貴方のせいで私は今まで生きてこれました
朝餉の席。
銀の食器が並ぶ長卓の一番奥で、私は固く背筋を伸ばしていた。
震えを悟られまいと、膝の上で指を絡める。
「……また残したのか」
父の低い声が響く。
私は皿の隅に残った肉片を見つめた。気分が悪く、咀嚼できなかったのだ。
次の瞬間。
──パンっ!
父は私の頬を思い切りぶった。
椅子がきしみ、視界が白く弾ける。味も匂いも、瞬間的に失われた。
「貴族の娘が食事すら取れんとは、どこまで出来損ないなのだ」
言葉より衝撃が先に染みた。左頬が熱を持ち、鼓膜がジンジン痛む。
けれど泣けば、余計に怒りを買う。私は唇を噛み、頭を下げた。
「お父様、申し訳……」
謝罪が終わりきる前に、父は拳を振り上げた。
ゴッという鈍い音が肩を打ち、視界が揺れる。
兄弟たちは誰も顔を上げない。
「これはしつけ」と言わんばかりに、ナプキンで口元を拭うだけ。
──早く終わって欲しい。
それだけを祈る。
ーー
昼下がり、私は母の部屋へ呼び出された。
珊瑚色の壁紙、甘い香の香炉。
しかしそこは、私にとって冷えきった檻だ。
「フィーネ、鏡を見なさい」
鏡に映る自分は、頬に薄い青痣を宿していた。
母は私の肩に手を置く。
「その顔で夜会に出るつもり? みっともないわ」
「……申し訳ありません」
「謝罪など要らない。あなたの存在そのものが、家の値打ちを落としているの」
母は微笑んで言った。
白い手で私の髪を梳く――かと思えば、急に強く引く。
「痛っ……!」
「声を出さない。貴族淑女が呻くなど醜聞よ」
私の髪を掴んで、何度も強くゆすった。
ぶちっ、ぶちっ、と髪の毛が抜ける音が聞こえる。
滴る涙を見て、母の指先が喜ぶように震えた。
「ほんとに、早く死んでくれないかしら」
そのまま私を突き飛ばして何度か蹴った後、母は部屋から出て行った。
唇が切れて血が滲む。
口の中に広がるが、私はそれを飲み込んだ。
これが私の日常、誰からも必要とされず、忌み嫌われる。ゴミのような扱い。死にたくなる日もあった。手首にナイフを当て、何時間もその場から動かない時もあった。
でも、私は今を生きていられる。だって、今日は週に一度の──
ーー
夜。ベッドの天蓋を降ろしても闇は薄く、痛みは皮膚の下で鼓動していた。
涙を枕に吸わせながら、私は息を潜める。
すると──窓枠の向こう、裏庭の温室がわずかにきらめいた。
薄明りの中、影が揺れる。
その中から一人の男が現れ、手に二つのものを持っている。
腕も背中も痛む。けれど灯りを隠し、私は震える手で便箋と羽根ペンを取った。
唯一、私を私として呼んでくれる人へ、今日も手紙を書くために。
「レオネル様今日はほんの少し、泣きすぎてしまいました。でも、あなたの昨日のお言葉を思い出したら、息ができました……」
ペン先からこぼれるインクが涙と混じる。
けれど文字は止めない。言葉にしなければ、明日を迎えられない。
これがあるから、私は今も生きている。
人は、手紙で人を愛せるのだろうか。
最初はそう思っていた。
でも、何百回とやり取りを重ねた今、私は迷いなく答える。
愛せる。
彼の言葉に、私は何度も救われてきたのだから。
レオネル様の手紙は、週に一度届く。
屋敷の誰にも気づかれぬよう、庭師を一人買収した。
「君の手紙を読んだあと、しばらく空を見上げていたよ。この世界に、あんなに真っ直ぐに生きている人がいるのだと、胸が熱くなった」
そんなこと、ないのに。
私は嘘ばかりついている。
本当の私は、誰かを睨んだり、嫉妬したり、死にたいと思ったりするのに。
「君のことをずっと想っている。君は僕の希望だ」
その言葉を何度読み返しただろう。
便箋の隅が柔らかくなり、紙が指の熱を吸い上げてゆく。
この人に会いたい。
こんな私でも、必要だと言ってくれる人に。
ーー
ある日のことだった。レオネル様からこんな便りが届いた。
「今度、君に会いに行きたい。君が望むなら、顔を合わせて話がしたい」
それは、私にとって革命だった。
夢にまで見た未来が、今、現実になろうとしている。
私は泣いた。声もなく、ただ枕に顔を押し付けて、
「ありがとう」「ありがとう」と何度も繰り返した。
これまでの苦しみが、報われた気がした。
救われた気がした。
そして五日後、王都の宿屋で、私たちは出会うことになったのだが──
「おい、この手紙はなんだ?」
扉が開いた。息が止まる。
兄の手に、私の手紙がある。レオネル様に宛てた、昨晩したためたばかりの手紙。
それは庭師にこっそり託すはずだったのに、なぜ……
「ほう、これはまた……盛大にくだらないことをしてるな、お前は」
兄の目が冷たい。手紙を指先でぶらさげ、鼻で笑う。
「“貴方のお言葉を読むだけで、生きていけます”だと? 気色悪い。自分が何者か、わかってるのか? 」
頭の奥がぐらりと揺れる。
「文通なんて、どうせ金目当てだろう。お前のことなんて、誰も本気で──」
──ゴッ!
私は兄の頬を打っていた。
初めてのことだった。
小さな骨が折れたような音と、驚いた兄の顔。
鈍い音が部屋に響いた。時が止まったような、静寂。
兄がこちらを見ている。驚きと怒りが、あっという間に彼の顔を塗りつぶしていく。
「……貴様、俺に手を上げたな?」
その声は、もう兄ではなかった。
氷のように冷たく、鉄のように重たい。
「親父にはもう伝えてある……お前を地下牢に幽閉する」
使用人たちが、すぐさま動き出す。
両腕を取られ、私は抵抗する間もなく引きずられていく。
「離して!」
叫んでも、届かない。
引きずられた先は、屋敷の地下。
石造りの階段を下りていくと、冷たい空気が肌を刺した。
軋む鉄扉の向こう、闇が私を待っていた。
ーー
地下は、息をするのも苦しいほど冷たい空気に満ちていた。
壁は黒ずんだ石で囲まれ、床には水が滲んでいる。
狭い空間に、ひとつだけ置かれた木の椅子。私はその椅子にもたれて座り込み、膝を抱えた。
──何をしてるの、私は。
さっきまでの自分が信じられない。
兄を叩くなんて、考えもしなかった。
私が──誰かのために行動を起こすなんて。
「……今頃、レオネル様は……待ってる」
そう口にした瞬間、堰を切ったように涙が出た。
きっと五日後には、あの宿で待ち合わせていたのに。私はここにいる。濡れて冷たい地下牢で、ひとり。
こんな形で終わりたくない。
あの人の声を聞いて、直接ありがとうを言いたい。
会って、顔を見て、笑いたい──あの人に、ちゃんと……
「……出なきゃ」
私は顔を上げた。
出なきゃだめだ。どんなに醜く足掻いたって、あの人との約束を捨てたくない。
私は静かに、心の中で決意を固めた。
ーー
地下牢に落とされて五日目。
私は、座ったまま膝を抱え、じっと鉄格子の向こうを見つめた。
その日、私は静かに、布団と称されたボロボロの布切れを手に取った。
誰もいない牢内で、その布で輪っかを作る。
そして、石の天井から伸びる古びた鉄の梁に結び目を作る。
それは、誰が見ても一目でわかる──首吊りの準備だった。
わざと、音を立てて椅子を引いた。
そして、梁の下に立って、音を立てながら紐を首にかける。
その瞬間だった。
「おい! 何してやがるッ!」
看守の怒鳴り声。数秒で鍵の音がし、牢の扉が開け放たれる。
私はわざと足元をぐらつかせ、椅子を蹴るふりをした。
「やめろ、バカ! 死んだら困るんだよ!」
看守が駆け寄る。
私は吊られる直前の姿勢でバタつき、男の手が私の腰を掴んだ瞬間──
私は全身の重みを後ろに預けた。
バランスを崩した看守が床に転げ、私はその腕を踏みつけ、ベルトのナイフを奪う。
「っ、な……!」
ナイフを看守に突きつけた。
「殺されたくなきゃ、静かにしてて」
私は静かに牢を出て、走り出した。
「おい! 待て!」
他の看守の怒声が背中から飛ぶ。
待つわけがないだろう。
私は息を殺し、廊下を駆け抜ける。
使われていない貯水路へ向かう裏階段。かつて家畜を出し入れしていた石道。
そして脱出の先、荷馬車の納屋。
運よく一頭の馬が繋がれていた。配送用のぼろ馬だが、構うものか。
足をかけて飛び乗り、私はただ、風に向かって叫んだ。
「……レオネル様!」
私は手紙に書かれていた住所に向かった。
ーー
王都の南門から入った私は、指定された宿の名を探した。
地図にある、少し古びた看板の前で馬を止める。
心臓がうるさいほど鳴っている。
こんな自分を、彼はどんな顔で迎えてくれるだろう。
私は、震える指で扉を叩いた。
「……はーい? どちら様?」
軽い調子の若い女の声だった。
扉が開き、着飾った女が二人、楽しげに笑っていた。
その奥。
──彼が、いた。
「……レオネル……様……?」
名を呼んだ瞬間、私は息を呑んだ。
太った体躯。脂ぎった額。焦げ茶の地味な服を乱しながら、
数人の女の肩を抱き、酒を煽っていた男。
「ん? 誰?」
「私……私です。手紙を……何度も、あなたに……!」
男は眉を寄せ、女たちと顔を見合わせてから鼻で笑った。
「ああ、あれか? 暇つぶしで手紙書いてた……本当に来たの? マジかよ」
心臓が、ぎゅっと握り潰されたようだった。
「でもまあ、文章だけは綺麗だったぜ。口説き文句の参考にさせてもらったよ」
女たちが笑う。
高い声が、私の耳の奥をつんざいた。
「……嘘、でしょ……」
言葉にならなかった。喉が詰まった。
嘘だった。全部嘘だった
美しい言葉も、愛の告白も、全部偽り──私は口を抑えた。
宿を飛び出し、私は石畳を走った。
もう何も聞こえなかった。誰も、目に映らなかった。
角を曲がり、広場の影に駆け込む。
そこで、私は膝をついた。
胃が裏返るような吐き気。喉にこみ上げるものを堪えきれず、
私はその場で嘔吐した。
「っ……はっ……あ、あ……っ……」
胃の中身を全て吐き出した。血の味がする。
もう何もない。最後の希望も消えた。
信じていた。あの言葉たちは、私の命だった。
生きている理由だった。
どうして、どうして、こんな形で終わるの……?
私はふらふらと立ち上がった。
視界が滲む。心音が遠くなる。
──ふと、目の前に看守から奪ったナイフが目に映った。
あ。
心臓が跳ねた。
私に残された道は、一つしかない。
そして、私は屋敷に帰ることにした。
-その数日後、とある地方新聞の記事より-
王都南東にある名門・ハルダン侯爵家の屋敷が昨夜未明に全焼。焼け跡から当主夫妻を含む複数の焼死体が発見された。
全員が原型を留めぬ状態で、刺創や切創も多数確認されている。
現在、長女フィーネ・ハルダンの行方のみ確認されておらず、失踪として捜査中。
現場近くでは、「血まみれの少女が笑っていた」という証言もあり、真偽が問われている。