
扉へ向かいながら、彼は言い切った。
「――今すぐ探せ。妻を連れ戻す」
◇
朝靄の残る街道を、馬の蹄が激しく叩いていた。
風を切って駆ける黒馬の背で、レオンハルトは前だけを見つめていた。
外套がはためき、冷たい空気が頬を打つ。
――遅れるな。
――間に合え。
ただ、それだけを祈るように。
◇
一方、エリシアは、小さな宿の二階の窓辺に立っていた。
《白梟亭》。
東門から二里ほどの、旅人向けの簡素な宿。
部屋には、木のベッドと小さな机、洗面台があるだけ。
公爵邸とは比べ物にならないほど質素で、どこか古びている。
それなのに。
「……落ち着く」
思わず、そう呟いてしまった。
ここには、誰の視線もない。
誰の期待も、誰の失望もない。
ただの“エリシア”として、いられる場所。
トランクを壁際に置き、椅子に腰を下ろす。
昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じると、あの屋敷の廊下や、冷たい背中が浮かんでしまって。
(……これでよかったの)
何度も、自分に問いかける。
答えは、いつも同じ。
――これしかなかった。
昼前。
エリシアは、街道沿いの市場へ向かっていた。
少しでも働き口を探そうと思ったのだ。
身分を隠し、質素な外套を羽織って。
……もう、公爵夫人ではないのだから。
市場は賑やかだった。
野菜を売る声。
焼き菓子の香り。
子どもたちの笑い声。
久しぶりに触れる、“普通の生活”。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
そのときだった。
「――そこの嬢ちゃん!」
荒々しい声。
振り向いた瞬間、男の腕に掴まれた。
「きゃ……!」
「ずいぶん上玉じゃねえか」
旅装の男が、いやらしく笑う。
周囲は混雑しているのに、誰も気づかない。
心臓が、凍りついた。
「は、離してください……!」
必死に振りほどこうとする。
けれど、力では敵わない。
「大人しく――」
その瞬間。
「――手を離せ」
低く、凍りつくような声が響いた。
男の手首を、鋼のような力が掴む。
「な、なんだお前は……」
次の瞬間、男は地面に叩きつけられていた。
悲鳴とともに、周囲がざわめく。
エリシアは、呆然と顔を上げた。
そこにいたのは――
銀髪の騎士姿。
息を切らしながら立つ、見慣れた背中。
「……レオン、ハルト……様?」
声が、震える。
彼は、ゆっくりと振り返った。
そして、その青い瞳が、彼女を捉えた瞬間。
張り詰めていた表情が、音を立てて崩れた。
「……エリシア」
その名を呼ぶ声は、今まで聞いたことのないほど、切実だった。
次の瞬間。
彼女の視界は、暗くなった。
強く、強く抱きしめられる。
「……離すな」
耳元で、掠れた声が震える。
「二度と、俺の前から消えるな……」
息が苦しいほど、腕に力が込められている。
それでも。
――温かい。
三年間、欲しかった温もりが、そこにあった。
「……どうして、ここに……」
かろうじて、声を絞り出す。
レオンハルトは、額を彼女の額に押し当てた。
「迎えに来た」
短い言葉。
けれど、すべてが詰まっていた。
二人は、市場から離れ、静かな裏道へ移動した。
石壁に囲まれた小さな広場。
木陰に、柔らかな光が落ちている。
レオンハルトは、彼女の肩に外套をかけた。
「……寒いだろう」
「……いえ」
本当は、寒さより、心が震えていた。
彼は、深く息を吸う。
そして――頭を下げた。
「……すまなかった」
エリシアは、息を呑んだ。
公爵が、頭を下げる。
ありえない光景。
「俺は……君を、傷つけた」
低い声が、かすかに揺れる。
「守るためだった。だが……結果的に、孤独にした」
拳が、強く握られる。
「許されるとは思っていない。
だが……もう一度、そばにいさせてほしい」
エリシアの視界が、滲んだ。
「……私は」
言葉が、詰まる。
嬉しい。
苦しい。
怖い。
全部が、胸に溢れる。
「……私は、ずっと」
唇が震える。
「ずっと……愛されていないと、思っていました」
彼の瞳が、大きく揺れた。
「……違う」
即答だった。
「俺は、最初から、君だけだった」
迷いのない声。
「王都で転びそうになっていた君を見た瞬間から。
……逃げられなかった」
――あの日。
カフェの帰り道。
あの記憶と、今の言葉が、重なる。
涙が、溢れた。
「……じゃあ、どうして……」
「怖かった」
彼は、正直に言った。
「君を失うのが」
沈黙。
そして、彼はそっと、彼女の頬に触れた。
「……愛している、エリシア」
初めて、はっきりと告げられた言葉。
世界が、止まったように感じた。
「……私も……」
エリシアは、小さく笑った。
涙を浮かべたまま。
「……ずっと、あなたが好きでした」
次の瞬間。
唇が、重なった。
優しくて、慎重で。
まるで、三年間の空白を埋めるようなキス。
それは――
二人にとって、初めての“夫婦の証”だった。
馬車は、ゆっくりと王都の石畳を進んでいた。
車輪がごとごとと小さく揺れるたび、座席がかすかに軋む。
厚手のカーテン越しに差し込む夕陽が、車内を淡い金色に染めていた。
向かい合って座る私と、レオンハルト様。
……いいえ。
もう、「様」はいらないのかもしれない。
けれど、三年間の癖は、そう簡単には抜けない。
私は膝の上で手を重ね、落ち着かない視線を窓の外へ向けた。
さっきまで。
市場で抱きしめられて、名前を呼ばれて、口づけまでして。
それなのに今は、ただ並んで座っているだけで、心臓がうるさくなる。
「……エリシア」
低く呼ばれて、びくりと肩が跳ねた。
「は、はい」
情けないほど裏返った声。
彼は、そんな私を見て、わずかに口元を緩めた。
「……緊張しているのか」
「し、していません」
即答したものの、たぶん嘘だとバレている。
彼は、そっと私の手に自分の手を重ねた。
温かい。
大きくて、安心する温度。
「無理に、平然としなくていい」
優しい声。
「俺の方が、ずっと落ち着かない」
「……え?」
「三年分、触れなかったからな」
さらっと爆弾を落とすのはやめてほしい。
顔が、一気に熱くなる。
◇
公爵邸に戻ると、正門の前には使用人たちが並んでいた。
執事も、料理長も、庭師も。
まるで帰還を祝う儀式のようだ。
「奥様……!」
「ご無事で、本当によかった……!」
次々にかけられる声に、私は戸惑ってしまう。
「み、皆さん……」
言葉に詰まる私の肩を、彼が自然に抱き寄せた。
「心配をかけた」
低く、はっきりした声。
「もう二度と、俺の妻を危険にさらさない」
“俺の妻”。
その言葉だけで、胸がいっぱいになる。
夕食は、久しぶりに大広間ではなく、小さな食堂で用意された。
窓辺には白い花が飾られ、キャンドルが静かに揺れている。
長いテーブルではなく、二人用の丸テーブル。
しかも、席は――隣同士。
「……向かいじゃないんですね」
「離れる理由がない」
即答。
私は、何も言い返せなくなった。
料理が運ばれてくる。
香ばしく焼かれた肉。
温かいスープ。
焼きたてのパン。
湯気と香りが、食欲を刺激する。
「ちゃんと食べろ」
彼は言いながら、私の皿に料理を分けた。
「最近、細すぎる」
「そ、そうでしょうか……?」
「そうだ」
断言。
さらにパンまで追加される。
「……増えてませんか?」
「増やしている」
堂々。
思わず、笑ってしまった。
食後、庭園を歩くことになった。
夕暮れの空は、薄紫と橙色が混ざり合い、幻想的だった。
噴水の水音。
花の香り。
遠くで鳴く鳥の声。
すべてが、穏やかで、優しい。
いつの間にか、彼は私の手を握っていた。
指が絡む。
自然すぎて、驚く暇もなかった。
「……手」
「離すつもりはない」
こちらを見ることなく言う。
でも、耳が少し赤い。
「今まで、できなかった分だ」
胸が、きゅっとする。
「……あの」
「ん?」
「私、ずっと……怖かったです」
勇気を出して言った。
「触れたら、嫌われるんじゃないかって」
彼は、足を止めた。
そして、私の両手を包み込む。
「……馬鹿」
優しい声。
「嫌うわけがない」
額を合わせて、低く囁く。
「愛しているんだ」
真正面から言われて、頭が真っ白になる。
◇
その日から。
私とレオンハルトの距離は、目に見えて変わった。
廊下を歩けば、いつの間にか指先を絡められている。
「……そんなに繋がなくても」
「必要だ」
当然のように言われて、言葉に詰まる。
執務室の前を通るときでさえ、彼の視線は必ず私を追っていた。
書類に囲まれていても、ふと顔を上げては、私がそこにいるかを確かめる。
まるで、消えてしまわないか確認するように。
ある日、知人の貴族男性と立ち話をしていたときのことだ。
「エリシア、最近とてもお綺麗に――」
「用件は何だ」
いつの間にか、背後に立っていたレオンハルトが、低い声で割り込んできた。
自然な動作で、私の腰に手を回し、ぐっと引き寄せる。
逃げ場はない。
相手の男性は、明らかに怯んでいた。
「……あ、いえ、その……失礼します」
そそくさと去っていく背中を見送りながら、私は苦笑する。
(……近すぎません?)
夜になれば、今度は逆だ。
寝室では、私が眠るまで、必ず腕の中に閉じ込められる。
「……くっつきすぎです」
「離すと、逃げそうだ」
「逃げません」
「信用できない」
真顔で言われるたび、胸がじんわり温かくなる。
外出の際も同じだった。
馬車の乗り降りでは必ず手を差し伸べられ、歩けば自然と腰に手が添えられる。
まるで、「俺の妻だ」と世界に示すように。
そんな毎日に、私は少しずつ慣れていった。
……いや、正確には、慣れきれないままだ。
(……三年間の反動、すごすぎません?)
心の中で何度もそう突っ込みながら、それでも。
こんなにも大切にされる日が来るなんて、思ってもいなかった。
冷たい背中ばかり見ていた過去が、遠い夢のように感じられる。
今は、こうして。
隣にいてくれる人がいる。
触れれば、すぐに応えてくれる人がいる。
それだけで、胸が満たされる。
――夢みたいな、毎日だった。
◇
白い花が、風に揺れていた。
窓辺に飾られた白薔薇が、朝の光を浴びて、やわらかく香る。
その香りに包まれながら、私は鏡の前で息を整えていた。
今日は――“公爵夫人”としてではなく。
”レオンハルトの妻”として、改めてこの屋敷に立つ日だ。
胸が、少しだけ震える。
けれど、それは不安ではなかった。
期待と、嬉しさと、信じられないくらいの幸せで。
「奥様、こちらを」
マリアが、丁寧に髪飾りを留めてくれる。
あの日、「契約が終わる」と告げたときの、あの顔はもうない。
今の彼女は、泣きそうなほど嬉しそうに笑っていた。
「……まさか、こんな日が来るなんて」
私も同じ気持ちだった。
大広間には、王家の使者と、数人の貴族が集まっていた。
そこにいる顔ぶれを見て、私は息を呑む。
――私を、笑っていた人たち。
“白い結婚の公爵夫人”と陰で囁き、同情の仮面で見下していた人たち。
そして。
ひときわ派手な装いの令嬢が、こちらを睨むように見ている。
クラリス・ルーデン。
社交界で「公爵の隣は自分の席だ」と言いふらしていた、侯爵令嬢。
(……今日は、何も起こらないといいけれど)
そう思った瞬間だった。
「――まあ。奥様」
甘い声が響く。
「今日は随分と、張り切っていらっしゃるのね。
でも……“契約が終わる”はずでは?」
ざわ、と空気が揺れる。
心臓が跳ねた。
けれど、次の瞬間。
私の前に、すっと影が落ちた。
レオンハルトが、私の手を取って前に出る。
いつもより整えられた銀髪。
黒の正装。
そして、いつにも増して冷たい瞳。
――いや。
その瞳は、私を見た瞬間だけ、確かに温かくなる。
「契約は終わった」
彼が、低く言い切った。
クラリスが、勝ち誇ったように微笑む。
「でしょう? だから……」
「終わったのは、“白い結婚”の契約だ」
空気が凍った。
クラリスの笑みが固まる。
「今日ここで終わるのは、もう一つある」
レオンハルトは、王家の使者へ目を向けた。
「――王命により、三年間の脅威が排除されたことを報告する。
そして、俺の妻に対する“名誉毀損と不敬”の件。証拠は揃っている」
使者が、頷く。
「公爵より提出された証拠に基づき、王命を伝達する。
クラリス・フォン・ルーデン侯爵令嬢。
あなたは王家の名を利用し、虚偽の噂を流布し、貴族の秩序を乱した」
クラリスの顔色が、さっと青ざめた。
「ち、違いますわ……! 私はただ……!」
「あなたが“奥様は不要な妻だ”と吹聴した記録。
それを利用して、奥様への嫌がらせを扇動した記録。
さらに――公爵邸周辺で動いていた者たちへの金銭の流れ」
使者の言葉は、容赦がなかった。
クラリスが、震える。
「……私、そんなつもりじゃ……!」
「つもりの問題ではない」
レオンハルトが、冷たく言う。
「俺の妻を傷つけた」
その一言が、すべてだった。
使者が宣告する。
「クラリス・ルーデン。
あなたは社交界からの追放、半年間の謹慎。
加えて、侯爵家には罰金と、王都出入りの制限が命じられる」
クラリスは、崩れ落ちるように膝をついた。
周囲が、静まり返る。
私は、ただ立ち尽くしていた。
(……守ってくれていた)
言葉だけじゃない。
こうして、私の居場所を、名誉を、人生を。
彼は、世界の前で守ってくれている。
騒ぎが収まったあと。
大広間は、別の空気に変わっていた。
王家の使者は、最後に一枚の書状を取り出す。
「そして、こちらは王から奥様への言葉です」
私が受け取ると、そこには――
『公爵夫人エリシア。
あなたは三年間、王国の陰謀に巻き込まれながらも品位を失わず、
公爵の家を守り、民の模範となった。
よってここに、あなたの功を讃え、正式に公爵夫人としての地位を保証する』
文字が滲む。
私は、震える指でそれを胸に抱きしめた。
今まで、“いらない妻”だと思っていた。
でも。
私は、ちゃんとここにいていいのだ。
「……エリシア」
耳元で、彼の声がした。
振り向くと、レオンハルトが私の額にそっと口づける。
人前だというのに、誰も止めない。
むしろ、ざわめきが――祝福に変わっていた。
「……やめてください」
「やめない」
小さく囁かれて、私は泣きながら笑ってしまう。
◇
その夜。
寝室の灯りは、いつもより柔らかかった。
窓の外には、星が浮かび、静かな夜風がカーテンを揺らす。
私はベッドの端に座り、指先を見つめていた。
そこに、新しい指輪がある。
あのとき置いていった指輪ではない。
今日、レオンハルトが私の指に、改めて嵌めてくれたもの。
「……重いです」
「それくらいでいい」
彼は私の手を取り、指輪に口づけた。
そして、私の指先を、額へ、頬へ、唇へと辿らせる。
まるで、“ここにいていい”と何度も確かめるように。
「エリシア」
名前を呼ばれた。
それだけで胸がいっぱいになる。
「……白い結婚は、明日で終わる」
彼が、低く言った。
私は瞬きをする。
「……明日?」
「いや」
彼は少しだけ笑って、私の腰に手を回した。
「正確には――今夜で終わる」
耳が熱くなる。
逃げようとした私を、彼は逃がさない。
でも、それが怖くない。
怖いどころか――嬉しい。
「……怖いですか」
彼が、優しい声で聞く。
私は首を振った。
「……怖くないです。
だって、あなたが……ちゃんと、私を見てくれているから」
その瞬間、彼の瞳が、深く揺れた。
「……愛している」
今度は、囁きではなく。
確かな言葉として。
私は、胸の奥から溢れる想いを、そのまま返した。
「……私も。ずっと、あなたが好きでした」
口づけは、静かで、甘かった。
それは、空白の三年間を、優しく埋めていくような――
“始まり”のキスだった。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む光に、私は目を覚ました。
隣には、レオンハルトがいる。
腕の中に、私はいる。
その事実だけで、胸が満たされる。
「……おはよう、エリシア」
寝起きの低い声。
額に落とされる、軽いキス。
私は、思わず笑ってしまった。
「……おはようございます」
「敬語は禁止」
「……おはよう、レオンハルト」
「よく言えた」
ご褒美みたいに、もう一度キスをされる。
私は、くすぐったくて、でも幸せで、目を細めた。
――白い結婚は、終わった。
それは“終わり”ではなくて、“始まり”だったのだ。
これから私は、もう一人で泣かない。
これからは、隣で笑う。
そして。
私たちの幸せが、始まった。
完
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
すれ違っていた二人が、ようやく幸せになるお話でしたが、
少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
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感想も、とても嬉しく拝見しています。
また次の作品でお会いできたら幸いです。
ありがとうございました。




