巳
蛇と言われるのが嫌いだった。
手足が長く、ぬっと縦に長い体と陰険な顔から
よく、蛇男が来たと虐められていた。
私にはやり返す勇気もそれを話の種として皆に迎合する
能力も持ち合わせていなかった。
ただ耐えることが私に出来た唯一の抵抗かもしれない。
そして耐えていればいずれは皆が興味をなくし、
孤独ではあっても平穏な日々に変わるなんてことは無いんだと
私は学ぶことが出来た。
無抵抗な私に対して言葉だけだった虐めは私の所有物への
損害行為、そして身体への直接の暴力へとエスカレートしていった。
また一つ一つの行為の陰湿さ、度合いは加速度的に増していき
際限が無くなっていった。
男を作って出っていった愚かな母の為に酒に溺れ、私を殴ることしか出来なくな
った父のいる家は逃避手段とはならなかった。
常に恐怖に晒されていた私は、恐怖に敏感になりいつしか明確な害意を
向けられると頭の中でアラート鳴るようになっていた。
その騒音に悩まされていた私は私の変革を余儀なくされた。
その為に私がまず始めたのは記録である。いつ、どこで、誰に、何をされたか。
記録方法は基本的にノートに事項を書き連ねることだったが
損壊された物の保管や当時としては珍しいボイスレコーダーによる
音声記録も出来うる限り残した。
その記録はあっという間に膨大なものとなった。
準備の整った私は、記録された一人一人に証拠を残さぬよう
慎重に丁寧に仕返ししていった。
証拠を残さぬと言っても公にはだ
私のこの卑劣な復讐劇に憤慨した主犯の少年は、
さながら聖戦のごとく私への報復、制裁を宣言した。
もちろん私はこれも音声で記録している。
劇的な開幕であった、私にとっての報復戦争、彼にとっての聖戦は味気なくあっ
さりと終了する。
爪の甘い成績優秀な生徒会長殿は、私が全てを記録しているなど
露程にも思わなかったらしく、全ての証拠を学校、親、進学先、
はたまた、常々俺は入ると豪語していた一流企業にばら撒くと言っただけのことだった。
やはり一番の決め手は音声記録だった。
常に体裁を気にしていた彼にはそれを嘘だと言い張る胆力などあろうはずもない。
私は彼が親に失望されるのを嫌っていることを良く知っていた。
主犯を下した私に敵などいるはずもなく、私の強制収容所だった教室は、私の独
裁国家へと変貌した。
私はその時初めて、学校というものが学びを得るところであると悟った。
私は学んだのである。
人間とは愚かで醜く、浅ましい利己的な動物であると。
私は私を含め、人間という種を見下した。
学校では暴君でも家では愚かな父の奴隷であった。
父の素行は日に日に悪化の一途をだどっている。
アラートは鳴りやまない
ふと私は、愚かな父に従っている自分に腹が立ち、父に半ば錆びた
包丁を突き立てた。
人の肉を突き破る感触を私は二度と忘れることは無いだろう。
あっけなく動かなくなった父を私は茫然と見下ろしていた。
なんと静かなことだろう
腹が減ったので何か買い物にでもと思った時自分が血まみれであると思い至った。
このまま警察に連絡した方が、突発的事故を装えると空腹を我慢し
努めて錯乱した状態を装い警察へと電話をかけた。
警察の到着は存外。早く、残り物を食う暇も無かったが、
血の気の引いた少年のようで、今思えば食わなくて良かったよう思う。
私は少年法と父の素行、体の無数の傷に守られ、
私の殺人は不慮の事故になった。
少年院、厚生施設を経て社会に戻った私であったが
一度見下してしまった人と馴染むことが出来ず苦戦を強いられていた。
そんな時に出会ったのが親父であった。
お人好しを絵に描いたような人物であった。
人を信じようとしない私に家をくれた人物。
あるいはこの人が本当の父親であったなら私は歪むことなく
生きていたかもしれない。
意味の無い仮定であるし、現に私はこの人のことすら信用していない。
ただ親父のやっていたヤクザという阿漕な商売は私に合っていた。
情報を集め、相手の弱みを握り、自分と相手の立場を明確にしていく。
この作業が私は好きだった。
組に益をもたらした私は、いつしか組で親父に次ぐ地位となっていた。
所詮、二次団体の小さな組の№2など威張れるものではない。
ただ、この手狭さが気にいっていた私は組を大きくしたいという
野心は抱かなかった。
親父もそうであったはずだが、数年前より人が変わったかのように
組の拡大に邁進し始め、それが嘘のように上手くいった。
私ももちろん手を尽くしたが、運が良かったとしか言いようのない
状況が多々あった。
組が関東有数となる頃には私の名と顔も売れ、私のやり方から
この界隈でも蛇と呼ばれ恐れられるようになった。
今では蛇と称されることに嫌悪感を抱いてはいない。
むしろ喜ばしいと思っている。
心変わりの原因は蛇という生き物が実に臆病であると知ったからだ。
見た目から恐れられ忌み嫌われることが多いが、
蛇の方が人間を恐れている。
それを知った時、どれ程共感したことか。
それから蛇について調べる様になり、現在は飼育すらしている。
愛蛇のスチュワートを撫でる時、私が手袋を外す数少ない機会で、
ヒンヤリとした凹凸を指先で感じていると幸福を感じる。
私が幸福を感じる瞬間はもう一つある。
それは姉御が私の名を呼んだ時である。
基本的にはちょっとしたお使い程度のことだ、
この前、人を殺して欲しいと頼まれた時は驚いたが
それでも認識されていること頼られることに喜びを感じてしまう。
私がこのように人に興味を持つようになるとは少し前の私では
想像も出来なったことだろう。
彼女との出会いは衝撃だった。この世にこんな女性がいると信じられなかった。
外見の美しさもさることながら、全てを受け入れる愛の深さ
私のような人間すら受け入れてしまう。
人を恐れるようなことはなく泰然として揺らぐことがない。
その在り方、生き方に感銘と憧れを持った。
その思いは揺らぐことなく激しさを増していった。
だから親父と結婚することになった時、よく自分を保っていられたものだ。
彼女がすでに親父の女であるのは知っていた。
それだけでも嫉妬に狂いそうだったが、いずれは私の物にと思っていたのだ。
私の方が彼女を理解している。
親父など彼女の外見のみしか見ていない。
彼女も親父に惚れている訳ではない。彼女と恵と真に理解し合えるのは私だけだ。
親父もいい歳で、長くはない。
家族などおらず、組を継ぐのは私しかいない、そうなればおのずと彼女も
私のものとなる。
爺の最後のお遊びに付き合っているつもりで我慢していた。
だが最近になって爺が恵と子を作り、組を継がせようとしている
という話を耳にするようになった。
親父は年甲斐もなく、恵と頻繁に夜を共にしているそうだ。
それを聞いた時、私の中で何かが切れた。
消してしまおう、あの老害はこの世から早く消すべきだ。
慎重に慎重にだ、静かに素早く、いつも通り淡々と。
切れてもここで感情に飲まれるわけにはいかない。
恐怖は常に私の味方、頭の中で鳴るアラートを無視してはいけない。
必ずやり遂げる。恵を私が救う。
そう舌を巻いて、準備を開始した私だったが、親父はあっけなく死んだ。
私が手を下すまでもなく
確かに、親父のここ最近の飲酒量はタカが外れていたが
酔って転んで死ぬなんてあるだろうか。
それもあの親父が?
これは私の望んだ結果だ。
いや望んだ以上。私はこのまま組を継ぐだろう。
私が殺した証拠もない、勝手に死んだのだから。
ともすれば恵にも取り入りやすい。
何もかもまるで何者かに与えられたかのよう。
あっけなさ過ぎて不気味だった。
親父の恐怖に染まった死に顔が私の頭のアラートを激しく鳴らしていた。