(1-09)第一章 天才少年(6)
「分かった。瑠璃の頼みを、引き受けよう」
僕は、背筋を伸ばして瑠璃の目の前に立ち――頷いた。
瑠璃はその答えに微笑んだ。表情を変えたせいで、涙がまた流れ落ちる。
「ありがとうございます」
瑠璃の言葉に、僕はもう一度、頷いた。
「では、すぐに〈契約〉を――」
「それは後だ。時間が惜しい」
僕は、瑠璃の言葉を遮って言う。
瑠璃を助けるために、僕は全力を尽くす。
そのためには、彼女の願いをきちんと把握し、優先順位を間違うわけにはいかない。
瑠璃の言葉から考えるに、〈騎士〉の契約は彼女の目的の助けになるのだろう。しかし、今は、可及的速やかに委員長の無事を確保することが必要だ。
「まずは、正確な制限時間を把握したい。残り十分と言ったか?」
「ジャッ爺! 出て来て下さい」
僕の質問に、瑠璃が空中へ向けて声をかけた。その声に、緑色の毛玉のような何かが、ポンと出現した。
驚いたことに、そいつは意思を持った生き物であることを示すように、動いている。
――なるほど。
これが〈精霊〉という訳だ。正直なところ、本能的に自分の目を疑ってしまうような光景だった。自分が寄って立つ常識が瓦解する感覚に、眩暈がする。
しかし、これから〈魔法少女〉を助けようと言うのだ、これくらいの状況で騒いで浪費する時間はない。
「強制送還までに残された時間は?」
「なんじゃ、小童。無礼なやつじゃ」
ん、やり方を間違えたか。マスコットのような見かけの可愛らしさに似合わず、高位の存在だったのかもしれない。挨拶もない僕の言葉が気に障ったらしい。
つぶらな瞳で怒ってることを主張しながら、緑の毛玉がピコピコと空中を跳ねる。
「ジャッ爺。お願いです、大事な事なのです。教えて下さい」
「むむ。まあ、瑠璃姫がそう言うなら――残り六分四十秒じゃ」
瑠璃がとりなしてくれたおかげで、正確な刻限が把握できた。
「瑠璃。魔法が使えると言ったな」
さすがに、あの高さから落下する小学生を助けるという問題は、生身の小学生二人には荷が重い。加えて、制限時間もかなり厳しい。
魔法でも何でも、使えるものは使う必要がある。
問題は、僕がその魔法のことを、ほとんど何も知らないということだ。最低限の知識を得て、考える必要がある。
委員長を助ける方法を――。
「空は飛べないのか?」
僕の言葉に、瑠璃は悔しそうに唇を引き結ぶと、首を横に振った。
「私は飛べないの。茜なら〈生成〉した炎の勢いで飛べるし、常盤さんなら風を〈操作〉して飛べる。向日葵ちゃんなら〈開門〉で呼び出した〈精霊〉に乗って飛べるかもしれない。でも私はダメ――飛べないの」
今の瑠璃の言葉には、固有名詞と専門用語が多い。それでも、僕はそこから必要な情報を選び取る。
日本語への翻訳の関係か、専門用語――魔法に関しては英語をベースとした言葉になっているようだ。イメージがしやすくて助かる。
「確認するぞ。人によって、それぞれ使える魔法に属性があるのか? 炎とか風とか?」
「そう。私の魔法は『水』」
水か。
水を使った場合――いや、まだ境界条件が定まっていない。確認すべき事項がたくさんある。
「それから、魔法は〈生成〉と〈操作〉と〈開門〉だな? 水を作る、水を操る、そして、門から〈精霊〉を呼び出す。足りないことや、間違っていることは?」
「うん。魔法はその三種類で間違いないよ。でも〈開門〉は、〈精霊〉の召喚だけじゃないの。物をしまったり、取り出したりできる。それから、〈魔法少女〉の衣装に変身したり、今は無理だけど地球世界と地平世界を行き来できるの」
なるほど、おぼろげながら全体像が見えてきた気がする。
「水を大量に〈生成〉して、その反動で飛べないのか?」
僕の言葉に、瑠璃が表情を曇らせる。
どうも、表情を見るに『飛べない』ということが、瑠璃のコンプレックスのようだ。
気遣ってやりたいと感じるが、今はそんな余裕はない。
「私……〈生成〉は苦手で」
なるほど。個人の得意、不得意があるのか。当然だが盲点だった。
「瑠璃は何が得意なんだ? いや、もっと正確に――三種類の魔法、それぞれ全力でやったらどれくらいのことができる?」
瑠璃が、僕の質問に頷いてから応える。
「私の〈生成〉では、コップ一杯くらいの水しか作れないの。それで魔力に限界が来ちゃうと思う」
魔力に限界、これも忘れてはいけないポイントだろう。
「その代わりに、〈操作〉は得意なの。水の形を変えるのは簡単だし、思った通りに動かせるよ。大きな池の水を一度に全部持ち上げても、魔力がなくなったりはしなかった」
「水を空中に浮かべて、飛ばすこともできるのか?」
「うん。できるよ」
瑠璃は一つ頷いてから続ける。
「それから、私が〈開門〉で呼び出せる〈精霊〉は、あんまり種類が多くないの。泳ぎが得意な子が多くて、空を飛べる子はいない。変身は、ほとんど魔力を消費せずにできるよ。見た目の印象が変わるから、人に見られる心配がある時は、変身はしといた方が良いってお母さんも言ってた」
僕の問いの意図を察してくれたようだ。瑠璃からは適切な返答が返ってくる。
いくつもの道筋を、頭の中で組み立てては崩す。
瑠璃を助けるために。
委員長を助ける方法を、考える――。
「最後の確認だ。これでも、〈操作〉できるか?」
僕は、ランドセルからそれを取り出して見せた。
母親が持たせてくれている、小さなペットボトルに入ったお茶だ。
「うん! 多少の成分の違いは関係ないよ。それが『水』と呼べるものなら、問題なく〈操作〉できるよ」
瑠璃は、はっきりと頷いてくれた。
そうか。
それなら――。
僕は、言う。
「条件は整った。あとは思考通りに実行するだけだ」
「え?」
驚いたように、瑠璃はこちらを見てくる。
「残り三分五十秒。ギリギリだが間に合う。まずは、変身してくれ。人目につく可能性がある」
今、疑問に答えている時間はない。それは当然、瑠璃も分かっている。僕の指示に、すぐに頷いてくれる。
「うん。〈開門〉」
瑠璃の声を合図に――。
水色の光が、彼女の周囲に溢れた。
彼女の足元に水が湧き出し、小さな円を描いたかと思うと――瑠璃が、とぷん、とその中に沈んでしまう。姿を消した彼女は、一秒程度の後に水しぶきを上げて水中から飛び上がり、戻ってくる。その時にはもう、彼女は〈魔法少女〉の姿だった。
瑠璃の、肩に届く髪の色が変わって――綺麗な青色になっている。
あの一瞬で変わったのだから、まさに魔法だ――服装が、シャツとスカートの上にベストという姿になっている。どれも光沢のある青系統の布を使った、リボンやフリルがついた、可愛らしいものだと言える。それと同時に、まるで舞台衣装のような非現実感を持っていた。
瑠璃の表情は硬く、薄い唇が引き結ばれている。
そして、こちらを見返す瞳の色も――青色。
まるで別人に見えたが、その真剣な表情だけは、瑠璃のものだった。
初めて目にする『魔法』に――頭で理解していることと、実際に目で見る衝撃は別だと改めて学んだ――思考もできず呆気にとられていた。
「小泉くん、次は――?」
「あ……。ああ、そうだな」
瑠璃の声で、なんとか思考を取り戻す。
ペットボトルを開封すると、瑠璃へと、その口を向ける。
そうだ。
次の指示の前に、言っておこう。
「瑠璃、僕のことは玖郎と呼べ。僕は、瑠璃を助けると約束した。パートナーに遠慮は不要だ」
僕の言葉に、瑠璃は目を見開いた。それから、うんうんと頷いて、笑顔を見せる。
「玖郎くん――うん、分かったよ」
「それから、喋り方も気を使うな。クラスメートに話しかける口調より、丁寧語の方が使いやすいんだろ? 無理をするな」
「あ、ありがとうございます。でも、どうして――」
驚いたように瑠璃が聞き返してくる。
感情がたかぶった時に、思わず丁寧語が出てくる場面が何度かあった。そちらを使い慣れていることくらい、すぐ分かるというものだ。
「ちゃんと聞いていれば分かる。話を元に戻すぞ。委員長が最優先だ」
さあ、続きだ。
「〈操作〉で空中に持ち上げるんだ」
変身の時とは違い、今度は掛け声もなかった。
ペットボトルから勝手に――そうとしか見えない――出てきた、薄緑色の液体が、空中にプルンと浮かんだ。無重力下における水滴の挙動に似ている。いや、それよりも、もっと境界が定まっている感じだ。
「次は、それを、四等分だ」
僕の言葉に、即座に空中の水球が四等分される。
「それぞれをぎゅっと圧縮する。できるか?」
「はい」
それぞれの水球が、ぐっ、とその体積を縮めた。僕の予想よりかなり圧縮率が高い。
これで、この水球の圧力はかなり高くなったはずだ。つまり、押し付けてくる何かに対して、押し返す力が強くなったということだ。
「もう少し低い位置に移動させて。よし、そうだ。瑠璃――その上に乗るんだ」
「はい?」
「二つの水球に、片足ずつ乗せて、自分の体重を魔法で支えるんだ」
おそるおそる、と言った様子で、瑠璃がまず右足を乗せる。体重をかけてみて、驚いた表情を見せるものの、すぐに左足も別の水球に乗せてしまう。
「浮いています。玖郎くん、これなら――」
「瑠璃は飛べる。委員長を助けに行けるんだ」
「私が、飛べる……」
バランスを確かめるように、ゆっくりと上昇と下降を試してみる瑠璃。地面に立つよりは不安定だろうが、すぐに慣れるだろう。姿勢を多少崩したとしても、足場自体が意のままに動くのだ、転倒や落下の危険性はほとんどないと言える。習熟すれば、かなりアクロバティックな動作すら可能になるはずだ。
よし、次は僕の番だ。
「同じ要領で支えてくれ。僕が、残りの二つに乗るから――」
そう言って空中の水球に片足をかける。多少の不安が頭をよぎるが、瑠璃が成功しているのだ。ここで怖がっている場合ではない。
「あ、ダメです――」
瑠璃の声と、突然の喪失感が同時。
僕の足が水滴を踏み損なって、まるで階段を踏み外したかのように――僕は無様に地面に転がってしまう。
「何だ……?」
「ふん。偉そうに瑠璃姫に指示していたくせに、格好悪いの。小童」
先程の、ジャッ爺とかいう〈精霊〉が出てきて僕を見下ろしてくる。こいつ、まだいたんだな。
いや、それよりも。
今の反応は、何か不自然だった。
「水が、僕を支えなかった……?」
「これだから地球世界の人間は。良いか、教えてやるぞ? この世界には、偉大なる〈保護魔法〉がかかっておるのじゃ。万が一、地平世界の魔法使いが良からぬことを企んだとしても、この〈保護魔法〉のおかげで地球世界の人間は守られるのじゃ」
緑色の毛玉は、偉そうに続けた。
「〈保護魔法〉は、地球世界の人間が魔法による影響を受けないようにする魔法なのじゃ。だから、小童は瑠璃姫の水の魔法を踏み抜いた訳じゃな」
「……。ふん、なるほど」
僕は、納得した。
とすれば、この〈精霊〉は――いや、それは後回しにしよう。時間がないのだ。
今は、それよりも先にやるべきことがある。
「ごめんなさい、玖郎くん。〈保護魔法〉のことを説明していませんでした。〈騎士〉になれば私の魔法で一緒に飛べると思いますが――」
コツを掴んだのか、すいっ、と滑らかに地面すれすれまで降りてくると、瑠璃は心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「いや、状況は理解した。問題ない。ここからは、瑠璃が一人で行くんだ」
瑠璃の言葉を遮って、僕は言う。
もちろん、二人で飛べればより安全で確実な方法が選択できた訳だが、一人だとしても根本的な方法は変わらないのだ。
そう。
空が飛べるなら、彼女一人でも助けに行ける。
「瑠璃、忘れるな」
僕は、最後に瑠璃に言う。
「目的を見失うな」
それは、心構えだ。
「あの〈精霊〉に手が届きそうになれば、〈試練〉に合格できると思ってしまうかもしれない。でも、それは相当の余裕があれば、だ。委員長を助けることが最優先だ。絶対にそれを忘れるな」
「――はい」
僕の言葉に、瑠璃が真剣な表情で頷く。
「それから、不測の事態が起きるかもしれない。どんな時でも、思考することを止めるな。考えて、考えて、考え続けろ。目的を達成するために、自分の残った魔力で何をするべきなのか、常に考えるんだ」
「分かりました」
瑠璃の答えに、僕は頷き返す。
そして――。
僕は、バン、と瑠璃の背中を叩いた。
これは、おまじないだ。瑠璃に気合いを入れるための――僕が彼女を信じて送り出すための、おまじないだ。
大丈夫。
頑張って、行って来い。
「瑠璃、飛ぶんだ。委員長を、助けて来い――!」
「はいっ!」
ふわり、と。
瑠璃は高度を上げ、次の瞬間、魔力にものを言わせて加速し、空を目指す――。