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春の残り香

作者: 霞音

俺は平凡だ。


身長一七〇センチ、体重六〇キロ。黒髪で、取り立てて目立つところもない。大学の講義に出て、アルバイトをして、最低限の人付き合いをこなす。そんなありきたりな日常を繰り返している。


信念と呼べるほどではないが、一つだけ自分の中で守っている考えがある。それは、やらなくていいことは、やらない、ということだ。


無駄に首を突っ込まないし、余計な努力もしない。効率よく生きることが、人生を楽に送るコツだと思っていた。周りが部活やボランティアに精を出しているのを横目に、俺は必要最低限のことだけをやってきた。困ることはほとんどなく、ストレスも少なかった。


少なくとも、彼女に出会うまでは。


彼女の名前をここに書くつもりはない。呼び方一つで、その存在が遠いものになってしまう気がするからだ。


出会ったのは大学一年の春。友人に誘われて行ったサークルの新歓で、彼女はにこにこと笑っていた。


正直、サークルなんて面倒だった。けれど断るのも億劫で、雑居ビルの一室に足を踏み入れた。先輩たちの熱い勧誘にうんざりしていた時、声をかけてきたのが彼女だった。


「初めて? 緊張してる?」


背は一五五センチほどで、肩までの髪が揺れる。人の話を聞くときは必ず相手の目を見る。言葉を雑に扱わない、まっすぐさがあった。


印象的だったのは、その笑顔。笑うと目尻が下がり、周囲までつられて笑ってしまう。場の中心でなくても、そこにいるだけで空気が和らぐ。


「別に緊張はしてない」


「そうかな。顔に"帰りたい"って書いてあるよ」


図星を突かれて言葉に詰まる俺に、彼女はくすくす笑って缶ジュースを差し出した。


「まあ、とりあえずこれでも」


自然な気遣いが、少しだけ場を居心地よくした。結局サークルには入らなかったが、彼女とだけは連絡先を交換していた。


大学帰りに同じ方向だと分かってから、駅まで一緒に歩くようになった。


最初は気まずかった。何を話していいか分からず、スマホをいじりながら隣を歩く。けれど彼女は気にせず、ぽつりぽつりと話しかけてきた。


「今日の講義、眠かったね」


「ああ」


「あの教授、声が子守唄みたいなんだもん」


他愛のない会話が、いつしか自然になっていった。


ある日、彼女が唐突に言った。


「君、意外と背高いんだね」


「一七〇って普通だろ」


「私には高いよ」


そう言って俺の腕に軽く手をかけてくる。驚いて固まる俺を見て、彼女は首をかしげた。


「なに? お兄ちゃんにもこうしてたから、気にしたことなかった」


自然体の彼女に対し、意識してしまうのは俺だけだった。心臓が跳ねるのを悟られないように、わざと視線を逸らした。


それから二人で過ごす時間が少しずつ増えていった。授業が終われば学食に行き、たまにカフェに寄る。休日に映画を見に行くこともあった。彼女はアクション映画が好きで、俺が選んだ静かな作品には「眠くなっちゃった」と正直に言う。それがまた、嫌味がなくて笑えた。


恋人というには決定的な一歩を踏み出していなかったが、互いに惹かれているのは分かっていた。ただ、俺はその一歩を踏み出せずにいた。「やらなくていいこと」だと、どこかで思っていたのかもしれない。


彼女はよく俺をからかった。課題を後回しにしていると、「ほんとに、やらなくていいことはやらないんだね」と笑う。俺の考えを知っているからこその言葉だった。


「効率的なんだよ」


「ただの面倒くさがりじゃん」


そんなやり取りの後で、彼女は丁寧にまとめたノートを貸してくれた。几帳面な字で、色ペンを使って整理されている。俺のノートとは大違いだった。


ある時、彼女が真顔で言った。


「でもさ、それってちょっとズルいと思う」


「ズルい?」


「うん。やった方がいいことまで、"やらなくていい"にしてない?」


まっすぐな視線に言い返せなかった。


「……別にそんなつもりは」


「じゃあ例えば、誰かに告白するのは?」


心臓が大きく跳ねた。彼女の言葉が何を指しているのか、分かっていた。


「それは……」


答えられなかった。彼女は少し寂しそうに笑って、「まあ、いいけどね」と話を変えた。


あの時、ちゃんと答えるべきだった。今でもそう思う。


梅雨が明けた頃、彼女と近くの公園を歩いていた。じめじめとした空気が肌にまとわりつく。蝉の声が騒がしく、木陰を選んで歩いた。


大きな桜の木の下で、彼女が立ち止まった。


「ここの桜、すごくきれいなんだよ。春になったら一緒に見に来ようね」


「ああ」


「約束だよ」


彼女は小指を差し出してきた。俺はためらいながらも、その小指に自分の指を絡めた。細くて、温かかった。


「桜ってさ、どうして散るんだろうね」


彼女が急に、そんなことを言った。


「どうしてって……花だからだろ」


「そうだけど。せっかくきれいに咲くのに、あっという間に散っちゃうのって、なんかもったいないよね」


彼女は木の幹に手を当てて、どこか遠くを見ている。その横顔が、少し寂しそうに見えた。


「でも、散るからこそ美しいんじゃないか」


気づけば、そんな言葉が口をついていた。


彼女は驚いたように俺を見て、そしてふっと笑った。


「意外とロマンチストなんだ」


「違う。ただの屁理屈だよ」


「ううん、そんなことない。いいこと言ってたよ」


そのとき、彼女がいつもより近く感じた。儚いもの。消えてしまうもの。どうして彼女はそんな話をしたのか。あの時気づくべきだった。


秋が過ぎ、冬になった。


寒い日が続き、彼女と会う機会が減っていった。サークルにも顔を出さなくなり、LINEの返事も遅れがちになる。


最初は気にしていなかった。忙しいのだろうと思っていた。けれど一週間、二週間と返事が来ないと、さすがに心配になった。


ある日、思い切って理由を聞くと、彼女は笑いながら「ちょっと体調崩しててね」と答えた。軽い風邪のような口ぶりだったが、笑顔はどこか無理をしているように見えた。画面越しでも分かる、作り笑いのような気がした。


それから数日後、久しぶりに会えることになった。近所のカフェで待ち合わせたが、現れた彼女はいつもより痩せて見えた。


「久しぶり。元気だった?」


「まあまあ。お前こそ、大丈夫なのか」


「うん、ちょっと疲れてただけ」


コーヒーを飲みながら、いつも通りの会話をした。けれど、どこかぎこちなかった。彼女は時々黙り込み、窓の外を見つめていた。


「ねえ、もし私がいなくなったら、どうする?」


唐突に、彼女がそんなことを言った。


「いなくなるって……どっか行くのか?」


「そうかもね」


彼女は笑ってごまかした。けれど、その笑顔はどこか寂しげだった。


俺はそれ以上聞けなかった。聞いてはいけない気がした。今思えば、あの時彼女は何かを伝えようとしていたのかもしれない。けれど俺は、その言葉を受け取ることから逃げてしまった。


やがて彼女は大学に来なくなった。


連絡すると、「しばらく休む」とだけ返ってきた。嫌な予感がして、思わず「どこにいる?」と送ると、彼女はスタンプ一つで誤魔化した。


そして数日後、共通の友人から彼女が入院していると聞きされた。


「え……何の病気?」


「詳しくは聞いてない。ただ、しばらく入院するって」


頭が真っ白になった。携帯を握りしめて、何度も彼女に連絡しようとした。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。


結局、俺は病院へ向かうことにした。友人に病院名を聞き、面会時間を調べ、花屋で小さな花束を買った。見舞いに行くことが「やらなくてもいいこと」なのかどうか、もうどうでもよかった。


病室で再会した彼女は、思ったより元気そうに笑った。


「わざわざ来てくれるなんて、珍しいね」


「……暇だっただけだ」


本当は迷った。本当は心配でたまらなかった。けれど、足は自然と病院へ向かっていた。


「嘘。絶対心配してくれたんでしょ」


彼女はベッドの上で体を起こし、持ってきた花束を嬉しそうに受け取った。


「でも、来てくれて嬉しいよ。ありがとう」


彼女はそう言って笑った。その笑顔に、来てよかったと思った。


病室は白く、無機質だった。窓から見える景色は、灰色の空とビルばかり。けれど彼女がいるだけで、その空間は少しだけ温かく感じた。


「どれくらい入院するんだ?」


「うーん、まだ分かんない。先生もはっきり言ってくれないし」


「そうか」


それ以上は聞けなかった。聞いてはいけない気がした。


何度か病院を訪れるうちに、彼女が以前よりも痩せていくのが分かった。


それでも会話は明るく、冗談を言い、俺をからかう。けれど、笑顔の裏に隠れた疲れが、日に日に濃くなっていくのが見て取れた。


ある日の面会で、彼女は窓の外をぼんやりと見つめていた。


「春になったら、また桜見に行こうね」


「ああ、約束しただろ」


「うん……約束」


彼女は小さく頷いて、それきり黙り込んだ。何か言いたげな表情だったが、俺には何も聞けなかった。聞けば、答えが返ってくる。その答えを、俺は聞きたくなかった。


「絶対だよ。私、楽しみにしてるから」


しばらくして、彼女がぽつりと言った。その声は、いつもより小さく震えていた。


三月のある日、病室を訪ねると、そこは空になっていた。


ベッドにはきれいにシーツがかけられ、窓際に置いてあった花瓶もない。まるで誰もいなかったかのように、部屋は静まり返っていた。


驚いてすぐにスマホを取り出し、LINEを送った。


「どこにいる?」


返事は来なかった。既読もつかないまま、日が過ぎていった。


看護師に尋ねても、「個人情報なので」と教えてもらえなかった。友人に連絡しても、誰も彼女の居場所を知らなかった。


転院したのか、それとも――。答えは最後まで分からなかった。


調べれば分かったのかもしれない。けれど、彼女が教えなかったことを勝手に知るのは違う気がした。彼女が隠したかったのなら、それを尊重するべきだと思った。


それが正しかったのかどうか、今でも分からない。


それから数週間が過ぎた。


毎日LINEを送り続けたが、返事は一度も来なかった。既読もつかない。友人にも連絡したが、誰も彼女の消息を知らなかった。


そして、季節はまた春を迎えた。


桜が咲き始めた頃、俺はあの公園を訪れた。彼女と約束した、あの桜の木。


満開の花が枝いっぱいに広がり、風に揺れるたびにひらひらと花びらが舞い落ちる。その光景は、彼女が言った通り見事だった。


「桜はどうして散るのか」


彼女の言葉が、耳によみがえる。


散るからこそ美しい。そう言った自分の声が、今も耳に残っている。


けれど本当は、散らないでほしかった。ずっと咲いていてほしかった。彼女がそこにいるように。


彼女がどこにいるのかは、もう分からない。生きているのか、それとも――。その答えさえ、俺は知らない。


けれど、あの日彼女に会いに行ったことだけは、「やらなくてもいいこと」ではなかった。


あれは、やらなければいけないことだった。やりたいことだった。


風に舞う花びらを見上げながら、彼女ならこう言うだろうと思う。


「きれいだね」


そして、笑うのだろう。


俺は目を閉じて、彼女の笑顔を思い浮かべた。もう二度と会えないかもしれない。けれど、その記憶は確かにここにある。


桜の花びらが、頬に触れて落ちていった。

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