(1-08)第一章 天才少年(5)
その瞬間でした。
私の視界に、黒い影が飛び込んできます。
驚きながらも、反射的に後ろへと飛び下がります。
空を切り、その勢いのまま地面に叩きつけられたのは、白い色のムチのようにしなる『何か』でした。――そう認識できた時には、横なぎに振るわれた、別の白いムチが私の体を弾き飛ばしていました。
衝撃と一瞬の浮遊感。
そして、次の瞬間には、背中から地面に叩きつけられてしまいました。
息がつまり、目に涙が浮かびます。
それでも、歯を食いしばり、私は必死に立ち上がります。
なぜなら、吹き飛ばされる寸前、私の視界には第三、第四の白いムチが――今なら、それが軟体動物が持つ触手だと分かりました――朝美ちゃんの口を塞ぎ、背後から体と両手両足に巻き付いて持ち上げるのが見えたからです。
「朝、美ちゃ、ん――」
咳き込みながら顔を上げると、そこに朝美ちゃんの姿はありませんでした。
勘に任せて、目をさらに上に向けます。
「朝美ちゃん!」
もう一度、今度こそしっかりと、名前を呼びました。
「んー! んー!」
私が見たのは、空中に――小学校の校舎の二階程の高さに、ふわふわと浮かんでいるクラゲの姿でした。私の身長ほどもある、巨大なクラゲです。半透明で青白い色の、傘状の頭部を動かして、上昇を続けています。そして、そのクラゲに捕まってじたばたともがいている朝美ちゃんの姿。
空を飛ぶ巨大なクラゲ。
この地球世界で、そんなものが小学生を捕獲してふわふわ空を目指しているなんて――我が目か、現実か、夢でないかを疑うような光景です。
しかし、私は〈魔法少女〉です。
その非現実的な生き物の正体を知っています。
それは〈精霊〉です。
魔法によって生きる、人間とは違う不思議な生き物。他の生物と同じように、自分の意志や本能を持っていて、明らかに他の生物とは違う生態系で生きている――地平世界の生き物です。
地平世界の魔法使いなら〈開門〉の魔法で、こちらの世界に呼び出すこともできますが。それが、なぜ突然、こんな場所に――?
「瑠璃姫! なんと、遅かったか!」
突然、声をかけられて、私は驚きました。
しかも、それはよく知っている声だったのです。
「ジャッ爺!」
「瑠璃姫。お怪我はありませんかな?」
ジャッ爺は、〈精霊〉達と地平世界の人間との交渉役をしている、とっても偉い〈精霊〉です。そんなジャッ爺がこの地球世界にいるのは、王位継承試験の審判を、この〈精霊〉がやっているからでした。
ジャッ爺の見た目は、私の頭くらいの大きさの緑の毛玉です。同じく緑色の小さな毛玉のような手足が、頭に直接くっついています。可愛い目が毛の間から見えていて、シルクハットをかぶり、ステッキを握っています。喋っても、緑の毛のせいで口は見えません。
私を含めて王女達は、このジャッ爺に、小さい頃からよく遊んでもらっていました。小学生になった今でも、時々面倒を見てもらうこともあるくらいです。
そんなジャッ爺の声に、私は少しだけ冷静さを取り戻すことができました。
「私は大丈夫です。それより、ジャッ爺、朝美ちゃんが!」
「なんと! フーセンクラゲのやつめ。勝手に抜け出した上に、地球世界の女の子をさらって空の散歩とは、とんでもないやつじゃ」
私が指差す空を見上げて、状況を見て取りジャッ爺が言いました。
「瑠璃姫。実は、姫の最初の〈試練〉で『フーセンクラゲの捕獲』という課題を出す予定だったのじゃ。しかし、ちょっと待ち時間が長くて退屈したのか、勝手に抜け出してしまったようじゃ」
ジャッ爺は言いました。
「ううむ。しかしまあ、慌てる必要はないかの。ちょっと予定とは違うが、〈試練〉を開始しても良いかもしれんの。うむ。あのフーセンクラゲを捕まえるのじゃ。制限時間は十五分じゃよ」
〈試練〉。
それは、王位継承試験の課題のことです。出題された問題を、魔法を使って解く――巻き起こる様々な問題を解決すると言う課題で、その時の結果や行動が採点され、次の女王を決めるための点数になるのです。
「待って下さい、ジャッ爺。朝美ちゃんはどうなるんですか?」
しかし、今は、朝美ちゃんの安全の方が重要です。
万が一、あの高さから落ちでもしたら――既にフーセンクラゲは校舎よりもずっと高い位置にいて、さらにふわふわと上昇を続けています――怪我ではすみません。
「少し我慢してもらうしかないの。見たところ気絶しておるし、後で誤魔化せばなんとかなるじゃろう」
ジャッ爺の言葉は、そんな楽天的なものでした。
「そんな……」
「それに、今から十五分後に〈強制送還魔法〉が発動するからの。もし瑠璃姫が何もできなくても、フーセンクラゲは地平世界に戻る。お友達も解放されますぞ」
「――っ」
私は、息を呑みました。
十五分で、解放――。
その情報は、希望ではありません。
むしろ、絶望へのカウントダウンです。
「空中で、あんな高さで、〈強制送還魔法〉が発動しちゃったら――朝美ちゃんは」
自分の顔から血の気が引いていくのが分かりました。
「むむむ! このままでは、真っ逆さまに落ちてぺちゃんこじゃ。……まずいの、命に係わるかもしれん」
ジャッ爺の言葉は、最悪の状況を意味していました。
私の王位継承試験に巻き込まれて、朝美ちゃんが死んでしまう。私の親友になりたいと、そう言ってくれた朝美ちゃんが――死んでしまう。
それは。
それは、ダメです。
絶対にダメ――。
でも、私の魔法じゃ空は飛べません。受け止めようにも、水がありません。作ろうとしても、コップ一杯も水を作ったら、魔力がなくなってしまいます。
「どうしましょう……。どうすれば……」
落ち着いて。
魔法を――。
いや、助けを――。
ダメです。考えが全然まとまりません。
十五分。
朝美ちゃんが、死んでしまう――。
「あ――」
混乱して真っ白になった頭の片隅に、小泉くんの顔が浮かびました。
そうです。
彼なら――。
――彼なら、なんとかしてくれるかもしれません。
どうしてそう直感したのか、自分でも分かりませんでした。彼は、私の頼みは聞かないと、そう言ったのですから。
それでも、残り十五分――そのうち何分かは、既に経過してしまったのです――詳しい事情を話さずに協力してくれるとしたら、彼しかいません。
その時。
「どうした、瑠璃? 顔色が悪いぞ」
声が聞こえました。
それは、その時、私が一番聞きたかった声でした。
【玖郎】
「小泉くん!」
時間的にかなり前に別れたはずの瑠璃が、顔色を青くしている様子を見かねて、声をかけてしまった。
まさか、あの後からずっと立ち尽くしている訳ではないだろうが。
その瑠璃は、僕の声に叫ぶように呼び返してくる。
弾かれたように視線をこちらへ――何故か空を見上げていたのだ――まっすぐに僕に向けてくる。
その表情で直感する。
ただ、立ち尽くしていた訳ではなさそうだ。
どうやら、非常事態らしい。
「まずは落ち着け。話は聞くから、大きく深呼吸しろ」
そう言いながら、僕は心の中で苦笑してしまう。
非常事態とはいえ、否応なく瑠璃の問題に関わってしまう自分に――苛立つどころか、安堵している自分に。
僕を見る瑠璃の表情は、まるで僕の助けだけが、ただ一つの望みだと言わんばかりだ。そんな状況を――嬉しく感じてさえいるのだ。我ながら悪趣味極まりない。
僕の性格的問題点とは別に、どうやら僕の感情的な部分は、瑠璃の頼みごとを断ってしまったことを、かなり後ろめたく感じていたらしい。
僕自身にも、その心境の変化は不思議なものだ。
いや、そうか。
先程、去り際に残した彼女の言葉に思い至る。『優しくしたいのに、それを許してもらえない私と、本当は優しいのに、それを自分に許していない小泉くんが、似ていると思いました。あなたとなら、一緒に、優しくできる世界を作って行けると思ったんです』――か。
しかし、自分の心理状況など、詳しく分析している時間はないようだ。
僕の言葉通りに深呼吸した瑠璃が、真剣な――先ほどベンチで見せたものとは比較にならない、まるで命のかかった頼みだというような――そんな表情で、改めて僕の目を見た。
ああ。
後から冷静に考えれば、僕はその表情を見ただけで――その時点で、決めていたのかもしれない。
僕は、こんなに真剣に、何かを願ったことなんてない。
僕に、そこまで必死にやりたいと思えることはない。
だから――。
「瑠璃、状況の説明を」
「地平世界から紛れ込んできた〈精霊〉に、朝美ちゃんが捕まったの。今いる場所は、あそこ――」
驚いたことに、瑠璃は空を指差して見せた。
僕はその方向へ目を凝らし、確認する。確かに、ほとんど点に見えるような何かが、空に浮いている。
「フーセンクラゲ自体は、〈強制送還魔法〉で地平世界に送り還される。その時間まで、あと十分もないかもしれない。でも、もしもその時、朝美ちゃんが空中にいたら――あの高さから落ちて、死んじゃう。フーセンクラゲを捕まえるのが〈試練〉の課題だけど、私は、そんなのどうでも良い。朝美ちゃんを助けたいの」
なるほど。
かなり急いだ説明だが、要点は十分に理解できた。
この事態を打開するために、まず確認すべきは――。
「小泉くん」
僕が口を開くより先に、瑠璃が決然とした表情で声を上げた。
「私を、あなたにあげます」
「あなたの恋人になります。結婚も、なんとかします。だからお願い――」
瑠璃はゆっくりと頭を下げた。
ああ。
僕は、瑠璃のその表情を、仕草を、本当に感動してしまうほど――綺麗だと思った。
王の威厳か、為政者のカリスマか、あるいは聖人の後光か。
「――お願いです。私を、助けて下さい」
目が離せない。
凛として立つ彼女の一挙手一投足が、僕の全てを魅了していた。
「――私は、朝美ちゃんを助けたいのです」
そこで、彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれて落ちた。
――そうか。
報酬は、十分すぎるほどだ。
わかった。
瑠璃が、きみ自身を差し出すのなら。
僕も、僕自身を差し出して――きみを助けよう。
「分かった。瑠璃の頼みを、引き受けよう」